黒木玄「貨幣バブルについて」(2003年作成メモ&2008年コメント)

 先日、ファイルの整理をしていましたら、5年ほど前に有志でやった勉強会メーリングリストで、黒木玄さんが作成した「貨幣バブルについて」のメモが出てきました。黒木さんに許可をいただきましたので以下に掲載します。メモ本体は2003年のものですが、今回の問い合わせに際して、黒木さんからコメントを頂いてますのでそこをぜひ念頭に読まれることをお願いしたいと思います。掲載許可された黒木さん、お忙しいところありがとうございました。

(付記)あれ? 編集段階ではちゃんと表示できるのに分数の表示がおかしいですね。少し後になりますが修正しますのでお待ちください。

(黒木玄さんの2008年9月24日のコメント)

現実の物価において貨幣量(および将来の貨幣量の期待値)とは無関係のバブルが発生しない。
重要なのはこちらの強い経験則の方であり、途中で数式をたくさん並べている部分は大して重要ではない。
マネーを十分に増やしても物価が上昇しなかったり、マネーを大して増やさないことが確実なのにハイパーインフレになったりする、という考え方は非現実的であり、無視して構わない。

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『貨幣バブルについて』

黒木 玄

2003年3月20日作成


目次

1. 記号の準備
2. BF 5.3 のモデル
3. 貨幣バブルについて
3.1. 貨幣の限界効用の下限がゼロの場合
3.2. 貨幣の限界効用の下限が正の場合
3.3. 貨幣バブル均衡の排除
4. 日本経済のデフレへの応用?


1. 記号の準備

ブランチャードとフィッシャーの教科書『マクロ経済学講義』 (以下 BF) の第5.3節は効用函数に貨幣を含む動学的一般均衡モデルの最も単純な場合を扱っている。

そのモデルの設定では、人口は一定であり、人口一人当たりの産出 y も一定であり、資本の蓄積過程は存在せず、財政政策も存在せず、金融政策は(人口一人当たりの)名目貨幣供給量 M だけを調整でき、物価水準 P は瞬時に調整
される。

モデルの解は、完全予見仮説のもとでの動学的最適化問題の解になるような、(人口一人当たりの)名目貨幣供給量 M と物価水準 P の経路である。BF 5.3 のモデルは名目貨幣供給量を政策変数とするとき、物価水準がどのように決定されるかをモデル化したものだと考えられる。

注意しなければいけないことは BF 5.3 では消費 c と実質貨幣残高 (名目貨幣供給量を物価水準で割って実質値にしたもの)

m = M/P

の効用函数

u(c,m) = v(c) + u(m)

と分離形になっているという仮定が暗黙のうちに使われていることである。実質貨幣残高 m > 0 の効用函数 u(m)は u' > 0, u'' < 0 を満たしていると仮定する。典型的な u(m) の形は


m^{1-α} - 1
u(m) = ------------, α > 0 (α = 1 ならば u(m) = log m)
1 - α

である。このとき、限界効用 u'(m) は次の形になる:

u'(m) = m^{-α} = 1/m^α (α = 1 ならば u'(m) = 1/m).

しかし、 u(m) がこのような形をしているとき、

u'(m) → 0 as m → ∞

が成立してしまう。貨幣の限界効用に正の下限 β > 0 が存在する場合を考えたければ、

m^{1-α} - 1
u(m) = ------------ + βm, α,β > 0
1 - α

と m の線形項を加えておかなければいけない。このとき、貨幣の限界効用は次の形になる:

u'(m) = 1/m^α + β.

名目貨幣供給量の経路 M = M(t) は初期値 M(0) と名目貨幣供給量の増加率

dM/dt d
σ = ----- = -- log M
M dt

で決定される。よって政策変数は M(0) と σ の組み合わせであると考えて良い。 M(0) と σ を与えたとき、モデルの世界における可能な物価水準の経路 P = P(t) の集合が以下のように決定される。

m = M/P より P = M/m なので、 M = M(t) が与えられているとき、 P = P(t) の経路を決定することと、実質貨幣残高 m = m(t) の経路を決めることは同値である。物価水準の経路よりも実質貨幣残高の経路の方が扱い易い。

以上の設定のもとで、インフレ率

dP/dt d
π = ----- = -- log P
P dt

は名目貨幣供給量の増加率 σ と実質貨幣残高 m から次のように計算される:

d d M d dm/dt
(*) π = -- log P = -- log - = --(log M - log m) = σ - -----.
dt dt m dt m

すなわち、

インフレ率 = 名目貨幣供給量の増加率 - 実質貨幣残高の変化率.

この結果は BF 5.3 の (25) 式にある。


2. BF 5.3 のモデル

BF 5.3 のモデルの要約。名目貨幣供給量の経路 (M(0), μ) を与えたとき、実質貨幣残高の経路 m = m(t) > 0 がモデルの解を与えるための必要十分条件は次の二つの条件が成立することである:

dm/dt
(a) ----- = θ + σ - u'(m),
m

(b) e^{-θt} m(t) → 0 as t → ∞.

