戦慄すべき本だった件について

http://cruel.org/other/matsuo/matsuo.html

 実はまだ読んでないんだよなあ。笑。まあ、疎外論ぽい枠組みは、新古典派経済学を少し応用すればできる(もちろんそれはマルクス経済学の疎外論とは違う)し、また同様に新古典派経済学を利用してマルクス的ひがみ論とは違う次元でひがみ論を語ることができる。だから疎外やひがみ自体は経済学的にみても重要なテーマだと思う。

 ということを山形さんが一言でいうと次のようになるんだろうね。

疎外論とやらを勉強しても何の御利益もなさそうどころか、それでまたもやポル・ポトと同じ論理に陥るのでは何の甲斐もないじゃないか。それに、そこで言われていたようなことは、ゲーム理論ナッシュ均衡でおおむね説明できてしまうんなら――何の意味がある?:

 まあ、実際にはナッシュ交渉解なんだけども、このような新古典派経済学の枠組みを少し拡張して、疎外やひがみを説明して、そこでマルクスケインズ新古典派までひっくるめて説明してしまえ、という試みは日本でも古くからあった。それが僕もしばしば言及している辻村江太郎氏らの業績で、これは簡単な説明がecon-economeさんのこのエントリーにもある。実際には下みたいな図表を書いて議論していくもの(econ-economeさんから拝借。スマソ)。

econ-economeさんが松尾さんの貢献に一貫して好意的なのは、この辻村理論への親近感で説明できるんじゃないだろうか。ただしもちろん松尾マルクス理論とは疎外の意味もひがみの意味もかなり違うけれども。山形さんの書評から借りれば、辻村理論には「本質」も「本来の姿」も関係ないもの。だからそういったものに依存していると思われる松尾理論とそれに依存していない辻村理論はやはり違う。やはり○系と新古典派の違いが最終的には効きまくり。僕も辻村理論は好きなんだけどもそれゆえに松尾さんの業績(例の奨励賞を受賞した草稿や、共著での反経済学論文など)への否定的なニュアンスの発言になってしまう(前者は松尾さんへのメールで表明、後者はどこかのブログで書いたおぼえが‥‥どこだっけ? 笑)。econ-economeさんの評価は松尾さんの議論を辻村理論の視角からみるかぎり甘すぎると思う。ただここらへんの評価の別れ具合も個人的には面白いと思う。ちなみに辻村理論を応用して90年代の終りに論文(福田徳三論)も書いているんだよね 笑。詳細は僕の福田論がそろそろ完成するのでそれを待っていただくということで 笑

はじめての経済学

はじめての経済学

 それとアソシエーション論についてはこれも反経済学ネタとして僕は長いこと愛好してまして、モンドラゴン批判の文脈で、以前、『日本型サラリーマンは復活する』で1章割いて書いた。その批判の観点を簡単にいうと、モンドラゴン(アソシエーションの一種)ではみんな共通の理念のもとでわいわい頑張ってやっているようにみえても、それはスペインのマクロ経済状況がすごい酷くて、実はモンドラゴンもそんな誉めたほど素晴しくはないんだけれども、ゼロよりも稼げるだけまし、だからみんな我慢してやっていくしかないわけ。逃げ場がないので組織改革に励まざるをえない状況。

 奥村宏氏なんか日本の法人資本主義を批判して、佐高信氏なみに「社畜」ぽいこといいながら、他方でアソシエーションやモンドラゴンを褒め称えたけれども、実は内実をみればその「社畜」成立のロジックと大してかわらないんだよね。詳しくは拙著を読んでもらいたいんだけど、あけすけな言葉を書くと地域社会のマクロ的窮状をむしろ利用して存立しているあこぎな組織にしか思えなかったんだよね。そんなあこぎ(?)な所業よりもマクロ的窮状を
どうにかするほうが、モンドラゴン(アソシエーション)100万個つくるよりもずっといいよね、というのが僕の結論。マクロ的状況がよくなれば窮状を利用してあこぎな(?)組織作りに励んでいたモンドラゴンもほかの企業とかわらないものになっちゃうんじゃないか、というのが僕の見方。これをやや今回の山形論説風にいうならば、人様の疎外感や本来の姿やらひがみやらをあこぎに利用したアソシエーションもマクロ的窮状につけこんだ新興宗教とかわらない、ということでしょう。その評価でいいでしょう。

だから稲葉さんもそうだと思うけれども(違ったらすまん)、まさにいまの最大の経済学的テーマ(少なくとも経済思想的テーマ)は「カルト」とか「ペテン」なんだよね。『蟹工船』ブームも根っこ同じ。

日本型サラリーマンは復活する (NHKブックス)

日本型サラリーマンは復活する (NHKブックス)