トマス・シェリング『紛争の戦略』


 ノーベル経済学賞受賞者の代表的な著作ついに待望の翻訳。

 シェリングについての短文二篇

ノーベル経済学賞Dr.Strangelove

 『2001年宇宙の旅』や『時計じかけのオレンジ』などの名作でしられるスタンリー・キューブリック監督に『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を・愛する・ようになったか』という作品がある。邦題の『博士の異常な愛情』は原題ではDr.Strangeloveとなっていて、これは映画の中に登場する元ナチスの科学者の名前である。アメリカ戦略空軍基地の司令官が部下に核兵器ソ連を先制攻撃しろ、という指令を出してしまうことから物語は展開する。これを知ったアメリカ政府はなんとかこの暴挙を止めようとするが、複雑な統制システムが裏目に出てしまい、ついにソ連核兵器基地に水爆が投下される。ソ連側はアメリカ側に攻撃の意図がなく偶発の事故であることは認めているにもかかわらず、北極にある最終兵器(人類すべてを皆殺しにする報復兵器)が自動的に作動してしまう。

 名優ピーター・セラーズ演じるストレンジラブ博士は、アメリカ国防総省の地下にある会議室で大統領や政府高官、将軍たちを前にこの人類絶滅の危機を前にして狂気にみちた熱弁をふるうのである。「地下1000メートルに選ばれた人間が100年過ごせば地上に出られます。男性1に対して女性10を交配し、人類の伝統と未来を守るのです」。そして車椅子から立ち上がると、ストレンジラブ博士は“ハイル・ヒットラー”の姿勢をとりながら「総統! 歩けます」と叫ぶのである。映画はこの後、ヴェラ・リンの「また会いましょう」という優雅な歌声とともに、水爆による無数のキノコ雲の実写を流しながら終えるというまことにブラックな作品に仕上がっている。この映画の公開年はいまからちょうど40年前の1965年であり、その前後には米ソの核による人類最終戦争を描いた多くの映画作品が現れている。『渚にて』(1959年)、『未知への飛行』(1964年)、『駆逐艦ベッドフォード作戦』(1965年)、そして日本の円谷英二特撮による『世界大戦争』(1961年)などが代表的なものとして知られている。

 ちょうどこれらの米ソ冷戦やキューバ危機の悪夢を背景にした映画が続出したころ、今年度のノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリングやロバート・オーマンらのゲーム理論の業績が登場した。特にストレジラブ博士と縁が深い業績が、シェリングの東西冷戦分析であろう。相手側の先制攻撃に対しては、自動的に核攻撃を行うシステムを構築することが抑止に有効であることをシェリングは証明した。一方の先制攻撃は互いの共倒れになるために、先制攻撃自体が抑制されるというわけである。これはストレンジラブ博士たちが直面した状況と同じであるのだが、シェリングの理論との重要な差異は事前のコミットメント(ゲームのプレイヤーがプレイの前に採用する戦略を明らかにし、確実にその行動を将来行うことをアナウンスすること)がストレンジラブ博士たちには欠けていたことである。ソ連の開発した自動報復最終兵器や、ストレンジラブ博士が開発中であった同種のシステムもともに相手方に十分知られていなかった。このようにコミットメントが不在の冷戦ゲームでは、ひょっとしたらキューブリックの映画のような事態があったかもしれない。しかし現実にはキューバ危機の反省から米ソはホットラインを開設し、また互いに報復システムへのコミットを明瞭にするなどの抑止策を徹底した。ところでブログ 「限界革命」によると、シェリングは『博士の異常な愛情』についてキューブリックに助言していたらしい。経済学と芸術の見事な共演を、公開40周年を迎えるこの映画を楽しみながら実感したい。

●Focal Point


シェリングの『紛争の戦略』の貢献で他に名高いのはFocal Pointの議論。以下はすこし前にこのブログで、ロバート・サグデンの論文に触れたときに書いたものを修正再録。

1991年にロバート・サグデンという人が『エコノミック・ジャーナル』に合理性をめぐる展望論文を書いていて、このサグデンの論文では、ベイジアン合理性では解決できない自滅問題を別の合理性概念を前提にすれば解けることが直観的に説明されています。


 同論文ではまずベイジアン合理性(この言葉自体はサグデンの論文には出てこないので、期待効用仮説と基本的に同じなので以下ことわりないかぎり期待効用仮説といいかえる)の基本的な3つの仮定を「合理性の共有知識」と命名しています。

 1 ゲームの数的表現は共有知識である

 2 各プレイヤーは期待効用仮説の意味において合理的であり、相手方の選ぶ戦略をサベッジ的な意味での「出来事」として取扱い、このことが共有知識となっている。

 3 ゲームに関する証明可能な論理的・数学的定理は共有知識である

ところがこのような仮定に基づく合理性は実に単純な問題も解決できない。例えばトーマス・シェリングが60年に持ち出した「細道ゲーム」を解けない。これは二台の車がやっと通れる道をいま二台の車が走ってきても上記の「合理性の共有知識」を維持しているかぎり二台の車は道を通ることができない。


 二台とも左か右を選べばプラスの値の効用をえられるが、たがいに違い方向を選ぶと効用はゼロ。事前交渉をみとめて両者は合意を交わすことは可能だとする。


 しかしこの状況でも両者が「合理性の共有知識」をみたす行為功利主義者(期待効用を最大化できるならば、事前の合意を反故することもいとわない人)であるならば、車は道を通れない。


 なぜならいま田中くんと池田くんがそれぞれ車に乗っていて、事前に「俺たちは左におたがいいこうぜ」と合意していたとしても、両者が上記の意味での行為功利主義者だとするならば、両者ともに道を通るという簡単な協調ゲームができない。田中の車は左にいくという約束をしたから左にいくのではない、なぜなら行為功利主義者なので期待効用を最大化するほうにいくだけである。このとき田中の期待効用最大化は、池田の車がどう動くかに依存する。池田が左に動くと予測されるならば、田中も左に動くべきである。しかし田中は池田が行為功利主義者なのを知っている。池田が事前の合意を守る理由はいささかもない。池田はこのとき田中の行為予測に依存して期待効用を最大化する、しかし田中もまた池田の行為を予測し……と無限後退に落ち込む。


 このときにシェリングはFocal Pointという考えを提起した。田中も池田も共通の信念として左にいくと信じている、というわけである。例えばいまから田中は池袋の本屋にいくのでそこで会おうとだけいっても、勘のいい読者はジュンク堂の地下1階のマンガ売り場にいることを選ぶだろう。


 しかしこの左にいくことがFocal Pointだとしても、それが左にいくべきであるという結論には必ずしも直結しない。だが、「合理性の共有知識」を少しだけ緩めるとこの左にいくという行為が“合理的”となる。つまり彼らが人間は左を必ず選ぶという不合理なことを行う(=完全に合理的であるという共有知識を採用しない)ことを共有知識として保持しているがゆえに合理的なプレイヤー(田中、池田)は協調して道を通ることに成功するのである*1。


 このように「合理性の共有知識」の仮定を緩めることが道の通過という実に単純な協調ゲームを解くことに役だつのである。これをサグデンは合理性の拡張としてとらえているようである。他にも自滅型ゲームの説明があるが今日はこんなところ。ところで合理性については他に本棚に例のノージックの本があった。これもそのうち興味でたら呼読んでみようかな。