「女工哀史」の真実(釣)


 お待たせしました(誰も待ってないか)。山形浩生さんのところhttp://cruel.org/other/rumors2006_2.html#item2006103101での話題です(このリンク先をまずお読みいただいてから下にいきましょう)。


 hamachan曰く、「私について言えば、労働問題の専門家としてブログを張っている以上、その範囲については専門家としての責任をもってものを言ってるつもりです」


 あっそw じゃあ、少しは「労働問題の専門家」の「責任」とやらを開帳したら? 笑


 (ちなみに「専門家」というのはhamachanにはなにか他人を批判されるときの理由不問の免罪符のようですが、本当の専門家ならばまず専門家なりの知見を出して「非専門家」を批判すべきではないでしょうか?)。

 
 だいたい『富岡日記』と『女工哀史』では時代も文脈もかなり違う。したがってその経済史的意味は異なる。もちろん現代的視点・政策的視点から共通性を見出すことも重要であり、そういう視点は私や山形さんの採る立場であるが、hamachanは日ごろから拙著での村上泰亮らを現代的な視点・政策的視点から「構造改革主義」とすることを「専門家」の行為ではない、と各所で放言されているところからもこの立場をとっているわけではないと判断する。


 また山形さんの方のコメントはさんざん留保したひとつの「伝聞」の紹介である(しかもこの「伝聞」がはからずも正しかったのがhamachanなるものの発言がいい例示になっているww)。


 他方、hamachanの方は、

「いやあ、確かに世の中は女工哀史の通りでしたが、ごく初期の一部では富岡日記みたいなこともあったんですよという風に、居候がそっと出すような言い方であれば、誰も文句は言いません。それだけの話です」


 となってまして、これじゃあ、読んでるほうは『富岡日記』と『女工哀史』をまったく同じ次元で考えてしまうでしょう。つまり『富岡』は『哀史』の例外という扱いね。


 ところで『富岡日記』に書かれている時代は明治6年から数年のもの、他方で『女工哀史』は大正時代後半のルポである。『富岡』は産業政策としての官営工場、著者は地方での技術伝播の役目も期待されたいわば「企業家」的要素も含む、『哀史』は日本の資本主義が本格的展開を始めたといわれる頃のもの、著者は職工・労働運動家。


 で、なによりもその『哀史』自体の記述で、『富岡』の時代が『哀史』の時代とはこーぞー的に違う「初期の女工はいかばかりか幸福に働き得たことかー」と書いたほど『富岡』だけではなく、日清戦争直前ぐらいまでは『哀史』のようなこーぞーは女工の世界には一般にみられなかったことを指摘している。


 つまり、「哀史」の「例外」として『富岡』が位置づけられるのではなく、まったくこーぞー的に違う環境を反映したもの。こういった指摘をするならば「労働問題の専門家」や大河内一男を嫁とおっしゃるhamachanなるもののネットでのご貢献に世界は涙したでしょうw


 むしろ『哀史』を主軸に『富岡』を例外的にみてしまうhamachanの「史観」は、これは「労働問題の専門家」を盾に、ご自身の「構造改革主義」的なマインドの表明(あるいはわたしたちと同じ現代から過去をみる『史観」のご表明)を果たしているだけともよめるのですが? 笑。


しっかしこのhamachanという人、まさに山形さんが書かれたように、「いずれの発言も富岡日記とはまったく関係ない文脈で唐突に行われていること」つまりただ単なる批判のための批判でしかないわけで、まあ、僕も経験してますが、同じパターンの繰り返しですねw


 さてhamachanから離れて(いま言及したように生産的な話には行き着かないのでw)、すこしこの「哀史」といわれる時代をみてみたいと思いますが、ちょっと所用を果たしてからにしますのでまたエントリーを改めましょう。