ここで、θ > 0 は主観的割引率であり、 u(m) は実質貨幣残高の効用函数である。これらの式は BF 5.3 の (23), (26) にある。

条件 (a) の経済学的意味については以下のように考えれば良い。

BF 5.3 で使われる単純化されたモデルではわかり難いかもしれないが、主観的割引率 θ は定常均衡で実現される自然実質金利であると考えて良い。

さらに、貨幣 (より正確には実質貨幣残高) の限界効用 u'(m) は名目金利だと考えて良い。モデルをより複雑にすれば「u'(m)/v'(y) = i = 名目金利」という式が出て来る(BF p.188 の式 (31) の両辺を式 (30) の両辺で割ってみよ)。これは「m = M/P = L(i,y)」という LM 関係だと解釈できる。 BF 5.3 ではλ = v'(y) = 1 と正規化しているので、 u'(m) = i が成立していると考えて良い。

よって、効用最大化問題の一次条件から導かれる条件

u'(m) = θ + π (BF 5.3 の (24))

は Fisher 方程式

名目金利 = 自然実質金利 + インフレ率

を意味している。(需給ギャップを考えていないので、完全雇用下の Fisher 方程式を自由に用いて良い。) これに上の (*) を代入し、整理して得られるのが条件 (a) である。

等式 (*) は m = M/P という定義から導かれる恒等式に過ぎないので、条件 (a) の本質的内容は LM 関係とFisher 方程式の組み合わせに過ぎないことがわかる。 (LM 関係の対数線形化と Fisher 方程式から Cagan モデルが得られ
る。よって (a) は対数線形近似しない場合の Cagan モデルであると解釈できる。)

条件 (b) は横断性条件である。条件 (b) は将来の実質貨幣残高を主観的割引率で割り引いた現在価値がゼロに収束しなければいけないことを意味している。横断性条件は「代表的経済主体は資産としての貨幣保有を無駄に残さない」ことを意味していると考えられる。横断性条件の数学的解説に関しては

http://www.rieb.kobe-u.ac.jp/academic/ra/dp/Japanese/dpJ45.html
http://www.rieb.kobe-u.ac.jp/academic/ra/dp/Japanese/dpJ45.pdf

を見よ(この解説は非常におすすめ)。 (注意:実際には横断性条件の経済学的意味は自明ではない。物価水準の財政理論 (FTPL) では「政府が財政破綻を引き起こすような政策を実施しても、民間部門がそうならないように物価水準を引き上げてくれる」という主張を正当化するために家計部門の横断性条件を用いている。横断性条件のそのような使い方は誤りである。)

以上のように考えれば、最適化問題に関する数学的詳細を知らなくても、BF 5.3 の最初の結論がそれなりにもっともらしいことがわかる。(もちろん、toy model であることを忘れてはいけない。)


3. 貨幣バブルについて

実質貨幣残高の経路 m = m(t) のみたすべき条件の再掲:

dm/dt
(a) ----- = θ + σ - u'(m),
m

(b) e^{-θt} m(t) → 0 as t → ∞.

BF 5.3 では名目貨幣供給量の伸び率が一定なのに物価水準だけが上昇し続ける非貨幣的なハイパーインフレーション均衡について詳しく解説されている。その場合は財の価格が名目貨幣供給とは無関係に上昇する場合なので財のバブルだと考えれば良い。

このノートでは名目貨幣供給量の伸び率が一定なのに物価水準だけが下降し続ける非貨幣的なハイパーデフレーション均衡について説明する。そのような均衡では代表的経済主体が保有する貨幣残高の実質価値 m は無限に上昇するので、貨幣のバブルを扱っていると考えれば良い。

簡単のため名目貨幣供給量の増加率 σ は正の値で一定であると仮定する。


3.1. 貨幣の限界効用の下限がゼロの場合

まず、 BF 5.3 にあるように貨幣の限界効用が m → ∞ でゼロになってしまう場合について考えよう。

m = m(t) は (a) の解であり、 t → ∞ のとき m → ∞ となると仮定する。
このとき、横断性条件 (b) が成立しないことを示そう。

σ > 0 かつ u'(m) → 0 (m→∞) と仮定したので、 0 < ε < σ とすれば、
(a) より

dm/dt
----- > θ + ε (t は十分大きい)
m

が成立する。よって、 m = m(t) は十分大きな t において、

du/dt
----- = θ + ε
u

の解 u = u(t) = const. e^{(θ+ε)t} よりも速く増加する。したがって、

e^{-θt} m(t) → ∞ (t → ∞).

