「みんなのための資本論」と99%のための資本主義

 経済の話題を理解できる、優れた映画がいくつもある。特にここ数年では、ノンフィクションで見るべきものが多い。大相撲の八百長のメカニズムなど、人間の行動動機を追った『ヤバい経済学』、リーマンショックに揺れる世界を描いた『インサイド・ジョブ』(アカデミー記録映画賞受賞)、辛口ドキュメンタリーを発表し続けるマイケル・ムーアの『キャピタリズム』『シッコ』など、日本公開されたものも多い。ムーアの最新作の『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』は、欧州各国の雇用・社会保障の美点を広く紹介していて刺激的だ。

 今回注目したいのは、クリントン政権のときの労働長官であったロバート・B・ライシュの主張を基にし、彼を“狂言回し”的に出演させた『みんなのための資本論』(字幕監修:山形浩生、2015年日本公開)だ。最近、何度かNHKでも放送されたので見た人も多いだろう。
 個人的にはライシュのイメージは悪い。クリントン政権のときに力のあったローラ・タイソンら戦略貿易論・産業政策論者グループという印象が強く、対日本での貿易交渉で経済的混乱を生み出した元凶だと思っていたからだ。簡単にいうと自由貿易体制というよりも政府介入で(保護貿易的手法も排さずに)貿易の“不整合”を正せるという発想である。

 またライシュは、企業横断的な労働組合産業別労働組合)が交渉力を高めることで、経済のセーフティネットが構築できるという見解をずっと持ち続けている。この点については、辻村江太郎が『日本の経済学者たち』(1984年、日本評論社)の中で、ライシュの労働組合観は、アメリカ型の協調寡占体制を前提にしているものとして批評している。

 アメリカ型の協調寡占とは、ある産業にはごく少数の企業が生産を行っている(これを寡占という)。イメージ的には米国の自動車産業などの大量生産方式を採用している企業だ。これらの企業は大規模な工場やオートメーション化に投資を行っているが、一度景気が悪くなると「過剰生産」に陥りやすい。つまり需要減に対応してその大規模な固定投資を清算しずらいとライシュはいう(ライシュ『ネクストフロンティア』三笠書房、1983年)。

 そのためライバル企業同士が、この業界の「過剰生産」に対応しようと、生産調整のための一種の“カルテル”を組むという。価格面ではあたかも各企業が一体になって独占的に価格を設定するだろう。これをプライス・リーダーの価格支配力が強い、という。この企業をまたいだ生産調整(裏面では雇用調整、例えば一時帰休などのレイオフ)を容易にするために企業横断型の労働組合の必然性が生まれるという。
 他方で、ライシュはフォード自動車が20世紀の始めに採用したように、経済成長が安定化しているときは、企業横断型の労働組合は、協調的寡占にある企業に対して(市場の相場に比して)高めの賃金を実現しやすい。つまり組合と企業側が好不況に応じて貸し借りを行うようなものである。

 高い賃金は、労働者の生活水準の底上げになり、中間層を養う経済的基盤になる。中間層はその旺盛な消費によって経済成長の安定化を持続させるだろう。経済成長は協調型寡占とその裏面の企業横断型組合を維持し、それが高い賃金に至る、そしてまた消費に…と経済の「好循環」が生み出されるという認識をライシュは持っていた。

 この「好循環」の図式は基本的に、ライシュのキャリアを通じて変化することがない、彼のアメリカ経済への視座だ。今回の『みんなのための資本論』の中でもこの「好循環」のエッセンスを、いかに現代に再生するかに、彼の問題意識は集約されていた。
 ところでこのようなライシュの見取り図に対して、先の辻村江太郎は反論している。ちなみに以下の辻村の主張は日本経済が世界第二位で、経済的パフォーマンスが先進国の中でも良好であった1980年代前半のものであることに留意されたい。
 辻村のライシュ批判は、ライシュが肯定的に語る米国の協調型寡占(と企業横断型労働組合)は生産性向上の点で、日本との競争に負けている、とするものだった。80年代の米国の自動車産業や鉄鋼産業の苦境は、まさにこのライシュが「好循環」を生み出すという協調型寡占体制にこそ原因がある。なぜ日本の生産性が上か。

