チョボチョボ論と増田悦佐


 東浩紀「批評の精神分析 東浩紀コレクションD」 その1 ポストモダン以後の知・権力・文化 稲葉振一郎東浩紀
 http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20080105/1199543492


 こういう対談をしていたとは知らなかった(東コレクションDは未読)。興味深い。以下上記ブログから引用してみると、

:近代化の目指したものは、愚かで弱い人間でも幸せに生きていけるような世の中を作ることではなかったのか? そうであるなら、キャラ萌えして幸せである人間がたくさんでてきたことは、近代啓蒙の勝利なのではないか? それをオタクの出現を見て、イヤだ、イヤだ、こんなバカを作り出すために俺たちは頑張ってきたのではなかった、大衆化社会は愚民の世界だ!、などといいだすインテリのほうがおかしいのではないか?、という論点である。


 以上は増田悦佐さんという人の論らしいけれども、二人ともそれに共鳴しているようである。《みんなが賢くタフになる》などという(カントの「啓蒙とは何か」のような)近代啓蒙主義者の目標は成立するはずがない。なぜなら《われわれ人間はみんなチョボチョボの存在でしかない》のだから。ダラッとして愚かでいい加減な人間が大量に生きていられること、それ自体はいいことだと肯定しなくてはいけないのだ、と。:


 増田さんがこういうことをいっていたか正直忘れたが 笑 チョボチョボ論に対してこのブログの書き手は次のような疑問を提示している。

 : 東氏も稲葉氏も《チョボチョボ》のひとではなく、賢い人、あるいは変なことにこわだるちょっといびつな人のほうであろう。そういうひとたちが《チョボチョボ》について論じるというのが、この手の論の一番の問題なのだろうと思う。わたくしには《チョボチョボ》論というのが、どうしてもニーチェの「末人」「最後の人間」論と重なってイメージされてしまう。とすると東氏や稲葉氏がニーチェのように見えてくるのである。18世紀の《チョボチョボ》論は語っているひともまた、自分も《チョボチョボ》と思っていた。しかし東氏も稲葉氏もどうも自分は《チョボチョボ》ではないと思っている嫌疑が濃厚なのである。:


 実はこのブログの文章は説明不足のように思えて十分理解できないのだが、チョボチョボであってもそれは賢さと愚かさという対立ではないというのがチョボチョボ論の視座であり、ここでチョボチョボを愚か、非チョボチョボ(ブログの書き手からみた東、稲葉)を賢さ、と再び置き換えるのはあまり面白くはない。


 愚者ー賢人という二分法は、上記ブログにもあるように、合理的理性の完全性を尺度にしていると思われる。しかも重要なのは愚者は啓蒙によって賢人に限りなく接近しえるのである(少なくともおこぼれを模倣できる)。いいかえるとここでの愚者は合理的な馬鹿といえるものであろう。馬鹿でも合理的なのでちゃんと教育や鍛錬次第であたかも(as if)賢人のようにふるまいえるのである。これは現在の正統派の経済学の考えとまったく同じだ(このエントリーの趣旨もその点なのだがいまいち理解されてないかもしれない)。


 それでは上記の合理性からする愚者ー賢人二分法にのれないときのチョボチョボ論とはどんなものだろうか?

 合理性に依存しない新しい人間の行動に関する基準を採用するのか(最近の行動経済学のような枠組みで?)、それ以外のなんらかの方法があるのだろうか?

 稲葉自体のチョボチョボ論を今度はこの山形浩生との対談からさらにフォローしてみよう。

現代日本教養論
http://www.toyokeizai.net/online/magazine/story02/index.php?kiji_no=12
http://www.toyokeizai.net/online/magazine/story02/index.php?kiji_no=13


