いわゆる「新前川レポート」的なものを読む

 大竹文雄氏作成の「グローバル経済に生きる −日本経済の「若返り」を −」http://www.keizai-shimon.go.jp/special/economy/item1.pdfを読む。一言でいうと無残である。確か報道では新しい「前川レポート」をつくる、という趣旨だったように憶えている。今回の新「前川レポート*1は、その批判と成果(??)の上に立脚しているはずだが、残念ながらその種の作業が行われ活かされているのか疑問である。

 「前川レポート」というのは1986年に当時の中曽根康弘首相の私的諮問機関が発表した文章である、少なくとも経済学者の側の批判では小宮隆太郎氏らによってその政策目的と政策手法の組合せ、採用されている(非)経済学的発想の是非をめぐって議論が行われてきたものである。そしてほぼ「前川レポート」については以下の評価が妥当する。

 「前川レポート」は日本が黒字減らしをすると宣言し(言い換えると日本の黒字が「悪い」という認定)、そのために今日の「構造改革」といわれるような政策で輸入拡大を行うことであった。なおその「構造改革」の中にはなぜかアメリカ側の「輸入数値目標」の受諾のようなものまで含まれていた。もちろんこれは貿易黒字・赤字という貿易不均衡をただ単なる輸出・輸入の関係のみに注目し、マクロバランス(貯蓄・投資バランス)を忘却したただ単なる「妄説」(小宮氏の表現)である。

 「以上のように、政治家や政策担当者も含めて、人々は一般に、貿易不均衡とは要するに輸出と輸入の差額であり、それは、市場の開放性、「国際競争力」など、もっぱら輸出入に影響を与えると思われる要因によって決まると信じているようです。しかしながら、特定の財貨サービスの貿易がいかに制限されていようとも、資本流出入が生じれば貿易不均衡もまた必ず生じるのです」(野口旭『グローバル経済を学ぶ』ちくま新書、一部表現改変)。

 そもそも貿易黒字が削減しなければ「ならない」ものかというとそれもまた意味が不明なものであったことはいうまでもなく、そして貿易黒字の削減に「構造改革」的なものや、政府が貿易の大きさを意図的に左右できる、という発想も間違いである。

 この「前川レポート」的発想は「日本型システム」は世界経済(少なくともアメリカとの協調)に不適応であり、「構造改革」が望ましい、とするものから、やがて「バブル」経済の発生、90年代の停滞もこの「構造改革」の遅れである、と議論はスライドしてきた。

 このような「前川レポート」がなぜ復活したのか? その考察は他の人にまかせる。しかし今回の報告もこと大竹氏の文章をみると、

 貿易黒字の削減目的はないものの、今回はグローバル化・IT化の下での「若返り」が政策目的であり、そのための「構造転換」が要求されている。

 しかし今回のレポートもまた大竹氏の従来の主張ともシンクロするのであるが、日本の長期停滞を「構造転換」の遅れ、として認定する主張の一種であり、私はそのような長期停滞の理解は誤っていると思うので賛成できない。そしてこの根深い対立は置いておくとしても、はなはだ疑問な諸点がサバイバルしている。

 例えば無定義な言葉が多く、それが政策課題の置かれた状況、目的、手段として利用されすぎている。

「? 飛躍的な技術革新 バイオやナノテクといった先端分野の研究開発が急速に進展し、 IT、環境・エネルギー技術、金融技術等が、製品、コンテンツやビジネスモデルに一大変革をもたらしている。デザインやブランドも高い付加価値を生むようになっている→「付加価値」とはなんだろうか? それが多い「技術革新」を生み出すことが、経済の「若返り」にどう結び付くのだろうか?

「? 多くの部門で競争力が相対的に低下 わが国の競争力に対する評価も、全体的な指標で見る限り、低下している。IMD(国際経営開発研究所)世界競争力ランキングで見ると、1993年には1位だったが、2008年には 22位と順位を下げている。この背景にあるのは、グローバル化への取り組みの遅れである。EPA/FTAへの取組みを見ると、発効済み協定相手国の貿易額比率は、米国 35%、 EU72%(域内を含む)、中国 19.5%に対して、わが国は9.4%にとどまっている 。東京証券市場での外国企業の上場数は、2007年 25社と1991年127社から大幅に減少している6」→「競争力」とはなんだろうか?この「競争力」の順位がもつ経済学的な意味はなんだろうか? そしてこの「競争力」低下の原因とされる「グローバル化への取り組みの遅れ」は、協定相手国の貿易額比率の多寡、外国企業の上場数で評価されるべきなのだろうか?

