根井雅弘『経済学はこう考える』

 根井氏の本には一貫して批判的だったが、残念ながら若い人(ジュニア)向けのこの本でも同じである。「経済学者にだまされるな」という懐疑的警句は、経済学の初心者にとって迂闊な物言いである。著者の想定する「主流派」経済学でさえもその教義の基礎を学ぶには大変な労力であるし、他方で多様性を許容するとなるとさらにその修行は数倍のものがあると考えられる。

 「経済学者にだまされるな」という発言をジョーン・ロビンソンのたかだか20数ページで、彼女が想定していた「経済学者」の教義(主流派の教義)をジュニア読者に提供することは不可能である。つまり不用意な警句の類(2009年ついに世界の終りが来た、悔い改めよ)というのと大きく変わらない。

 残念なことだが、学部時代も大学院になってさえ需要・供給分析さえも危うい人たち(母校だけではもちろんない)にもごろごろ経済学の基礎さえも理解していないのに経済学者への懐疑だけは人一倍強い経済学学部生や大学院生がいた。自分達が懐疑の対象とするものを満足に理解していないで、いったい何に懐疑の念を向けているのか僕には理解できなかった。ただ単にその人たちは独善的な経済学の解釈と、あまり根拠のない経済学への不信と独特な自己流「経済学」とを吹聴するだけであった。

 その数は無視できないほど多かった(なんといってもポストモダン全盛期のことでもある)。ましてや経済学を専攻するかどうかわからないジュニアたちに入門書段階で、こんな中途半端な警句を与えることには慎重であるべきだ。また著者は主流派は経済学の多様性を許容していないという。残念ながらそれは違う。本書における著者と同じやり口を主流派も採用しているといえる。経済学に色々な流派が存在するのは主流派の多くも認知している。

 例えば著者が主流派の代表としているロバート・ルーカスをみてみよう。彼は従来のケインジアン経済学を「ルーカス批判で」否定し、あたかも多様性を許容していない代表のようにいままで根井氏では扱われている(本書でも同様の趣旨で敵役である)。しかしそれはおかしい。なぜならルーカスは、彼の回想をみいてもわかるが、IS-LM分析の実践的な役割にわりと肯定的である。また最近のルーカスの発言では、中央銀行はゼロ金利制約に直面してさえも、景気の安定(不況からの脱出)や物価の安定(=デフレ回避)に金融政策が効果があると考えている。

 これは本書で素描されたり、根井氏がほかの著作で一貫して取り上げているルーカス像からは出てこないだろう。「主流派」も根井氏も経済学の多様性や、また実践知を尊重しながら、それでもその多様性の中で何が優位するかという見解をとっている点でまったく同じである。「主流派」は多様性に不寛容である、という印象を本書などを読むと事情を知らない読者が誤解しないか心配である。


 ところで前著『経済学とは何か』をちょっと一部分再読して驚いたことがある。例によってフリードマン批判の文脈でである。これは前回この本をとりあげたときhttp://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080713#p1に批判し忘れたところである。

 根井氏は、ミルトン・フリードマンのインタビューで、大恐慌のとき「銀行は準備が増えても貸出を増やさないから、公開市場操作ではうまくマネーサプライを増加させることはできないというのが一般的な見方でした・しかし、政府を赤字にし、その赤字を貨幣の印刷で賄えば間違いなくマネーサプライを上手く増やすことは可能でした」とし、そのような手法をシカゴ大学の教授たちがケインズに特に学ぶことなく主張していた、と発言したことに注目する。

 これに対する根井氏の批判は、「その基本的な考え方は、マネー・サプライの増加は一時的に産出量や雇用量の増加をもたらしても長期的には物価を上昇させるだけだという点に尽きる。それでも、政府の赤字を貨幣の印刷で賄うという政策に固執するとすれば、いろいろな疑問が浮かんでくる」とする。フリードマンらの貨幣数量説は政府の赤字支出とは全く関係がない、というものだ。「いろいろな疑問」については『経済学とは何か』の118-9頁を参照してほしい。この根井氏の「いろいろな疑問」は、彼の疑問の前提が間違っているので僕にはあまり理解できなかった。

 たぶん金融論のごく初歩的な常識の範疇だと思うが、フリードマンが描いたシカゴ大学の人たちが大恐慌期に主張した手法は、シニョレッジ(通貨発行益)を利用して政府の赤字支出をファイナンスせよ、と云うことに尽きる。シニョレッジの存在そのものは貨幣の発行というものに関わる単なるいわば「常識」である。つまりいうまでもないことなのである。もちろん貨幣数量「説」でもこのシニョレッジは前提とされている。入門レベルではこの点にふれていないものもあるし、根井氏の著作で私はこの言葉を見かけた記憶がない(見落としているのかもしれないし、もしあるとしたらなぜこのシニョレッジの存在を今回は無視するのか理解不能になるのだが)。

 この「常識」については、以下の高橋洋一氏の文章がネットでみれるので参照しておく。

http://archive.mag2.com/0000064584/20020705145000000.html?start=320

ゼロ金利状態において量的緩和の物価に与える効
果は、主として通貨発行増による発行差益が国民にばらまかれることによる非
貨幣部門の超過需要によるものだ(seigniorage channel )。一例として、こ
れは国民ひとりひとりに現金を直接与えたり、または減税などの手法で還付す
るということを意味する。

量的緩和にともなうマネー
の供給増にともなう通貨発行益の効果である(seigniorage channel)。例えば、
日銀券発行では発行価額の99・8%程度の発行差益を得ることができる(残り
の0・2%は日銀券製造コスト)。この差益が、国庫納付金となって国民に、
または日銀から直接に金融機関にばらまかれて需要を創出するはずだ

 このような seigniorage channelは、新FRB理事のバーナンケ教授(プリ
ンストン大学)など海外の学者の間では常識である。

 「主流」経済学の「常識」を学べば、シカゴ大学の人たちの提言が合理的根拠に基づくものであることが自明である。

 経済学の「常識」を理解しないままの経済学への懐疑は、独善的な自己流けーざい学や自己流けーざい学批判という、専門的な初歩知識を理解しないまま専門知にくってかかるという自制心の喪失、専門的知識への無関心・無理解を広げるものとなるだけに、僕はきわめて本書の立場を疑わしく思う。

経済学はこう考える (ちくまプリマー新書)

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