ロス・ジェネの経済格差(メモ書き)

  若年層における経済格差が深刻である、という。アルバイト、パートなどの非正規雇用の増加を背景に、賃金所得の格差が若年層で深刻化していることが主因としてあげられている。いわゆる「ロス・ジェネ」世代(つまり「失われた10年」といわれたバブル崩壊後の「就職氷河期」を経験した世代、だいたい25歳から34,5歳の世代を指す)でも所得格差が深刻であるとしばしば指摘されている。

 例えば所得の分布が平等かどうかを示す「ジニ係数」という指標がある。このジニ係数の数値が大きいほど、年齢や属性で分けられたグループの中での格差が大きいことがわかる。太田清氏は以前、論文「フリーターの増加と労働所得格差の拡大」(ESRI Discussion Paper、2005年 )で、このジニ係数を用いて若年層の所得格差について分析を行っている。

 太田氏は個人を正規雇用非正規雇用の二つのグループに分け、さらに格差がどのような原因で生じたかにも注目した。その上で1997年から2002年にかけてすべての年齢層でジニ係数が大きくなっていて、特に20代と30代の若年層で所得格差の拡大が見られることを明らかにしている。このことは総務省統計局「就業構造基本調査」で、1992年から2002年にかけて、20歳代で150万円未満のそうと500万円以上の層の割合が上昇し、30歳代において100〜299万円の層と700〜999万円の層の割合が上昇している(2008年『厚生労働白書』の指摘)、ことからも直観的にわかる。

 またこれらの若年層の所得格差の生じる原因として、太田氏は非正規雇用者の構成比の高まりをあげている。太田氏自身は、これを97年以降の景気低迷に加えて、雇用流動化などの構造的要因が寄与した可能性を示唆していた。

 太田氏はまた論説「「ジニ係数」分析 若年層の所得格差は97年以降に拡大していった」『週刊エコノミスト』(2006年、3月28日号)の中で、03年以降、若年層の所得格差の拡大が止まっていることを指摘した。この事実が正しければ所得格差拡大の主犯が長期にわたる不況であったことがわかる。この不況が原因してフリーターの増加を生み出し、好景気がフリーターの減少を生み出している、という仮説は、フリーター数の増減をみるとわかりやすい。

 例えば不況が深刻であった2002年は208万人であったが、景気回復が明瞭になった2004年から次第に減少して2007年には181万人まで低下した。これは主に新卒市場の好転を受けて、15歳から24歳までの年齢階級でフリーターを選んだ人たちが減少していったことに原因がある。もちろん新卒市場が好転したのは景気回復による。

 他方でいわゆる「ロスジェネ」世代が含まれる25歳から34歳の年齢層におけるフリーター層は減少してはいるものの(2003年の99万から2007年の92万へ)、「高止まり」の傾向をもっていると思われる。もちろん景気の好転とともに減少してはいるのでフリーターの増減を好不況によって説明する仮説が基本的におかしいわけではない。

 この「ロスジェネ」世代のジニ係数はどうなっているかというと、2008年度版の『厚生労働白書』の説明では、25〜34歳層で、2001年から2004年にかけての上昇幅がほかの年齢層よりも高くなっている。これはロスジェネ世代で収入格差が拡大したことを示唆している。しかし2005年はやや低下している。これは先の太田氏のジニ係数の分析と対応していて、好景気がこのロスジェネ世代の所得格差にも歯止めをかけている可能性があるだろう。

 若年層における所得格差の拡大に、フリーターの増加*1が大きく関係しているとしても、主にフリーターの増加自体は景気が安定するとともに減少傾向にあることがわかった。それは若年層における所得格差の拡大をストップさせる上で景気の安定化がきわめて大きな働きをするように思われる。

 もちろんすでに明らかになっているが、景気が安定化してもフリーターにおけるロスジェネ世代は「高止まり」しているといえる(減少していることは再三注意が必要であろうが)。これを「解消」するにはどうすればいいだろうか?

