日本をうたうー歌手saya論ー

『正論』2013年7月号に掲載されたものの元原稿(本誌掲載のものと一部異なります)。僕が書いた初めての経済学抜きの音楽評論でもあります。

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 日本という国は、過去から現在まで、この地で生き、そして死んでいったもの、その思いと記憶が織りなす独自の“場所”なのではないか。生者と死者は、この場所で均しくともに、その定かならぬ運命をいまだ共にしているのではないか。saya のライブを初めて聴いたとき、私の抱いた感銘を拙く表現するとこうなる。
 saya は、ジャズで鍛えたその歌唱力で、「蘇州夜曲」「宵待草」などの戦前のポップスや、数多くの唱歌、さらには石笛や祝詞などを交えた独自のオリジナル曲を発表してきた、真に独特な女性ボーカリストだ。
 2012年の初夏。渋谷のジェイジーブラッドで、ジンライムの氷の溶けるのも忘れて、私は彼女の唄に魅せられた。それまで何度か、sayaが司会をつとめるネットテレビに出演したことがあった。番組で彼女がみせる、時事問題についての(ときにはお茶目な発言も交えつつ)ユニークでするどい指摘とはまったく位相の異なった、sayaのボーカルの感性。独特の歌唱空間が、私たちを導いていく強さは、「これは尋常ではない」な、と思わせるものがあった。
 渋谷から、約一年で計五回、彼女のライブを聞いた。昨年の暮れにリリースされた、初のオリジナルアルバム「Fantasia」(アクアレル・レコード)は、繰り返し聞き、おそらくその回数は百を軽く超えるだろう。この回数が多いのか少ないのかわからない。
 この一年あまり、東日本大震災や長引く経済的停滞にくわえ、中国・韓国を中心とした周辺諸国からの脅威に直面し、多くの人は「日本とはなにか」「いま日本人がすべきことはなにか」と自問したのではないか。私がsayaの音楽に魅かれた遠因に、この日本への思いがあったことは否定できない。例えば、渋谷のライブで初めて聴いた彼女の曲「約束」は、東日本大震災で運命を分かつことになる人々の、時を超えた出会いの“約束”を静かに、緊張感を湛えながら表現したものだった。
別段、彼女の唄が政治性や社会性を過度に持っているわけではないことをお断りしておく。むしろ、彼女は一種の“自然状態”とでもいうべき、音楽本来のもつ無方向性の真っただ中で、自らの魂を表現しているだけだ。それを聞き、その表現に強い思いを反映させているのは、彼女ではなく、実は私たち自身の心のありよう、その向かう先なのだ。
 彼女が独特の歌手として、日本のネット社会で話題になった出来事がある。2010年に、日比谷野音で披露した「螢の光」の独唱だ。このときの様子を、saya自身の発言で紹介しよう。

 saya 二〇一〇年の夏に尖閣諸島沖で中国漁船の衝突事件がありましたよね。あのあと一一月に、日比谷公園尖閣を守ろうという国民集会がありました。安倍首相もおいでくださった集会なのですけれど、五〇〇〇人くらい集まりました。たぶんデモに参加された方々、もっと一万人くらいいたかと思うのですけれど、そこで「螢の光」を歌って欲しいと依頼がありました。歌ったら、ものすごい反響で、ネット上でもたくさんの人がそのときの映像をシェアしていただいたのです。「螢の光」は戦前の唱歌のひとつですが、戦後学校教育の場では、その三番と四番が歌われなくなりました。このいま学校教育では無視されている、後半部分には、日本の領土を“千島の奥も沖縄も八島のうちのまもりなり”とはっきり述べています。そして国へ尽くして日本を守れと鼓舞する歌詞が出てきます。三番と四番の歌詞を改めて取り上げてみると、そのときは自分はニュートラルな気持ちで、こんないい歌詞があったんだっていうか、本当に一般的な感覚で、作者が作ったものを半分に切り分けて、人前に発表しているということに対して、なにか憤りがすごくありました。すべて全体を聴かせなかったら意味がないという、それはアーティストが誰もが思っている感情ではないでしょうか。それをやりたいと思って歌ったのですけれど、自分が思っている以上に、ものすごく反響がありました。