すなわち (b) が成立しない。

これで、貨幣の限界効用が u'(m) → 0 (m → ∞) を満たしていれば、実質貨幣残高 m が無限に増加し続けるようなモデルの解が存在しないことがわかった。そのような解は横断性条件によって排除される。


3.2. 貨幣の限界効用の下限が正の場合

次に、 u'(m) → β > σ (m → ∞) の場合について考えよう。

この場合は t → ∞ のとき m → ∞ となる (a) の解は (b) を満たしている。
実際、 (a) より、

dm/dt
----- = θ + σ - u'(m) → θ + σ - β = θ - (β - σ) (t → ∞)
m

なので、 0 < ε < β - σ とすれば、

dm/dt
----- < θ - ε (t は十分大きい)
m

が成立している。よって、

e^{-θt} m(t) → 0 (t → ∞)

となり、横断性条件 (b) が満たされている。

貨幣の限界効用 u'(m) の下限が名目貨幣供給量の増加率 σ よりも相対的に大きければ貨幣バブルは排除されない。貨幣愛が原因で代表的経済主体が保有する実質貨幣残高が無限に大きくなり続けてしまうのである。

そのとき、インフレ率は t → ∞ で

π = θ - u'(m) → θ - β

のように振る舞う。 π がプラスになるかマイナスになるかは自然実質金利 θ よりも貨幣の限界効用の下限 β が大きいか小さいかによる。貨幣の限界効用の下限 (貨幣愛の強さ) が大きければインフレ率はマイナスになる。


3.3. 貨幣バブル均衡の排除

しかし、この貨幣バブル均衡を潰すのは簡単である。そのためには、名目貨幣供給の増加率 σ を貨幣の限界効用の下限 β より大きくすれば良い。実際、 σ > β ならば、 t → ∞ のとき m → ∞ となるような (a) の解 m = m(t) について、

e^{-θt} m(t) 〜 e^{(σ-β)t} m(0) → ∞ (t → ∞)

となるので横断性条件 (b) は成立しない。

貨幣の限界効用に正の下限が存在すれば、名目貨幣供給量の増加率が正であるにもかかわらず、デフレが永久に続く解を排除できない場合が生じてしまう。しかし、そのようなモデルの解は名目貨幣供給量の増加率を十分に大きくすれば簡単に排除できる。

以上の議論では簡単のため名目貨幣供給量の増加率は一定であると仮定したが、「平時には名目貨幣供給量の増加率を適度な値に保ち、デフレにおちいりそうになったら名目貨幣供給量を急激に増加させる」というルールをモデルに組み込むことも可能である。そのような金融政策ルールをモデルに組み込めば貨幣バブルは自然に排除される。

要するに、[BF] 第5.3節のモデルの世界において、実質貨幣保有 m の限界効用の下限が正であることが原因で生じた貨幣バブルは十分な量的緩和へのコミットメントによって終了させることができる。 (モデルの forward looking な性質のせいで実際に十分な量的緩和が実施される前のコミットメントがアナウンスされた時点でデフレが瞬時に終了する。)


4. 日本経済のデフレへの応用?

個人的に上のような枠組みで現在の日本のデフレを解釈することは疑問だと考えているが、もしも上のような枠組みで現在の日本のデフレが解釈できるとすれば十分な量的緩和を実施することに金融政策当局がコミットすればデフレは瞬時に終息することになる。

BF 5.3, p.243 では、BF 5.3 のモデルの世界では、非貨幣的なハイパーインフレ均衡はインフレ率が高くなったら十分な金融引締を行なうというルールを採用すれば自然に排除されることが示されている。

BF 5.3 のモデルの時間離散版は齊藤誠の教科書『新しいマクロ経済学』の第5.2節でも解説されている。例によって、非貨幣的なハイパーインフレの可能性を強調し、p.211 の脚註20では小野を引用して貨幣バブルによって生じるデフレの存在も強調している。

しかし、 BF 5.3 のモデルにおいてはバブル (財のバブルならばインフレ、貨幣のバブルならばデフレ) を含む解は BF 5.5 の議論を見ればわかるように学習不可能なのである。だから、そのような解の現実性は疑わしい。

その上、そのような解が現実的だったとしても、モデルが示唆する結論は、金融政策によってインフレバブルもデフレバブルも排除可能だということである。

齊藤は経済セミナーでの連載や『先を見よ、今を生きよ』のような一般向けの書き物で misleading な議論を展開しており、大いに問題がある。

さて、インフレバブルやデフレバブルが生じている状況でバブルを潰したら、モデルの世界では何が起こるだろうか? バブルが潰れた瞬間に実質貨幣残高 m = m(t) はファンダメンタルズ均衡 m = m^* にジャンプすることになる。ここで、 m^* は次の式で定義される定数である:

u'(m^*) = θ + σ.

実質貨幣残高 m のジャンプにしたがって物価水準 P = M/m もジャンプすることになる。たとえばデフレバブルが潰れるとその瞬間に m は下にジャンプするので P は上にジャンプすることになる。すなわち、物価水準が一時的に急
上昇することになる。物価水準が瞬時に調整されるという仮定のもとでモデルはこのような振る舞いをしてしまう。

実際には物価水準の動きは極めて粘着的であることが知られている。物価水準だけではなく、その対数微分であるインフレ率も連続的に動く。ハイパーインフレの終息時のような極端な状況でも物価水準の連続性は保たれている。物価と株価の動き方はかなり異なる。物価水準はジャンプしないので、金融引締のための時間は十分にある。