 これらは一例にすぎないが、それはそれとしてやはり根本的な問題として日本経済の「若返り」に「構造転換」が必要なのだろうか? 本報告では、いま現在に至るまでの日本経済の老化=「若返り」の失敗があった、という理解であり、それは「構造転換」の失敗であるらしい。

 その認識が典型的なのは以下の文章だろう。

「高度成長期につくられた、いわゆる日本型経済システムは、終身雇用、株式持合い、系列取引、メインバンク制など、長期の固定的な取引関係を特徴としていた。しかし、グローバル化、IT化など大きな環境変化により維持が困難になり、その結果、不十分な形で新しい仕組みが割り込み、ひずみが生じている。
そのひずみが典型的にあらわれているのが、非正規雇用の増加である。既存の終身雇用・年功賃金に手をつけずに、過剰雇用を削減しようとすれば、その調整弁はどうしても新卒採用の抑制と非正規雇用の活用に向かう。しかもグローバル競争の圧力が持続する状況下で、雇用制度の抜本的な改革が遅れ、正規、非正規間の格差が長期固定化されようとしている」

 この大竹氏らの見解についての批判は著作でも何度も書いたがこのブログの過去エントリーを利用して再掲載しておく。


ひとつはこれhttp://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20060531#p4である。

大竹文雄森永卓郎論争メモ書き
 旧ブログのメモをより原稿ぽく書き直したもの。

 「格差社会」の中心ともいえる若年層の所得格差拡大は、長期不況が原因だということで経済学者の意見がおおよそ一致している。だが格差社会論者の間には微妙な温度差がある。例えば大竹文雄大阪大学教授は長期不況が所得格差の悪化をもたらしたが、労働市場の構造問題がさらにこの不況の深化に決定的な役割をもっていると考えている。既得権者(既存正社員)の力が不況の下でより強まり(=リストラに抵抗する)、そのため交渉力が相対的に弱い新卒採用者の減少を生み出してしまったというわけだ。採用されなかった多くの若者はアルバイトやパートとして生活していかざるをえない。そのため大竹氏は既存正社員の既得権を削減することを主張している。

 大竹氏はタクシー業者を例に次のようにも述べている。

規制緩和がなかった場合、既存の運転手の所得は低下しなかったかもしれないが、不況で会社をリストラされた中高年がタクシー運転手として再就職することもできず、失業者になったか、より低い賃金の仕事に就いたはずだ。つまり、規制緩和がなければ所得格差はさらに大きくなっていた可能性が高い」(大竹文雄「『格差はいけない』の不毛『論座』4月号)

 森永卓郎獨協大学教授はこの大竹氏の議論を批判した(「金融資産への課税強化を」『世界』5月号)。森永氏の批判の要点は、少しくだけた調子で書けば、「不況の中で、規制緩和で失業が減少し、またタクシー業者より賃金の低い職業に就かないですむようになるなんて考えるのは難しい。タクシー業者の例でいうと、失業しないよりも働くことを選ぶ選択肢の中で最も待遇の悪い選択肢であることだってあるし、僕の見聞したところその可能性の方がよほど大きいんだよ」という趣旨だろう。私もまた森永氏と同様に格差拡大の原因が不況ならば正しい不況対策でこの問題に対処すべきだと思う。

 長期不況を解くキーはデフレが将来も続くと考える人々の期待にある。日本の長期停滞の特徴であるデフレとゼロ金利の状況を考えてみよう。例えば目にする名目利子率はゼロであっても、デフレが数%続くと予想すればそれだけ実質利子率は高くなり景気を悪くする。日本の不況がこれほど長く続いたのはこの人々のデフレ期待が容易に払拭できなかったからである(流動性の罠への直面)。そしてこの金融面の不調整が、労働市場の賃金の下方硬直性と衝突すること(既存正社員の交渉力を高めて新卒採用を制限すること)で失業を高めてしまった、というのが大まかな長期不況のシナリオである。

