根井雅弘『物語 現代経済学』

 本書で共感できる点がふたつある。それは経済学の多様性を支持していること、そして経済学のプラグマティックな側面に寛容な点である。そして本書の許容しがたい点は、本書でも重視されているフランク・ナイトらの評価が一面的であること、それに関連してミルトン・フリードマンへの評価がこのブログでも紹介したバイアスに依拠していることである。おまけに加えるならば理由が明記されていないがインフレターゲット政策にも否定的である。


物語 現代経済学―多様な経済思想の世界へ (中公新書)

物語 現代経済学―多様な経済思想の世界へ (中公新書)


 なお本書のノーベル経済学賞の記述は、彼の経済学の多様性の否定という文脈でそのシカゴ学派よりの人選を批判しているようである。しかし本書のもうひとつの(私が評価している)経済学のプラグマティズムな側面への評価を重視するならば、ノーベル経済学賞の従来の人選もそれほど酷いとはいえないと思う。もちろんこのブログでも再三言及しているように、現在の「主流派経済学」(もともとはサミュエルソンの発案のようである)よりの人選で忘却されている重要な経済学者は多く、例えばコルナイやハーシュマンらは受賞してもおかしくはないだろうが、あまり見込みはないかもしれない。しかしノーベル経済学賞が経済学の多様性を損ねているという事実はどれだけのものなのだろうか? 


 さて本書ではナイトとフリードマンをまたまたあまりにも断絶的にとりあげている。前者は市場機構の長所と欠点を理解している複眼的な人であるが、フリードマン市場原理主義という少数派にしかすぎない、という解釈はあまりにも単純化していると思う。


 例えば、フリードマンの妻のローズはその著作の中で、ナイトらシカゴ大学の経済学者とその後裔であるフリードマンたちの経済思想的なつながりを、20-30年代の主流であった清算主義的な経済思想と対比させて次のように書いている。


シカゴ大学は別でしたが、多くの伝統的な数量説の信奉者たちが、きまってとりあげ、アメリカのみならず世界各国の経済学課程で、必ず持ち出された大不況についての説明は「先行したブームの当然の帰結」であり、それが「ああまで厳しくなってしまったのは、物価や賃金の暴落を防ぎ、企業のゆきづまりを避けようとして、当局がやっきになっていろいろな政策を行ったからだ」というものでした。彼らは、大不況が起こったのは、金融当局が「恐慌」前にインフレ政策を取ってきたからであり、大不況が不必要に長びいたのは、「恐慌」後も、金融緩和政策が取り続けられたからであると考えていました。彼らが唯一の健全な政策と主張したのは、不況をそのまま進行させ金融コストをさげ、弱体で不健全な企業を淘汰してしまうというものでした。
 ですから、ケインズの不況に対する考え方や、財政赤字によって不況を克服する方策が、はるかに明るく苦痛の少ないやり方だとして熱心な受け取り方をされたのはむしろ当然だったといえるでしょう。しかし、ナイト、ヴァイナー、サイモンズ、ミンツなどの諸教授の下で研究していた私たちシカゴ大学の仲間たちに取っては、ケインズから得るものは、ほとんどありませんでした。私たちの先生方は、不況の間中一貫して、銀行がつぶれ、企業が破産するのを座視しているとして、金融当局をするどく非難しました。非難は、研究会の討議、一般向けのパンフレット、そのほかのあらゆる手段を用いて行われました。彼らは、連邦準備制度公開市場操作を拡大し、政府の金融力を高め、銀行の流動性を増加することを主張し、同時に政府がデフレ抑制のために赤字予算を編成することを事あるごとに要求しました」(『わが夫ミルトン・フリードマン』邦訳15-6頁)。


 ちなみにこのローズの発言はアメリカの大恐慌だけではなく日本の「失われた十年プラスアルファ」にもまさに該当し、そしてこの彼女の発言ほど見事な要約を私はあまり知らない。


 なお根井本に紹介されていたフランク・ナイトの次の引用は個人的に非常に参考になったのでご紹介。ナイトの「倫理と経済改革」(1939)より

「そして、実質的な人間の平等が、明らかに、平等であるという一つの権利とともに、平等な諸権利をもつということを含んでいるように思われる。自由とは、繰り返すならば、人がなし得ること、すなわち、力を発揮し得ることをする権利を意味しており、人が力をもっている限りにおいて内実を伴うのである。不平等な力を行使する平等な権利なるものは、平等ではなく、その反対である」(根井172頁より)。


 おそらくこのようなナイト的な機会の不平等論とでもいうべき論点は、制度学派的な社会改良の基礎になるんでしょうね。