 辻村は日本の産業が「競争的寡占」の状態にあるという。寡占は先ほど説明したように産業に属する企業数がごく少数のケースだ。この企業たちはお互いに厳しい競争状態にある。各企業は少しでも市場占有率を奪取しようと虎視眈々としている。例えば不況で「過剰生産」が生じても、個々の企業努力の優劣によって市場占有率が変化するととらえる。経営者だけではなく、企業ごとに形成された労働組合(企業別労働組合)もまたライバル企業に対して強い闘争心を持っている。各企業はお互いに労使一体となってライバル企業との競争にまい進するだろう。

 「企業間競争は各社の従業員に運命共同体の意識を目覚めさせ、その意識を生産性向上努力に結集させていく。アメリカのように生産物市場が協調寡占で、プライス・リーダーがゆるぎない支配力を行使できるのであれば、本来的に生産性向上への圧力は働かないのである。従業員が企業間競争を意識しない場合は、結束する必要も感じないから、自分自身の利害だけ考えればよく、むしろ個人間競争の意識が強くなって、個人能力相互の補完性が阻害されることにもなる」(辻村前掲書、23頁)。

 ここで興味深いことは、米国的協調寡占の方が、協調するがゆえにエゴイズムを生み出しやすいと、辻村が指摘していることだ。他方で、ライシュ自身は、協調寡占と企業横断型労働組合が安定していた戦後から1970年代真ん中までを「全員参加」で繁栄の果実を共有できた時代だとしている(ライシュ『余震 そして中間層がいなくなる』東洋経済新報社、2011年)。

 ところが辻村はこの「好循環」の中に、すでに個人間の競争を過度に刺激し、やがて他者よりもより多い成果を自分だけで独り占めするエゴイズム、強欲に至る社会分断の可能性を示唆している。これは面白い指摘だ。

 ちなみに辻村もライシュと同じように貿易は国と国が勝敗を決める競争場だと思っていること、産業政策(政府による経済的誘導)を支持していることに留意しておきたい。

 とりあえずここまででライシュの経済論の特質はわかっていただけただろう。より直接的にいえば、労働組合に経済活性化の比重を置いているように思える。

 映画『みんなのための資本論』の方は、冒頭でも書いたように、ライシュが狂言回し的役割で、彼の視点から「なぜ米国では中間層が衰退し、全人口の1%ほどの人たちに所得や富の集中が出現したのか」をテーマにしている。なかなかよくできていて、1920年代の大恐慌から戦後、そして1979年を起点にして米国がまたたくまに深刻な経済格差に陥る様が、多彩な切り口でわかるようになっている。

 さてなぜ中間層は没落したのだろうか? ライシュは基本的にはグローバル化による競争の激化、そして未熟練労働を置き換えてきたテクノロジーの進歩をあげてはいる。しかし彼はこれは見せかけの原因にしかすぎないとも指摘する。

 この点は映画では若干わかりにくいのだが、映画の原作ともいうべき彼の2010年の著作『余震 アフターショック』(東洋経済新報社、雨宮寛/今井章子訳)では、1979年以降30年ほどの米国経済で雇用を減少させてきたのは、景気循環への対応に失敗したことである。
 ライシュは「1990年代には貿易とオートメーション化技術の進展により古い職種に従事していた何百万人もの労働者が失業したが、当時は好景気であったため他にも職がたくさんあった」と指摘する(前掲書、翻訳63頁)。

 この時期の実質賃金の水準も平均的には安定していた。ライシュによれば問題は「失業の有無」ではない。失業は適切に対応すれば深刻な問題ではないという。むしろ転職した後に得ることができた賃金水準が安定せずに、どんどん低下していっていることに大きな問題があるという。
 この米国の経験は映画版の方ではほとんど描かれていない。映画の方では、さまざまな人種や職業の人たちが直面している生活苦が描かれている。夫婦共稼ぎで子供がひとりいる核家族では、家庭にほとんど貯金がなく、一生懸命労働してもまったく豊かにならない。または逆に枕の生産で財をなした企業家自身が、どんなに所得や富を築いても、自分の消費は大したことはなく、むしろ経済・社会を支えるには富裕層の消費に依存するのではなく、中間層の消費を増やさなくてはいけない、とうんちくを語るシーンなどが流されている。つまり99%の生活に悩む人たちと1%の超リッチな人たちを対照的に描き、アメリカの市民たちの「より貧しくなる」傾向を描くことに映画版はその努力を注いでいる。

