半藤一利&宮崎駿『腰抜け愛国談議』

 一昨日の『風立ちぬ』をめぐるトークイベントでも話題にしばしばあがった書籍。論点のひとつは、宮崎駿氏の個人的な価値判断やら歴史認識という「外部情報」をどれだけ、映画そのものの解釈に応用すべきか否か、というものがあった。この問題はなかなか難しくて断定的な結論はでない。

 そして「外部情報」の重要な参照物はこの対談本にあることは間違いない。トークイベントでは、1)宮崎氏は戦略的かつ確信犯的に「外部情報」を作品の読解に結び付くように利用している。2)1)を踏まえた上で、その戦略を知りつつ、作品分析に活かすか、あるいは作品自体だけで完結的に解釈するか、という立場の選択、3)「外部情報」をそのまま活用する見方の一例としては、デフレを脱却した30年代の消費文化の盛隆をあえて、貧困、遅れた国としてだけ語っていいのか、4)さらに「外部情報」を活かす論点としては、軍人=官僚の戯画的ななさけない描写をそのままうけいれるかどうか、5)「外部情報」は「外部情報」として無視すべきで、作品自体に即して解釈すると、二郎と菜穂子の死を覚悟したふたりの生活(当時の日本家屋の構造的利用なども含めて)に流れ込むまでの設定(特高のエピソードのうまい利用)が傑出している、などが本書に関連して語られました。

 昨日、ここで書いたトークイベントの収穫と合わせて参考にしてください。