加藤寛の気賀健三論

 これも前から整理しておきたいなと思ったもの。加藤寛が1975年に書いた「気賀先生の政策方法論の展開」の要旨だけメモしておく。

 国鉄民営化、規制緩和や税制改革などへの貢献で知られ、さらにそれ以前は福祉国家論やソ連経済論への貢献でも知られる加藤寛は、気賀健三の弟子。気賀健三は、戦前から戦後まもないころは、計画経済論を、そして戦後の一時期からは社会哲学的・社会思想的な関心を強めていく。

 まず加藤は、気賀の社会思想の代表作である『社会的進歩の原理』の内容を整理する。同著は経済政策論が社会改革論であり、そのことを基礎づけたものである。

「第一に、経済政策の究極的目的についての社会哲学的基礎づけがなされ、第二に、社会制度をもって、倫理的理念に仕えるべき社会生活上の一手段と考える。第三に、社会発展は多元的に理解されるべきもので、一元的な根拠に基づいて理解されるべきものではないと主張されている」(上記論文、28頁)。

 マックス・ウェーバーは経済政策の客観的目的を経験科学から除外。気賀もウェーバーのように経験科学の問題ではないということは同意するが、経済政策の客観的目的を「社会哲学的に合理的に承認されうる善」を求めることで追求した。

 気賀によれば、このような「経済政策の客観的目的=合理的善」の条件は、「1)ある判断が内部的に矛盾ないこと、2)合理的な判断は一定の根拠をもたねばならないこと、3)人々が善というとき、それは人々の感情と目的行為が調和する状態でなければならないこと」である。

 気賀の「合理的善」(=経済政策の究極的目的)は、「感情と経験との調和を善とする立場」である、と加藤は整理する。

 では、この合理的善の理想は何だろうか? 加藤は気賀の『社会的進歩の原理』から、気賀はそれを社会的調和の原理(=社会的進歩の原理)とみなしていたと指摘する。この理想を実現するための条件が、「自由」である。
「自由は社会的調和の原則であり、道徳的価値との合致において、自由は進歩の原理となる」。

 マックス・ウェーバーと気賀の差異を、加藤は、前者は経済政策の目的の「仮設」を主張しているが、気賀はそれをしりぞけて、経済政策の目的の客観性(上記の合理的善の議論)を狙ったところに意義があると評価している。

 他方で、加藤は、気賀的な倫理的価値を客観化することは、「いかにしても不可能である」と断じている。

「気賀先生は、そしてホブハウスは社会的調和に善悪の基準をもとめようとするけれども、この社会的調和の概念を一般化しようとすればするほど、それは抽象的な一般原理に帰するものであり、つまりそれはヒューマニズムの立場に帰するほかはないであろう」。

 つまり合理的善の議論は、経済政策という実践的なものを判断する基準としては抽象的すぎて使えないということなのだろう。例えば、経済政策は人間の価値を高めるためにある、とだけいうようなもの。

 ここで加藤はいくつかの事実判断と価値判断をめぐる議論を整理して(長守善の『経済政策の理論』を参照に…この本はいずれこのブログでまとめよう)、自らの議論の方向を以下のように設定する。

加藤寛の立場
1 ウェーバー解釈の尊重。経済政策の価値目的は、「あくまでも絶対的なものとはせず段階的制約を認め、そのかぎりでは仮設であり、勧告がさらに討論をとおして修正され、より広く受け入れられ支持されるようになることを政策の実践的意義と考える」。

2 1の意味での「価値体系統一の可能性」としての、そもそも価値判断は、「感情と理性との合成」されたものである。そもそも価値判断での争いがおこるのは、単なる感情のぶつかりではない。そこには理性によって制御された感情の争いの側面がある。つまりさまざまな価値判断の争いが「価値体系統一の可能性」をもつには、論理(理性)と感情との双方が納得する必要がある。

「この感情的な面を強調すれば、価値判断は主観的なものとなり統一されないが、感情的な納得が事実判断による納得に深く影響されることを考えれば、価値判断はけっして主観的な神々の争いではなくなる。例えば私たちは価値判断の極端な争いの例として宗教的信念をあげるが、いかなる宗教を信ずるかというとき、私たちは、その宗教の御利益を経験的に感情的に納得しようとするのである。……このことは社会的価値判断についてもいえることであり、論理的に資本主義社会はこうなると推論を下したとき、論理がコンシステンシーをもちその結果が経験的に私たちに納得されるなら、その判断を私たちは感情的に支持することになるであろう。このように、価値判断は論理と感情との相互によって支持されるときに正しいものとして主張されるようになる」。

 このとき、事実判断と価値判断をまったく無縁なものとするのは間違っていると加藤は、ジョン・デューイの議論を援用して指摘する。ここは気賀とかなり異なるところだろう。
「価値判断が事実判断に裏付けられているということが、価値判断を統一させる積極的可能性の根拠になるのである。それゆえ経済政策学は、対立している価値判断の中に解決の糸口(事実判断)を探すことができるはずである」。

 加藤の指摘のように、一見すると、強烈な価値判断の対立とみえるものも、その感情面をささえる事実判断の錯誤が原因になっていることが多い。事実の誤解を指摘すれば、それでかなりの価値判断の対立が解消するだろう。もちろん事実判断に無縁であり、理性にもよらない、感情の対立はあるだろう。しかしそのような理性なき感情の対立は、そもそも経済政策の目的ではない。

 加藤はさらにこの価値判断の統一性の「可能性」だけでは不十分で、それが実際に形成される社会的決定のプロセスを検証していくのが重要である、と指摘していく。その社会的決定のプロセスで重要な問題は、「フリーライダーの問題」である。この点については、別のブログエントリー(ムダをみてみないふりする経済学)でオルソンの議論とともに論じたのでそれを参照されたい。このフリーライダー問題(価値判断の統一のルールづくりをさまたげる要因)を、加藤は問題視し、それがやがて彼の官僚制国家批判にまで通じていくのである。