 この点は、いわゆる非正規雇用(年齢層が限定されているフリーターだけでなく、それ以外のアルバイト、パート、派遣、契約、嘱託など)から正規雇用への転換の難しさ、として語られている問題の一部である。「転換」問題の難しさについては、例えば経団連調査*2では、フリーターの正規採用(正社員)に88%の企業が消極的であることからも類推できるだろう。ではなぜ、フリーターを正社員として採用したがらないのだろうか?

 この「転換」問題については主に三つの見解をここでは考えたい。

 ひとつは、僕にとっては重要度が大きいのだが、いまのロス・ジェネ論では まったく考慮されていない、リフレ政策による効果に注目するものである。これについては(このブログの常連読者には容易に想像がつくと思われるので)後回しにする*3。簡単にいってしまえば、景気が回復してフリーターがロスジェネ世代を含めて減少しているならば、実体ではデフレのままの日本経済が低インフレ状態に実体経済にまで復活すれば、さらに減少に拍車がかかるはずだ、というものである。もちろん昨日のエントリーをみれば明らかだが日本の経済は不況局面にある。しかも注意してほしいのは、最近の金融危機が影響しているというよりも、日本経済の不況入りは遅くとも昨年夏からであり、それは日本独自の要因(政策の失敗)によるものであることだが……。

 さて二番目についてだが、『希望と格差』の中で、大竹文雄さんは池田新介氏の論説「経済行動を左右する『時間割引率』」(『エコノミスト』2006年2月21日)を利用して、フリーターが企業に正社員として雇用されがたいのは、フリーターが双曲割引をしている人(直近のことにとてもせっかちで、遠いことにはより耐え忍ぶような人)であり、後回し行動をすることで訓練量が少なく人的資本の蓄積が過小である、と評価しているからではないか、と書いている。

 この大竹氏の仮説を説明するためには、双曲割引による後回し理論と人的資本理論のふたつを説明しておく必要があるだろう。

 例えば、いまの僕がそうであるが(笑)、人は勉強や仕事などの課題をしばしば後回しにすることによって後で非常に後悔することがあるだろう。ダイエット中の人(田中w)が、この一口は別だ、たまには甘いのを食べないと仕事の効率がわるくなるなどといろんな理由を捏造しwついつい甘い物を口にして、あとですっごく落ち込むことがある。だが従来の経済学の辞書には後悔の文字はなかった。なぜなら彼(彼女)の選択は、利用できるすべての情報をもとに合理的な決定として行われているので、そこには後悔を生み出すような意志の弱さが入り込む余地がないからだ。いいかえると暴飲暴食や麻薬の摂取、返済する見込みのない借金などの行為を説明する際には、情報の不完全性や無知などを導入することで合理性との妥協を図ってきたといえる(例:そのお菓子を食べるとダイエットがおじゃんなるほど高カロリーだとはしらないでたべたなど)。

 このような正統的な経済学に対して、ジョージ・エインズリーは『誘惑される意志』(2007年、NTT出版)の中で、目先の欲望に負けた人間を独自の手法で説明した。例えば、禁煙中なのに「この1本で最後にしよう」などと理屈をつけて、その行為を重ねることで禁煙自体をおじゃんにしてしまうのが人間の弱さである。このような目先の欲望にとらわれてしまう人間の選択を、エインズリーは「双曲線的割引」に基づくものとして表現している

 「双曲線的割引」とはなんだろうか。例えばダイエットや勉強をしようと今の時点で決意してもその成果を得ることができるには時間の経過が必要である。この時間的に離れている決定と成果の問題を、経済学では「異時点間の選択」といっている。先に出てきた人的資本理論もこの異時点間の選択の問題のひとつの捉え方である。人的資本理論は、シカゴ大学のゲーリー・ベッカーが最初に提唱したものである。ベッカーは人間自らに投資する(お金をかける)ことで、人は自分の生産能力を高めることができる資本の一種だとみなした。いまある人が高卒のまま働くか、あるいは大学に進学するかを考えるとする。このとき高卒のときに得られる収益と大卒で得られる収益とを比較してその差を投資収益と考える。その一方で、大学に進学すると四年間の授業料などの費用がかかったり、あるいは高卒で働いていたらその四年間で得られたであろう所得(これを機会費用という)が発生している。

