若田部昌澄『もうダマされないための経済学講義』

 先に出版されてヒットした『本当の経済の話をしよう』(栗原裕一郎氏との共著)が時論を中心とする応用編だとすれば、本書は経済学への入門と兼ねる原論的な位置づけにあるといえる。

 経済学を4つの主要概念ーインセンティブ、トレード・オフ、トレード(貿易、交換)、マネーから、最新の経済学の成果を巧みに取り入れて、初心者に心地よい知的刺激を与えながら語っていく手法は、相変わらず見事である。

 インセンティブは「やりたいという気持ちを引き出すもの」。人間は誰でもやりたいことをやる。これは当たり前です。けれどもそこに一定の「制約」がある、というのがトレード・オフの問題です。資源が「制約」されている、予算が「制約」されている、あるいは時間は「制約」されているといったことが、トレード・オフのもとになります。

 経済学はインセンティブの学問であり、その延長でトレード・オフの問題も派生してくる。他方でトレードもまた重要だ。特に多くの人(著名なエコノミストや評論家さえ)、国際間の取引をゼロサム的に考えてしまう(米国が得なら日本は損とか)。これは基本的に間違いだ。経済学ではトレードは相互に利益が発生すると経済学はみなし、そしてそれは頑強な命題を用意するものとなっている。一般に保護貿易論者でさえも、自由貿易論者と同じように、貿易(トレードの一形態)を否定しているわけではない。トレードの枠組みを設定する点での違いだけである。ここが注意が必要であり、単純なゼロサム的思考からのトレード完全否定は、保護貿易論を含めて経済学に居場所を見出すことは難しい。

 また本書は著者の専門である「歴史」的視点が鮮明である。その一番典型的なものが、マネーをめぐる話題である。特に物価とマネーがどのように関係するのか、それを見る時にポイントとなるのが貨幣数量説と国際通貨制度である。最もシンプルに考えれば、貨幣数量説は、マネーの増減と物価の高低を直接に結び付ける。物価はつねにマネーの問題である。ただし本書では、昭和恐慌などの歴史の経験から、物価はマネーの問題であり、なおかつ人々の期待(予想)に大きく依存するものであることも示している。

 本書は4つの講義にわかれている。その最後の第四講義で書かれているが、投資や消費を人びとや企業が決める際には、利子率が重要な働きをもつ。しかもそれは名目利子率ではなく、実質利子率(=名目利子率マイナス予想インフレ率)だ。なぜなら人が車や住宅を購入するときにローンを組み。そのときに利子率をみるが、その契約の書面にあるのが名目利子率だろう。例えば1%の(名目)利子率が課せられるとしよう。しかし今後、しばらくデフレ(物価がマイナスになる現象)になるとしよう。すると実質的なローンの負担は、書面にかかれた(名目)利子率ではなく、実質的な利子の負担を考慮しなくてはいけない。その指標が実質利子率だ。この例だとデフレが将来マイナス1%で続くと人が予想するならば、実質利子率は先ほどの関係からなんと2%ととなり、名目利子率よりも高く負担としてローンを組み人に課されることになる。これは消費だけではなく投資も同じだ。この意味からも人びとが将来の物価がどうなるのか予想を左右することが非常に重要だということがわかる。

今のように、金利はゼロでもデフレが進んでいると、名目値はゼロでも実質値はゼロではないわけです。そこにインフレ期待が起きると、名目の利子率がゼロのままでも実質値が下がるので、投資が増えます。インフレ期待によって、投資にとって有利な環境になってくる。

 また本書の19世紀からの国際通貨制度の記述は詳細で面白い。特にドルは「基軸通貨」である、というものは実体のほとんどない、単にみんながドルを使うと便利だからと思っているその慣性でしかない、と論ずるあたりは、先の国際貿易は弱肉強食(ゼロサム思考)に毒されているひとは何度も読んで自己省察すべきところだろう。

 個人的に本書を読んでツボだったところは、日本の江戸時代を扱ったところとそして田中角栄に代表される戦後の日本経済の枠組みに関する考察だ。ここでは前者についてみておく。

 若田部さんは江戸時代を「変化のない定常社会」としてみなす考えに反論している。江戸時代は全体的に一人当たりの所得が増加している(特に後半)。幕府の政策は発展促進的ではなかった(インフラの不整備、規制など)。だが江戸時代はいま書いたように決して発展していないわけではなく緩やかに発展していた。なぜか? 若田部さんは、二点ポイントをあげている。1)平和という公共財の存在、2)意図せざる低税制(米=税金、検地必要。だが検地を逃れたり、米以外のものをつくるインセンティブの存在が、実質的な低税率を実現)である。これは隠れて米をつくればつくるほど自分のものになる限界税率ゼロであると若田部さんは指摘し、それゆえに発展する大きな動因になっているとその『見えざる手」の効果を指摘する。

 この江戸時代の発展は、さらに開国で大きく飛躍する。日本には関税自主権がなく、関税ゼロのため完全自由貿易が実現してしまう。それによるGDPの押し上げ効果は15%増だというのが最近の推計である。関税自主権がないことは、日本の政治力のなさとして否定的に語られるのが一般的なイメージだが、こと国民の生活水準に与える影響はよい方向だったというわけである。

 これらの江戸時代の大枠の動きを背景に、若田部さんは江戸時代の政策当事者である荻原重秀(1658−1713 江戸初期から中期にかけての人)に注目しています。他方で同時代人の新井白石を「元祖人文系ヘタレ知識人」として批判的に対置させている。

 荻上の業績は、1)延宝検地の実施、2)元禄8年(1695年)の改鋳=通貨膨張政策 である。後者が特に重視されている。佐渡金山の産出量減少⇒貨幣の流通量減少⇒経済低迷(この流れはこのエントリーを参考のこと)。経済低迷に加えて徳川綱吉の散財癖もかさなり財政難へ。荻原はそれを改鋳(貨幣の金の含有量を減らして、貨幣の流通量を増加させる)で対策を行う。インフレ率を年2〜3%に維持できる政策となった。

 これに対して白石は1712年に荻原を失脚させ、デフレーション政策を開始する。なぜデフレにしたかというと、インフレで経済が活性化すると、農業よりも商業活動が活発になる。すると農業に基礎をおく武士社会がゆらぐ。そのため社会全体の奢侈を抑制するためにデフレ政策をとるという姿勢を示したことになる。だがそれはかえって武士の生活自体も困窮させてしまう、という帰結になってしまう。

 この荻原と白石の対比は、今日的な意義も非常に大きいだろう。僕の個人的な興味でこの江戸時代の話題を拾ったが、本書ではこのエピソードはほんの一部分にしかすぎない。日本の近現代の歴史を経済の視点から、また国際的な比較や、国際通貨制度の変遷もからめて俯瞰しているその描写の手腕は見事である、と頷くしかない。

 最後に本書は、若田部さんの恩師でもあり、そして僕の指導教官でもあった故上原一男先生への謝辞によってしめられている。

 先生は経済学史家も経済学者なのだから普通の経済学をきちんと勉強しなくてはならない、また日本の社会科学者として日本のことを論じなければならない。しかし経済学史の専門家なのだから古典をきちんと読まなければならない、という3つの素晴らしい忠告をしてくれました。

 先の『本当の経済の話をしよう』とともにぜひ通読しておきたい。

もうダマされないための経済学講義 (光文社新書)

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本当の経済の話をしよう (ちくま新書)

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