ミルトン・フリードマンを批判するあまりだと思うが、正直いって意味がわからない。
「コストとベネフィットを天秤にかけて問題を考える経済学のABCを応用すれば、環境汚染の問題は政府の規制や監督よりも「汚染排出課徴金」を賦課して市場に規律を導入するほうがもっと効率的に処理できるというフリードマンの考え方が、現在では多くの経済学者やエコノミストに支持されても不思議ではないが、すべてをコストとベネフィットの関係に還元してしまうという思考法の中には、「市場の失敗」よりは「政府の失敗」の方が深刻だという「価値判断」が含まれていることを見逃すべきではない」(17頁)。
コストとベネフィットの分析(費用便益分析)には、「市場の失敗」よりは「政府の失敗」の方が深刻だという「価値判断」」なんて価値判断は含まれてませんが? 伝統的な解釈では、仮説的補償原理による潜在的な厚生の改善が、費用便益分析の基礎*1だと思うけれども?
そこに本書でいうところの「政府の失敗」=「政府の活動は、完全な知識によって行われるわけでもなく、厳正中立でもなく、効率的でもない。そのため、政府が介入することによって結果が悪くなる可能性がある」(13頁)ということが、「市場の失敗」よりも「深刻」である、などという価値判断がどこに入りこむ余地があるんだろうか?
フリードマン批判したい気持ちはわかるが、いくらなんでもこんな費用便益分析の我流解釈書くのはいかがなものでしょうか?
それとあいかわらず宇沢氏のナイトのフリードマン、スティグラーたちの「破門」ということを書いている。前作『物語現代経済学』では、宇沢氏の発言をそのまま引用して、「破門」によってナイトとの伝統を遮断するという論法だったけれども。ひょとしたらこのブログでの僕の反論を目にされたのでしょうか、今回は註釈になってて、しかも「その場に居合わせたわけではないので、私にはその真偽を確かめる術はない」(37頁)としてある。
しかし真偽のわからないものを書いてはいけないでしょうが。
経済学の多様性の必要も理解できるし(でも役にたたない経済学、例えばはだか経済学みたいなものを必要以上に認めるつもりもないけれども)、また経済学の実践の必要性もわかる(レギュラシオン、スラッファ、ポスト・ケインジアン経済学などが実践に役立ったというのはあまり聞いたことがないけれども)。でも本書ではほとんどいまの経済の話はでてこない。でてくるのはマイナーな学派をもっと認めろという派閥的な物いいと、スミスやケインズはそんなことはいってない、というそれだけではただの教条主義的な物言いだけ。
経済学の多様性と実践性に注目するならば、もっとフリードマンに批判ありきではなく、ちゃんと取り組むべきではないだろうか? 僕だってフリードマンを全面支持しているわけではないが、根井さんのフリードマン批判はただの全面否定でその行為そのものが経済学の多様性を認めていないと思う。
- 作者: 根井雅弘
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あともし「ニューケインジアン」が「ケインジアン」であると名乗っていることが、日本のごく一部の経済学史研究者の教条主義的な物言いの中で、「彼らはケインズではない」という批判が苛烈??であれば、たぶんニューケインジアンといわれる人たちのほとんどがその名称を棄ててもかまわないというかもね。僕は棄てる必要性もそんなに感じないけれども、それで不幸?な気分になる日本の経済学者たちがいるのなら、費用と便益をくらべて名称変更するかもね。しかし、そんなことがそもそも大きな問題なの? 本当にそういう発想自体がダメダメな教条主義の物言い以外の何者でもないと思うけどね。