杉田俊介「よわさとやさしさー長渕剛試論」

 『anan』で吉田豪氏による長渕剛インタビューが掲載されたり、また長渕剛氏の発言録も出版されたりと、長渕剛を語るベースがここ最近でもかなり提供されている。しかしその資料的ベースを十分に活かした長渕論があるかといえば皆無に等しいといっていいだろう。その中で杉田さんのこの論説は貴重な貢献だ。

 すでに杉田さんたちとのトークイベントでの席上でも指摘したが、僕はこの論説を読んでいて、前半部分は長渕の半生の格闘がどうしても三島由紀夫とだぶってきた。杉田さんの論説でもまた日本浪漫派、三島由紀夫と長渕との共通面、断絶面が論説との中盤で強調されている。

 その三島と長渕の断絶面をみて、トークイベントでも僕は指摘したが、長渕に太宰治的なものを感得した。

 長渕も三島もコンプレックスからの肉体改造を志向し、つねに「今の自分を超えるもう一人の自分」を追い求める演出を目指してもいた。しかし「長渕と三島の精神的コアは、やはり根本的に異なっているように思える」

 日本浪漫派ーイロニー(「自らの現実の無力さを、一挙にひっくり返し、無力だからこそ「無敵」であろうとするような、不死身の精神の在り方)による「日本」ビジョンの「発見」

 三島ー「イロニーによって現実の全てを相対化するだけではなく、自らの人生をも等しく相対化してしまった」。その「相対化」は意識的にコントロールされたもの

 長渕はそれに対して、肉体を強化することで「過剰」であり、三島に比すると自己イメージのコントロールに失敗している。それが本稿の表題「よわさとやさしさ」という方向に、「男らしさ」のイメージが引っ張られ、結果として長渕は「全身を引き裂かれ、傷だらけになってしまうのだ」。

 また日本浪漫派と同じように長渕は「日本」に至りつくかにみえて、杉田さんによればこの長渕の自己イメージコントロールの失敗ー強さと弱さで引き裂かれた身体ーこそが、その「日本」への落着への批判ともなりうるのだ、とみている。

 日本浪漫派、三島由紀夫長渕剛、そして僕はここに太宰治をいれることでいまの「日本主義」(安易にネットなどで日本を主語にすると語る人たち)への批判的視座を構築できるのではないか、そう思っている。

すばる 2014年 06月号 [雑誌]

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an・an (アン・アン) 2014年 7/2号 [雑誌]

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