長期的雇用と自己責任について

 数日前のエントリー「雇用流動化論の失敗」の続きともいえるところを以下で抜粋。『日本型サラリーマンは復活する』は、いまから考えると、現在に至るおよそすべての僕自身の考えを全面展開したもので、いま読んでも自分で勉強になったりする(笑)。いまはこの本でとりあげたテーマを三つの方向で深めようとしている。今度出るものはおいといて、もうひとつはネットカフェ難民論、もうひとつは福田徳三論である。三つとも最優先で取り組んでいるのでそのうち(ひとつは来週末には出るだろうけど)。


図表や参照文献の表記などは省略。表現も元原稿のまま


長期的雇用と自己責任(『日本型サラリーマンは復活する』)より


 ところで日本型雇用システムが九〇年代から今日までの不況の原因のひとつであるという批判がある(野口悠紀雄『一九四〇年体制』)。しかしこの批判は妥当ではない。九〇年代におけるデフレ圧力こそが不況の真の原因である。デフレによる雇用コストの増大が日本企業の活力を削ぎ、雇用システムのきしみをもたらしている。つまり日本型雇用システムが悪くてデフレ不況になるのではなく、デフレだからこそ日本の雇用システムが限界に達しているのである。

 九〇年代を通してデフレが雇用コストをひきあげていたことを原田泰・江川暁人の研究は明瞭に実証している。原田・岡田によれば、この一〇年間の実質賃金の動向をみてみると、一九九七年までは増加傾向がつづき、その上昇率は実に一〇%に達する。このため経営への人件費などのコスト圧力は相当高かったといえる。実質賃金の上昇を解消するために、月給、ボーナス、残業手当の削減、さらに中高年を中心とする人員削減をともなった大幅な人件費の減少政策がおこなわれた。時代は「リストラ」が流行語となった。

 八〇年代のインフレ率は二・四%、それが九〇年代では一・〇%にすぎず、ここ数年はマイナスである。他方でマネーサプライの伸び率も減少し、八〇年代では約九%であったのが、九〇年代ではわずか三%台にすぎない。日本の年功型賃金は三〇代と五〇代のサラリーマンを比べてみるとその格差は約二倍である。つまり毎年3.5%ずつ賃金が上昇してほぼ二〇年で倍増するシステムとして機能している。この昇給はほぼ自動的なので、年功型では賃金が下方硬直性をもつといわれている。ところがこの場合の賃金は名目値なので、物価が緩やかに二〜三%ほど上昇してくれれば、経営側の努力はかなり削減される。それにたいして今日のようにデフレ作用が働くと、経営努力とは無縁なかたちでリストラを余儀なくされる。

 いいかえれば、デフレが、経営陣や現場労働者たちの日々の努力を無にしてしまうほど高い負担を企業活動に強いているといえる。原田・岡田は、「金融引き締めによる物価上昇率の低下が名目賃金の下方硬直性と衝突して九〇年代の大不況をもたらした」と結論している。

 さらに九九年以降から現在までをみると、事態はより深刻である。九七〜九八年までは名目賃金の下方硬直性が観察されたという(Kimura Takeshi and Ueda Kazuo“Downward Nominal Wage Rigidity in Japan”)。すなわちこの時期までは、不況をボーナス調整などの伝統的な手法でのりきり、雇用システムの中核ともいえる年功型賃金や長期雇用などには深刻な影響がまだはっきりしていなかった。だが九九年以降から名目賃金の下方への伸縮性がみられるようになったと木村・植田論文は指摘している。統計データを観察するかぎり、この名目賃金の下方硬直性の緩みは二〇〇二年になっても継続していると思われる。この名目賃金の下方硬直性の緩みこそ、人員整理・解雇の増加、さらには成果主義に名を借りた賃金引き下げなど、日本の雇用環境の荒廃状況を示すものである。

 ところで「日本型雇用システム」がなぜ名目賃金の下方硬直性をもつのかを、再度整理しておこう。
たとえば、年功序列制は年齢によるわずかな昇給・職務の差でサラリーマンたちのやる気を刺激してきた。よく日本の雇用は「結果の平等」を確保してきたといわれるが、それはこのわずかな待遇の格差を具体的にはさしていた。人とのわずかな給与や職階の差がもたらす「みせびらかし効果」に刺激されて職務にはげんできたといえる。