 ベッカーは、人が大学進学に投資するかどうかを決めるのはこの投資収益と投資費用とを比較することで、前者が後者を上回れば、大学進学に投資することが合理的だと考えている。ところでこの投資収益と投資費用を計算するときに、正統派的な経済学では割引率を利用している。人は将来のお金の評価を、利子率に等しい値で割り引いて評価するべきである、というのがその基本的な理解である。例えば四年間に生み出される投資収益を一定の割引率で評価することが必要とされる。一年後の投資収益の現在価値(現時点で評価する一年後の投資収益の総額)は、一年後の投資収益の名目価値を、(1プラス割引率)で割ったものに等しい。割引率は何年経過しても同じまま一定であると仮定されているのがふつうなので、この(1プラス割引率)は指数的に増加する。そのためこの割引の手法を「指数型割引」と表現している(四年間だと(1プラス割引率)の四乗)。

 これに対して「双曲線的割引」とは、割引率を一定と考える「指数型割引」とは異なり、現時点あるいはそれに近い未来では、かなり大きく割り引くが、遠い将来はそれほど急激には割り引かない態度を表現したものである。リチャード・セイラーが用いた有名な比喩をあげれば、「明日のリンゴ二個より今日のリンゴ一個を選ぶ人が、一年後のリンゴ一個より一年と一日後のリンゴに二個を選ぶ」という割引の仕方であるといえよう*4

 さてこの「双曲線的割引」で異時点間の選択、特に人的資本への投資を考えたときにはどうなるだろうか。これは『文藝春秋』で勝間和代氏が書いた例(手元にないので実例とは違うのであとで修正予定、すまぬ)にならえば、いま時給950円のバーガーショップのバイトと成果給を基本とする保険の外交員の選択があったとする。後者の基本給は低く抑えられていて、その部分を時給換算するとバーガーショップよりもかなり低いとする。選んでいるのは30代のシングルマザーである。目前の利益だけを優先する人ならば、バーガーショップのバイトを選んでしまうにちがいない。しかし勝間氏は後者を選んだ女性が、その後、保険外交のノウハウを積む一方で、自ら学習して別な資格を取得しやがて独立した職業を得ていったことを紹介していた。勝間氏はこの例を紹介して目前の利害に眩惑されるべきではない(=双曲線的割引で選択を行うべきでない)といっていることになろうか。

 このシングルマザーの保険外交員は、いわば自らが人的資本への投資を負担することで生涯所得を上昇させることに成功したといえる。しかしバーガーショップのバイトを選んだ人はそのような人的資本への投資を後者ほど行わなかった、といえる。このような人的資本への過少投資の可能性を、企業側が重要視していて、それがフリーターからの採用を消極的なものにしている可能性を、大竹仮説は示しているといえるのだろう。

 しかもこの「双曲線的割引」を行う人が直面する状況はさらにやっかいなものであることだ。池田新介氏が示唆しているように、経済的な豊かさがこの割引行動に大きく影響していることだ。経済的に苦境であればあるほど、人はよりせっかちになり、目前の利益を将来の利益よりも過大に評価してしまう。そのことが自分の人的資本への投資をさらに過小にし、それが長期的にはその人の経済的な豊かさを束縛する。そして経済的な貧しさがさらに目前の利害を甘いものとして映し出し、さらにそれが貧しさにつながる……といった悪循環に陥るのである。