: 稲葉 僕自身は、『モダンのクールダウン――片隅の啓蒙』(NTT出版、2006年)では、3項図式のようなものを考えてみました。一方には、無反省なテクノクラートというか、思い上がったエリートがいて、他方に愚かな大衆がいて、その間に「かたぎの庶民」がいる、というイメージです。もちろん現実の社会が、こういうふうにきれいに分かれるとは思っていませんが、ある種の機能というか、傾向として見ることはできるのではないか。一人の人間の中に、あるいは社会全体に、あるときにはテクノクラート的な方向に走るような傾向があり、その裏返しとして「動物化」していく傾向もあり、あるいは、自分の無力とか無知とかをわきまえながら、世界に対して広い視野を持つという「かたぎの庶民」的な部分もあるのではないか、という図式です。
  その「かたぎの庶民」を、僕は「ヘタレ中流インテリ」と呼んでいます。自分のヘタレ性を自覚した上で開き直らない、理想的な意味での「よき市民」です。ある意味では、かつての「プチブル」(プチ・ブルジョワ)の言い換えかもしれませんが、それよりはもう少し臆病で、ひねくれていて、目覚めてはいるけど「私、目覚めました」と言うのはあまりに下品なので、目覚めたかもしれないけど、目覚めた自分に「本当かよ」と絶えず突っ込んでいく機能を備えている。これが暫定的な「ヘタレ中流インテリ」のイメージです。:


 ここではチョボチョボが「ヘタレ中流インテリ」=「かたぎの庶民」として、そして賢者が無反省なテクノクラート、愚者が愚かな大衆として読みかえられている。この三項図式の中で、稲葉は「ヘタレ中流インテリ」に積極的な意義を見出しているのがチョボチョボ論の核である。


 これに対して山形浩生は、そのチョボチョボがかなり自分をええもんとしてみているのではないか、と疑問を提起している。

:山形 多くの人が――僕や、稲葉さんも多分そうだと思うけど――その3項図式で、上に入るのは面倒くさそうで、どちらかというと下のほうに近い気分はあるけど、自分は「動物化」していると認めるのもどうかと思うから、何となく、中ほどの位置にいるのでしょうね。そうすれば、「自分は上ではないから……」といって謙遜もできるし、他方で下のほうの人たちに対して優越感も持てる。いわば、いいとこ取りをしているような気もします。:


 このいいとこ取りという戦略にも当然に成果の大小が存在する*1。先に簡単に先取りして整理すると、従来の賢人ー愚者という二分法ではなく、稲葉と山形はこの対談の中で、チョボチョボを、ツボをおさえた人(チョボチョボでも成果の大きい人)といまだおさえてない人(チョボチョボでも成果の少ない人)の擬似的な二分法でとりあえず議論しようとしているようである。


:稲葉 小松左京の『日本沈没』には、情報科学者の中田という人物が登場します。小説の中で中田はタスクフォースのリーダーになりますが、彼は、「ツボ」とか「勘どころ」がいかに重要かという話を一生懸命します。それは、小松左京自身の方法論なのだろうなと思うわけです。世の中のすべてを知り尽くすことは不可能だし非効率だけど、でも、世界じゅうを見渡したほうが良いということも事実であって、そのとき、どうやってバランスをとるのか、という意味での方法論ですね。

 山形 そういった「ツボを押さえることは素晴らしい」というイメージは、当時のSFには強くありました。I・アシモフの『銀河帝国の興亡』に出てくるサイコヒストリアン(心理歴史学者)たちとか、A・E・ヴァン・ヴォーグトの『宇宙船ビーグル号の冒険』に出てくるネクシャリスト(総合科学者)たちですね。かつては、それらが憧れの対象となっていた時代もあって、P・クルーグマンが経済学者を志したきっかけもそうだったなんて話もあります。:


 従来の合理性に代わる、ツボという基準をどう理解すればいいのか。超越的に言うと、この「総合科学者」はカント的(啓蒙)というよりも、ヘーゲル的な存在(総合)なのかもしれない。その意味では知的なモデル(wertの世界)を現実(seinの世界)に適用して、実践的な成果を得る=ツボを得る=総合弁証法 という図式を描くことが可能ではないのか? といまは勝手に理解しておく。

*1:この戦略の成果の大小にこだわるところで稲葉も山形も一種の帰結主義者といえるのかもしれない