 つまり「日本型雇用システム」は、この「みせびらかし効果」を巧みに用いることで、サラリーマンたちの競争意欲や生産性への効果を導きだしたのである。また他方では、この「みせびらかし効果」を年齢の上昇とともに半自動的に確保してくれるという信頼のもとサラリーマンたちは企業に忠誠を尽くした。企業のなかで養われる組織への忠誠や信頼関係が年功序列の便益とすれば、年齢による半自動的な昇給・昇格がコストと考えられることはさきに指摘したとおりである。

 だが、経営不振を打開する手段として、このようなコストを削減することは、短期的な利益の獲得には成功するが、労働者の労働意欲(みせびらかし効果)を過剰なまでに削ぎ、長期的にはマイナスの効果をあたえてしまう可能性があることは第二章で論じたとおりである。

 実は、年功賃金制を放棄した効果はすでにあらわれている。図表 は賃金の年功度と転職希望者比率の関係である。賃金の勤続年数の格差が低くなればなるほど、企業を辞める人間の数が増加していることがわかる。これは年功賃金(「みせびらかし効果」)が放棄されるとともに、サラリーマンたちの勤労意欲を失わせていることを明瞭に示している(富士総合研究所『2001年日本経済の進路』)。


このように不況期における名目賃金の下方硬直性を損ねることが、長期的な労働者のモラルや「社会資本」としての信頼性・チームワークの精神などを破壊してしまうことは、日本にかぎらず、アメリカでもよく知られている(Bewley,T,F Why Wages Don't Fall During a Recession)。さらに「社会資本」の損失だけでなく、長期的な雇用を放棄することは、企業の人材育成という観点からも疑問である。

  能力の評価に時間をかけ、短期的な決着を避け、ゆっくりとした競争と選抜ができるのが、これまでの「年功制」の長所だった。それは短期的に人間の力量を判断することは難しいという考えに基づいており、こうした長期的な視点のもとで初めて、個人も組織全体も、リスクをとりながら生産性を上げえたのである。自己責任の原則のもとで、リスクをとってはじめて利潤があがるという自由競争の大原則を考えれば、リスクを回避するような短期評価のシステムは、もはや経済活動に生気を与えることはできないのは当然である。(猪木武徳『自由と秩序』九七頁)

自由と秩序―競争社会の二つの顔 (中公叢書)

自由と秩序―競争社会の二つの顔 (中公叢書)

 現行のリストラブームは、「日本的雇用システム」という制度を変更することによってこの賃金の硬直性の水準をひきさげることをめざしている。しかし高コストとして問題になっているのは「実質賃金」の上昇であった。簡単にいえば実質賃金は、名目賃金を物価水準で割ったものである。実質賃金を下げるには、名目賃金を調整する(=日本的雇用システムを破壊する)だけでなく、物価水準を調整する(具体的には緩やかなインフレをめざす)ことでも可能である。しかもこれは、物価水準のコントロールを使命とする金融当局たる日本銀行が実行できることであるし、日本銀行にしかできない社会的任務でもある。個々の経営者や労働者の血のにじむような努力や犠牲ではなく、日銀当局者がデフレ退治の政策を採用すればすむことなのである。どちらが社会的な犠牲がすくなくてすむかは自明であろう。

 このデフレ不況による経済全体の停滞を、産業調整の一環と誤って認識し、膨大な失業も調整過程の産物であると公言してはばからない「経済学者」がいる。また、雇用の流動化をはかることで、望ましい産業を創出するという考え方がよく聞かれる。しかしそのような発想は倒錯したものである。デフレによって窮地に立っているのは、なにも「日本型雇用システム」を採用している企業だけではない。すべての産業が大なり小なり労働生産性や収益性に悪影響をうけているのである。経済全体の労働需要が潜在的にも顕在的にもデフレ圧力によって減退しているときに、雇用の流動化(この場合はまさに失業の別名であるにすぎない)を促すことは、縮小するパイを争って奪い合う行為に等しい。むしろ経済全体のパフォーマンスを拡大したうえで、産業間の人的資源の移動が円滑になるように種々の規制や既得権の撤廃をはかることが望ましい。失業の谷底に落としてから、さあ人間を変えてください、成功したらうまくいきますが、失敗したらそれはあなたの自己責任ですよ、と言い放つことは、「経済学者」たる以前に問われるべき社会的罪悪の姿である。

日本型サラリーマンは復活する (NHKブックス)

日本型サラリーマンは復活する (NHKブックス)