大田俊寛×山形浩生「「幻惑する知」に対抗するために」

 『Sangha』八月号を以前頂戴したまま、Twitterでふれた程度でした。ブログの方でもきちんと記録を残したいと思います。去年の年末で山形さんと稲葉振一郎さんと三人でSF懐古イベントを開催してからの、山形さんの今年一年の活動をみていると静かだけども着実に異分野間の横断を積極的にやり、またいろんなタイプのイベントにも参加しているように思えます(最近では僕と宮崎哲弥さんとのニコニコシノドスの対談AJERの講演など)。山形さんの去年の訳業以外では、やはりこの対談が記憶に残りました(一部はシノドスジャーナルで掲載)。

 対談はまず大田俊寛氏の中沢新一との出会いや宮台真司氏らのオウム事件のリアルタイムでの言及とそれへの深い懐疑体験を背景にして、以下のような問題意識を提起しています。

大田:このように、中沢さんや浅田さんを初めとする日本のポストモダンの思想家たちは、オウムというカルトの運動を見過ごしたし、後押しもしてしまった。しかし、その責任を取ろうとはしませんでした。そして何より、まずはオウムという現象を客観的に分析するというのが学問の本分であったと思いますが、それがまったくできなかった。その代わりに、「オウムは間違ったけれども、次の革命とはこうだ。ポストモダンの社会とはこうあるべきだ」といったナンセンスな革命論が提示され、それに基づいた空虚なアジテーションが繰り返された。それは今もなお、形を変えて反復されています

対談はふたりの個人史、特にオウム事件とのかかわりに焦点をあてていて、それから近代科学をめぐる話、近代科学の「限界」を呪術的な知ともいえるもので超越して近代科学全体を否定してしまう思考方法の危険性に話が移ります。その中で、ポストモダン的な風潮が、この種の近代科学の超越としてあり、さらにオウム的なカルトとの結びつきを自己清算できていない。その文脈の中で、ソーカルとブリクモンの『知の欺瞞』の話題になり、アカデミック・カルト(山形さんはこの政治的影響については保留ぎみ)の話題にも展開していきます。ここらへんのポストモダン論者への批判を見ながらの、近代主義と反近代主義の考察は面白い。『知の欺瞞』の問題意識のひとつが、ポストモダンが閉塞的な知の環境をつくってしまい、左派的なリベラルの政治的立場を毀損してしまう、という観点は、今の日本でもかなり真実味を持っているのかもしれない。

ところで両者の対談で面白いのはやはり後半のカルマ論のところだ。

大田氏のまとめ

近代以前は生きるも死ぬも共同的な事柄⇒近代は生死は個人的なもの⇒霊や魂も個人的なもの(個人主義的霊魂観)×カルマ(行為)論⇒スピリチュアイズム、ニューエイジの出現⇒個人主義的霊魂観がエゴイズム的な側面を促進しているのでは?(大田氏の問題意識)⇒その表れがオウム真理教の霊性を高める人間と低い人間の二元論

「その背景には、良いカルマを積んだ霊性の高い人種と、悪いカルマを積んだ霊性の低い人種がいるという観念が存在していた。そしてそこから、高等人種の進化にとって障害にしかならない劣等人種は粛清すべきであるという、大量殺戮論につながっていった」

この大田氏の意見に対して山形さんは、それはカルマ論そのものの問題というよりも、何がいい悪いカルマなのかという外的な基準の話ではないか、と反論します。ただ対談の終わりの方で、近代カルマ論の問題性として、「変に自分のカルマを過信してしま」い、他人に自分のカルマ観を押し付けたる危険性にも言及している。つまり個人としてやってるなら問題のないものでもそれが他人に強制されることの危険性を指摘している。

この対談を読んだことを契機として、僕は大田俊寛氏の著作を読んだ。その感想はまたいつか。

サンガジャパン Vol.10(2012Summer)

サンガジャパン Vol.10(2012Summer)

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

この対談の前半でしばしば話題になっていたソーカルらの本が今年文庫化されたのも記憶に残ることだ。

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

この対談でふれられている山形さんのエッセイ「死ぬこと」は以下の本に収録されている。

要するに (河出文庫)

要するに (河出文庫)