 僕も似た経験を持っている。最初、大学院にいくためにその学費を稼ぐ目的で会社員になったのだが、目前の仕事に追われ、また遊びなどにお金を使ってしまい、勉強も貯蓄もほとんどできなかった。自分では勉強と貯蓄をしなければという思いはあるのだが、やはり誘惑や仕事に負けてしまうのである。このような「悪循環」に陥ると、実際のところ自分の意思の力で変更することはかなり難しい。この「悪循環」を断ち切る経済学の勧める一般的な処方箋については、第三番目の仮説を紹介してから書くことにする。

 フリーターを正社員として採用しがたい三番目の理由は、グローバル化仮説とよぶべきものである。これも先の人的資本理論の応用として説明がつく。グローバル化によって日本の企業は、競争圧力によってコスト削減を余技なくされ、自前で人的資本に投資するだけの余裕を失ってしまい、既存の人的資本の高い人材に需要が集中していく。そのため人的資本が過小なフリーターはますます正社員として採用されなくなってしまう。このグローバル化仮説と先の「双曲線的割引」仮説はいわば相互に補い合うことも可能であり、この両方の「あわせ技」が、今日のフリーターの「高止まり」のかなりの部分を説明しているのかもしれない。

 とはいえ、これらのふたつの仮説は景気の良し悪しにはほとんど関係しない「構造的」なものだ。しかし現実には冒頭でみたように、景気の変動とフリーターの変化は連動しているようである。それに忘れてはならないのが、そもそもフリーターのままでいいと思う人(すなわちフリーターで得る所得のままでいいと考える人たち)が圧倒的に多いということも忘れてはいけないだろう。当たり前だが、経済格差を「悪」として、フリーターの存在そのものを社会的に許容しがたい問題だと見做すというのはただのトンデモ仮説である。

 このことを考慮すると、ただ単に「双曲線的割引」をもつ主体が社会的な損失ともいえない。例えば、「江戸っ子」のように宵越しのお金はもたないと所得をすぐに消費し尽くしたとしてもそれが文化的な面で成果を残す場合だって多いだろう。
 でもこの「双曲線的割引」をする人はしばしば後悔する人であることが問題になる。しかも経済的余裕がない人ほどこの「双曲線的割引」で職業の決定をしてしまう。このことは比喩でもわかるかもしれない。例えば椅子取りゲームをしていて、椅子の数が10個あってまわっている人が11人の場合と、もうひとつは椅子の数が5個でまわっている人が11人のケースである。前者は好況で(本当は椅子の方をまわる人よりも多くしてもいいがそれだと椅子取りゲームではなくなってしまう。それでもまあいいかな…)、後者は不況の場合だと思えばいい。しかも椅子の中には足がぐらぐらしていて壊れている椅子が1個ずつ入っている。椅子の数が多ければたとえ椅子に座れたとしてもなるべく壊れた椅子は避けたいだろう。しかし椅子の数がまわっている人間よりも極端に少なければ選んでいる余裕はない。音楽が止んだその瞬間にとりあえず目の前にある椅子に座ってしまうだろう。椅子はとれたはいいが、それが座った衝撃でお尻ごと床に崩れてしまっては後悔してしまうに違いない。この比喩からも、不況がフリーターを選ぶことを不可避にしてしまい、やがて人的資本が過小投資になることで、否応なく長くフリーターであらざるをえない人たちを生み出すことだってあるだろう。不況によってロスジェネが生み出され、彼らの多くがフリーターに滞留ししているとすれば、この不況仮説による滞留の説明の方がもっともらしいように思える。

 でも「グローバル仮説」はどうなのか? ロス・ジェネはグローバルな競争の過程で生み出されたのではないのか? あるいは、構造改革が原因して生み出されたのではないのか? それについてはまた(いや、もう著作を含めていろんなところで何度も書いてて個人的には金太郎飴状態だが 笑)書くことにしよう。

*1:派遣労働、ニートなどの問題は別に論じる必要がある

*2:「2006年春季労使交渉・労使協議に関するトップ・マネジメントのアンケート調査結果」

*3:面倒になったら書かない 笑

*4:友野典男行動経済学』242頁より