忘れられたリフレ派、続き


 あんないっぱい論文読めませんかそうですか、しかも結構、経済思想史の微妙な解釈に慣れてないといけませんか、そうですか。


というわけで、柴田敬の『増補 経済の法則を求めて』(日本経済評論社、1983/1993)からいくつかの引用。


「当時は、大恐慌の最中で、私は「この恐慌は貨幣と何か関係があるんじゃないのか」という見当をつけて、貨幣の側面から恐慌の研究を進めた」(24)。


「その研究の手がかりを与えてくれたのが、やはりカッセルだった。カッセルは世界の貨幣用の金の存在額と、世界の物価変動との間に密接な相関関係がある、ということを実証してみせた」(25)。ただカッセルの推論の仮定に疑問があったので再検証。


「結局、私が発見したのは、こういうことだった。世界の生産総額と、世界の貨幣用金の存在額との間には、私が最初に予想していたことと違って大体、一定の比率がある、ということだった。すなわちマーシャルが発見した国内の所得総額と通貨存在額との間に存在する一定比率、いわゆるマーシャリアンk−−それと同じようなものが、世界貨幣と世界所得との間にある、ということを発見したのである」(26)。


「それに基づいてみると、第一次世界大戦後の世界経済の変動は次のようにみえた。大戦の間に、ほとんどすべての国が金本位制から離脱したために、上述の“世界経済のマーシャリアンk”が作用しなくなり、世界の所得総額に比して世界の貨幣用金存在額は、はるかに少なくてすむようになった。ところが大戦が終わると、主要諸国が旧平価で金本位制度に復帰する気配をみせた。そうなれば、“世界経済のマーシャリアンk”が支配しだして、大戦の間にふくれあがっていた世界の名目所得額は、急激に収縮させられるはずだった。そして物価も急激に下落し、産出量も急速に収縮せざるをえなくなるはずだった。だから、世界経済は、大規模な恐慌に見舞われるに相違なかった」(26-27)。まさに金の足かせ!


「1929年の初秋には、ウォール街の株価は棒立ちの上昇を呈するに至ったのだが、それを境にして株価は激動の時代にはいり、やがて暴落が続く。この株式恐慌が全世界に波及していっつて、いわゆる大恐慌になった。それは私の目には、結局、“世界経済のマーシャリアンk”の水準にまで、世界の名目所得を引き下げる力が働いていることとして映った、私が、そういう結論に達したのは昭和6年の夏のことだった。その見解を京大経済学部の学会で発表し、それを「カッセル教授の貨幣数量説の実証の吟味」略にのせた。私はそのなかで、“世界経済のマーシャリアンk”は、すでにその正常的なところまでもどっている。もちろん惰性があるから景気後退はもう少し長引くかもしれないが、いずれ遠からず底がくるだろう。もしここで、世界の指導諸国が金本位制を離脱して平価を切り下げるなら、不況の底入れは、いよいよ確実になるだろう、という趣旨のことを書いた」(29)。


 ここはかなり面白い論点があるように思える。


 (あ)金本位制離脱せず → 名目所得の収縮 → “世界経済のマーシャリアンk”への接近=不況の底入れ


という論理と


 (い)金本位制離脱 → “世界経済のマーシャリアンk”からフリー →不況からの回避


というふたつのシナリオを柴田は考えていたことになる。


 柴田は、恐慌の初期では、シュンペーターもフィッシャーも不況は短期的な調整局面だとしていた(×柴田は金の足かせから猛烈な収縮を予見)
 恐慌が長引くにつれて、この恐慌はスターリンの一般危機論の流布などますます深刻化するというのが一般的になる(×柴田は(あ)(い)から不況は底入れ近い、あるいは底いれを早めることが可能と予見)。


 同書はさらに詳細にこの論点にふれ、それがケインズの構造論的不況観と対立させて論じられている。柴田の大恐慌観は、金融政策の失敗による特殊事例であり、それに対してケインズの方は構造論的(消費の飽和、資本の限界生産力の逓減)によって頻繁に繰り返される一般的現象と柴田はみなしている。


 後者ではケインズ的政策(公共事業の必要性)が一般的に要求されてしまうが、柴田の場合は“世界経済のマーシャリアンk”=金の足かせからフリーになる(レジーム転換)すれば解決される特殊なケースとして大恐慌は考えられていたといえる。