 日本のように90年代から21世紀にかけて長期失業や若年層の失職(ロストジェネレーション)が問題になったのとは対照的に、この時期のアメリカの雇用は堅調であり、ほぼ構造的失業の水準にあった。この背景には、アメリカの中央銀行FRBの適切な金融政策やまた財政政策の適用があったのだが、その点については映画の方はまったくふれることはない。特に金融政策への低評価はライシュの主張の特徴といえるかもしれない。なぜか大恐慌のときは、ライシュは金融政策の役割を持ち上げるのだが、他方で現在の問題に関しては、金融政策にはほとんど評価を与えていない。この非対称性は日本でもよく観察できることなので興味深い。

 1979年以降、人々がより貧しくなり、他方で一部の人が超リッチになったのはなぜなのだろうか。

 現象的にはさきほどみたように、好況と不況のサイクルの中で、不況のときに失業であっても、好況になれば新しい職業につくことができた。だは、新しい職業では前ほど賃金が高くはない。むしろ低下してしまった。この「実質賃金の低下」が貧困の原因だ。そして他方で、大企業の経営者や文化・スポーツ界の超リッチな人たちが誕生してもいる。この現象はなぜか?

 ライシュによれば、1979年からの経済格差は、特に1981年のレーガン政権のときに決定的なものになったという。レーガン政権の労働組合の不当な弾圧や、また金融機関などの資本市場の自由化が、合わせ技になって、前者は賃金の低下を、後者は一部の経営者たちの報酬を急激に増加していったという。この点は映画でも当時の労働組合弾圧の光景などを交えて紹介していて興味深い。また最近の原発労働者たちの組合結成についても描かれていて、そこにライシュ自身がアジテーターとして招かれているシーンもある。

 多くの労働者たちは組合の影響力が低下することで、賃金や待遇面での交渉力を失ってしまう。さらに公教育への政府の支援が不足することで、低所得者層の人たちが中間層やさらに上層の所得階層になる可能性が激減してしまう。アメリカは階級社会の典型といわれるイギリスよりも格段に「社会移動」(所得階層間の人的移動)が乏しい国に成り下がってしまった。教育の機会が割高になったことで、労働者たちの人的資本の形成に支障がでてしまい、それが賃金の低下にも結び付いてしまう。映画では、すでに中年になった男女がどうにか所得をあげようと、大学に入りそこで学歴を得ようとする姿も描かれている。だが、彼ら彼女たちの将来は決して明るいものではないことを、暗にライシュは警告とともに告げている。努力すれば報われるわけではないと。

 ではどうすればいいか。映画ではクリントン政権のときの労働長官の経験が、かなりシニカルに懐古されている。簡単にいえば、「自分の主張を試す絶好の機会だったが、なにしろ政治の世界は素人で、複雑すぎて思い半ばで挫折した」ということであろう。理論をどう実践に結び付けるか、日本でも他人事ではない問題だ。

 いまのライシュの処方箋を、著作『余震』から列挙してみよう。低所得者層には十分な補助を与える一方で、働けば働くだけその成果を自分たちのものにできることでより上位の所得水準に到達しやすくするシステム(給付付き税額控除)の導入、炭素税の導入、富裕層への最高税率の引き上げ、失業対策よりも再雇用制度の充実(職業教育の充実など)、卒業後の所得に適合した教育ローン、公教育の充実(世帯所得に応じた教育クーポン券の発行)、公共財の拡大、そして政治とカネの結びつきを再考することなどである。いずれもいまの日本の政策課題として重要な提言が並ぶ。ただし日本では失業対策が重要なことと、それとともに金融政策の重要性を強調すべきだと思う。

 富裕層の最高税率を引き上げることは、豊かな層から貧しい層への所得の再分配をすすめるものではない、とライシュはいう。富裕層からとった税金は、公的教育やセーフテインネットの拡充につかわれることで、中間層を養い、彼らの総需要の力を強くする。それが経済全体を大きくし、株価など資産価値を引き上げることで富裕層のためにもなる、という「成長の果実」をライシュは強く主張している。この成長前提の思考は、日本のリベラルな人たちに決定的に欠けているだけに新鮮なものだった。ライシュは、新刊の『資本主義を救え』(2015年)を出版するなどますます元気に活動している。

Saving Capitalism: For the Many, Not the Few

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余震(アフターショック) そして中間層がいなくなる

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