 以上から大竹氏の主張するような労働市場規制緩和を行っても不況対策としては的外れになる。なぜなら既得権者の既得権を緩和してもそのこと自体が不況対策としてデフレ期待を解消し、所得格差の改善に貢献することはないからである。所得格差の拡大は市場の責任ではなく、金融政策の失敗の産物なのである。

もうひとつはこれhttp://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080530#p2である

ボ版・経済論戦その2
いままでの投稿(ボ版は基本的に内容は無保証)

ボツ版・経済論戦その1http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080529#p2

2 構造問題主義

 構造問題とは、政府の不適切な規制や政策の歪み、制度の欠陥などが原因となって、資源の効率的な利用をするインセンティヴが歪んでしまうことである。例えば税金を使って誰も利用しないような道路や箱物施設を無駄に建設していくような国や地方公共団体の活動などを想起すればわかりやすいだろう。いま労働・資本などの生産資源を完全に利用したならば実現される経済の大きさを「潜在GDP」と名付けよう。またこの潜在GDPの成長率を「潜在成長率」とする。国内の構造問題としては、公務員制度や独立行政法人改革、都市再生計画、公的金融機関の統廃合、財政支出の中味の見直しなどが含まれている。これらの構造問題を解決すれば、既存の生産資源を効率的に利用できるので、潜在成長率の上昇に貢献することになる。また経済のグローバル化をうけて、構造問題を生み出す政府の規制緩和や公共部門の非効率性そのものを改善すべきである、ということも言われている。そして構造問題の解決がうまくいかなかったがために、日本が隘路にはまり込んでしまっている(長期的に停滞している)、と考えている人たちが構造問題主義に立脚している人たちである。



 この立場の典型は、「構造改革なくして景気回復なし」などのスローガンで著名だった小泉純一郎元首相であり、彼を支えた当時の竹中平蔵(現慶応義塾大学教授)経済財政特命大臣ら周辺のエコノミストたちである。小泉政権下で発行され、竹中平蔵氏が指揮した、当時の『経済財政白書』などには、彼らの構造問題主義が典型的に示されている。例えば『平成十三年度版 経済財政白書』を見てよう。そこでは企業の設備投資計画は、(経済全体で算出された)将来の潜在成長率に依存するという因果関係が提起されている。また期待潜在成長率が一%上昇すると、設備投資は二−四%上昇するという関係を導き出し、それゆえ期待潜在成長率の一%の上昇は、現実の経済成長率を〇.三%−〇.七%上昇させると書かれていた。



 いいかえれば、期待成長率は自己実現的な性格(将来の予測がそのまま現実化する)をもつと考えていたようだ。期待成長率が高まれば設備投資や消費が拡大し、現実の経済成長率が押し上げられる。現実の経済成長率が高まれば期待成長率もあがるというわけである。この際に期待潜在成長率の上昇に寄与するのは、「構造改革」への政府への強い意思表示である。



  さて構造問題主義では、日本経済が直面する「構造問題」のために高生産性産業に人的資源、物的資源がスムーズに移転できないために、将来性のある産業(例えばIT関連産業や福祉、介護サービス、金融業等)の育成が停滞している、と考えるのが定番である。このこと自体はおかしいことでは無論ない。この資源の移動がスムーズにいくために、「構造問題」をとりのぞいて新しい産業の創出・育成をはかるというものである。こういった資源配分がスムーズにいかない要因として構造問題主義が特に強調したのが、「不良債権による金融システム機能不全説」と「日本システム機能不全説」の2つの考え方である。これらの二つの見解については後の章で詳細に論じる予定であるが、ここで予め指摘しておきたいのは、この不良債権の存在や機能不全にある日本システムの存在を淘汰していき、より効率的な金融システムや日本システムに転換していく、ということに注目すれば後に概観する「清算主義」と結び付く考え方でもある。