 このニュートラルな気持ち(=自然状態)で歌った「螢の光」全編を収録したのが、彼女のアルバム「日本の心をうたう~螢の光」だ。このアルバムには、「螢の光」をはじめ、戦前の唱歌やポップスが収録されているが、そのクロージングを飾っているのが、オリジナル曲である「時を超えた恋文(ラブレター)」だ。南の海に散った英霊への感謝を込めた一曲。靖国神社の春季例大祭りに、遊就館ホールで、sayaはこの曲を歌った。「日本の心をうたう~螢の光」は、彼女の一大転機となり、いまだにロングセラーを続けている。
 sayaが日本をうたうことになる道のりは平たんなものではない。彼女の歌には、グローバルな価値との対峙や、単なる懐古を超えた新しい世代の感性への希求がつねにある。
歌に目覚めたきっかけは、1992年のバルセロナオリンピックの閉会式で、ソプラノ歌手のジェシー・ノーマンが歌った「アメージング・グレース」だ。最新アルバムの「Fantasia」の中にもボーナストラックとして収録されている。“日本をうたう”彼女の原点が、オリンピックにおける海外歌手の歌声であったことは面白い。saya は歌手として生きていこうと決意したのは、青山学院短大在学中に、地元横浜のライブハウスでアルバイトを始めたのがきっかけだ。「自分もあっち側に行きたい」、彼女はライブハウスで演じられる数多くのプレイヤー、シンガーたちの姿を見ながら深く決意する。当時の横浜の関内地区にはライブハウスやジャズクラブには、若手を育てようという気風があり、短大卒業後のsayaはその恵まれた環境の中で実践で鍛えられていく。他方で、このときのsayaはまだ“日本”に目覚めてはいない。例えば、ニューヨークに何度も足を運び、そこでライブハウスで飛び込みで歌ったり、白人や黒人たちの歌唱に近づけることを目標にしていたという。
 sayaの大きな転機は、いまも活躍を続ける「日本文化チャンネル桜」への出演がきっかけだ。2004年の開局にあたって、番組がジャズ歌手を公募した。しかも歌うだけではなく、sayaは、そこで気鋭の保守論者たちの論や、戦場で戦った人たちの深い想いに触れることなる。「日本をうたいたい」。彼女の中に確固たるモチーフが生まれたのは、この人たちとの交流の中でだったろう。
 だが、「日本をうたう」とはどんなことだろうか。saya は単にそれは昔の唱歌や流行歌をそのまま反復することではない、という。

saya 唱歌からオリジナル曲(アルバム「Fantasia」)に移行するというところで、ちょっとひとつあって。日本らしさとはなんだろうということを、日々考えていったのですけれど。自分で「あ、これが日本だ」と思って追いかけると、また違う、なにか違和感があるということが続いて。結局、唱歌も民謡も、今の日本語で生きている若者にはフィットしないので。じゃあ、どうしたらいいのだろうって思って、できたのが今度のアルバムの中心曲である「漂泊の旅路」(作詞saya 作曲・編曲 塩入俊哉)でした。

sayaの音楽世界をプロデュースする自身が名演奏家である塩入俊哉、石笛や祝詞で参加しているknob(のぶ)、ボーカルや独自の音色を提供した楯直己らの、いわばsayaファミリーの生み出した一大傑作が、「漂泊の旅路」だ。この文の冒頭で書いたように、日本の心象風景を、時間や空間という西欧的なしばりを超えて生み出した、その独自の“場”は筆舌を超える感銘を聞き手に与えるだろう。

saya  日本の音楽は、日本のリズムはなんだろうと思ったときに、紙風船だと思って。紙風船は、要するに重力に逆らって上げるのだけれど、重みがないじゃないですか。だから空間をたゆたうわけですよね。そこに規則性はないわけで、自然のそのときの風だったりとか、力の入れ具合とか、色々規則性がないものが日本のリズムではないかなと。でも、それを今のポップスに置き換えようとする、西洋のものに、仕切られたものに置き換えようとすると、すごく変換が難しいんですよ、日本のリズムを西洋の音楽に乗せるというのは。だからポップスって、すごく高度なことが必要なのだなというのは、最近思っていて。でも、「漂泊の旅路」では、少しそういう、空間を超えるもの、各小節を超えるようなものが、少しはできたかなと思っています。

 そう語る彼女の声は力強い。いまや伝説と化した“大和撫子”的な端麗な容姿、その肉体の奥から発せられる命の響き。saya の歌声は、日本の時をかけ、私たちの心に響く。

sayaオフィシャルホームページ
http://www.1002.co.jp/aquarellerecords/saya/

sayaの傑作「漂泊の旅路」