“構造改革”の正しい淵源


 ところでこのブログはご承知のようにいくつもの「宿題」を抱えて突き進んでいるのですが、今日ふと思い出したのが、いつだったか例の(笑)hamachanだかに、構造改革の歴史をやるのになぜイタリアだとか日本の社会党の「構造改革」に言及しないのか! という奇妙な話題をふられたことがありました。


 でもこれって実は勘違いな方向もいいところでして、当ブログの賢明なる読者の皆さんならばお分かりいただけるように、田中が定義している「構造改革」というのは、資源の効率的な利用を促す政策でありました。そして政策割当的にはこの構造改革は構造問題に、マクロ経済政策は循環的問題に割当るのが正しいといってきました。そして間違った政策割当としての「構造改革主義」の問題点も指摘してきました。


 この(正しい/間違った政策割当論の範囲における)意味での「構造改革」、「構造問題」というのは、もともと日本の経済学の歴史をたどると、福田徳三が「構造」という言葉を、独逸の経済学者B.ハルムスの用語「構造変動」Strukturwandlungから1920年代後半に援用したのがはじまりです。


 これに政策割当的な含意を与えたのは、福田の弟子であった赤松要の著作『産業統制論』(1937年)での「構造的矛盾」(構造問題)と「循環的矛盾」(景気問題)の観点でした。


 しかも興味深いのは、赤松はこの「構造的矛盾」に対しては、規制緩和や政府の不適切な介入の排除などではなく、産業統制で対処すべきだ、としたところです。つまりここで拙著『経済政策を歴史に学ぶ』で書いたように、赤松の同時代人である三木清笠信太郎らの産業統制的な発想を「構造改革主義」(今日の間違った政策割当に基づく構造改革の意味)と名指ししても、それが上記の文脈で定義されていれば、日本の経済思想史の歴史をみれば適切なものである、というのが僕の見方です。


 むしろhamachanが騒いだり(笑)、山家 悠紀夫さんが『「構造改革」という幻想』で、イタリアや旧社会党の政策の流れを持ち出すことは、むしろ今日的な構造改革と「構造改革主義」の問題の淵源からいうと大きい誤解を招くことになると思います。はてなキーワードでもまずイタリアの事例がでてきますが。


 ところで書棚を漁ったら以下の本がありますので、イタリアの方の構造改革を展望したい方にはおススメします。


経済計画と構造的諸改革 : イタリアの場合 / 尾上久雄 著(岩波新書


それとちょっと変った視点では以下も参考になるはず


経済発展 : 理論と現実 / P.シロス=ラビーニ 著 ; 尾上久雄 訳(平凡社
 

日本の方のは山家さんの上で言及した本の冒頭に書いてある程度でいいのではないか、と僕は思います。所詮、関係のない話ですから。