 図表1では構造問題主義の考え方が描かれている。構造問題主義では、90年代のある時点で、主にふたつの原因(不良債権による金融システム機能不全と日本システム機能不全の両方かいずれか)でデフレギャップが発生する。デフレギャップというのは、経済の現実の大きさがその潜在的GDP以下であり、その場合に物価水準をみればデフレーション(デフレ;継続的な物価の下落)になっていることをいう。そして構造改革へのコミットを力強く行うことでこのギャップを解消し、経済の潜在GDPに見合った経路に戻ろうというわけである。図表1ではC点から始まり、従来の潜在GDPのトレンド(D)に復帰し、さらに構造改革によって従来の潜在成長経路を上回るトレンド(E)にもっていくということである(図表1は省略)。



 当時、小泉政権の近くにいた島田晴雄慶応大学教授による530万人の「雇用創造の構造改革」や、東京大学教授で経済財政諮問会議委員の吉川洋氏が主張していた需要創出の構造改革もこのCDEの径路を実現しようとするものである(島田晴雄吉川洋『痛みの先に何があるのか―需要創出型の構造改革』(東洋経済新報社、2002年))。いうなれば「構造改革」の実現への期待によって、総需要(設備投資、消費の増加など)と総供給の増加という一挙両得が可能になると、竹中氏、島田・吉川氏らは考えたのであろう。

 ところで構造問題の解決がうまくいっていない、と考える人たちにも極端には二類型存在していると先に指摘した。構造問題主義と対極をなす意見は、以下の慶応大学教授の金子勝教授らの次の発言に典型的なものである。

「一方、一九八九年におけるベルリンの壁の崩壊から九一年の旧ソ連の崩壊を契機にして、市場原理主義の暴走が始まった。実際、一九九〇年代は、グローバリゼーションを礼賛する論調で幕が開け、アメリカ・モデルは「グローバルスタンダード」として世界中に「強制」されていった。だが、金融自由化を中心とするグローバリゼーションは、世界中でたび重なるバブル経済とその破綻をもたらした。その結果、世界経済は同時デフレ傾向を強め、長期停滞局面に入りつつある。さらに、市場原理主義に基づく規制緩和と自由競争主義による経済政策は、絶えざる所得格差の拡大と将来不安を生み出している。だが、要素還元論(方法論的個人主義)の立場に立つ既存の経済学は無力に立ちつくすしかない」(金子勝児玉龍彦『逆システム学―市場と生命のしくみを解き明かす』(岩波新書、2004年)4−5頁)。

 金子勝教授は、90年代から反経済学の立場を採用している論客であり、今日でも重要なエコノミストだが、上記の引用には経済のグローバル化が、規制緩和市場原理主義に基づく政策の普及として理解されていることがわかるだろう。そのため先の「構造問題主義者」たちの立場は、金子氏らの立場からは批判の対象になる。

 そして金子氏に代表される立場の人たちは、構造問題を効率性向上によって解決することは、かえって所得格差や将来不安を招くので正しい処方箋とはいえない、と考えている。むしろそのような効率性を向上させる政策そのものが、日本では「構造問題」そのものとなっているというが彼らの本旨であろう。そのため彼らの正しい「構造問題」への政策対応は、グローバリズム進展そのものへの反対か(反グローバリズム)、その進展が避けられない場合はセーフティネットを構築して、構造変化から人々の生活を防御する、という手法となった(セーフティネットの経済学)。この「セーフティネットの経済学」としてどのような枠組みを考えるかは論者によっても様々である。金子氏らは、特に労働・土地・資本(あるいは貨幣・金融)といった本源的生産要素の取引に注目している。労働市場では社会保障制度や労働基準法、さらには近時ではニート対策、正規雇用者増加政策、またはネットカフェ難民支援などの貧困対策が重視されている。金融市場では、不良債権問題を監視する適切な行政ルールの設定、銀行の破綻などに備えたペイオフなどの預金者保護が求められていた。さらに土地市場では、金子氏らは、借地借家権保護や公営住宅・家賃補助などや都市計画などを推奨している(前掲、金子・児玉、69頁)。

 金子氏らは、このような多様なセーフティネットが、多重なフィードバックを幾重にも形成する「制度の束」となり、個々の市場参加者と市場をつなぐ調節抑制のしくみになっていると説いている。また「制度の束」は国や社会によって様々なあり方をみせるであろう、とも彼らは述べている。

*1:正直にいえば大竹氏以外の発言を読む気がしない面子が勢ぞろいである