福田徳三の厚生闘争の現代的意義

 1930年までの日本を代表する経済学者の福田徳三に「厚生闘争」という考え方がある。これは「社会的必要」を満たす(労使間の)賃金闘争を意味している。

 従来の賃金交渉を福田は「価格闘争」としてそれはより高い賃金水準を目的としているにすぎず、「厚生闘争」の方は労働者のより高い満足、社会的必要の充足を求めるものだと定義している。

 経済学者の山田雄三が指摘しているが、この場合の「厚生闘争」は単なるゼロサムの闘争ではない。むしろ交渉当事者が一種の社会的価値観を共有する過程として考えるべきだという。ゼロサムゲームとは、交渉の一方が得をすれば必ず他方が損をしてその総計は常に相殺してしまうことだ。「厚生闘争」は、ゼロサムゲームではなく、交渉する同士の社会的価値観の共有、例えば「社会的な貧困を正さなくてはいけない」という方向性の共有としての「闘争」だ。

 労使間の交渉はそのままでは労働者の交渉力が弱い非対称的なものである(なぜなら労働者は雇用されないと死の恐怖にさらされるから)。そこで国家が統制し、労働者に団体交渉の自由などの一連の交渉上の権利を与える。

 いわば、ややポストモダン的にいえば、労使の交渉はつねに管理(監視)されているといえる。労使はこの国家の制定したルールの範囲の中で自由に交渉を行うことになる。山田雄三によれば福田の交渉の在り方そのものは、ガルブレイスが『アメリカの資本主義』などで描いた「対抗力」=利益集団の闘争対立に近いという(参照エントリー)。もちろんガルブレイスでこの利益集団間の闘争が一定の合意をもたらすかどうかは私はよく知らない。

 この労使間の交渉の結果、労働者の「社会的必要」を満たす厚生水準を獲得することが目的とされる。もちろん「社会的必要」とは何であり、またそれはどの程度の水準を要求するものであるかは、まさに交渉当事者の社会的な合意形成によらなければならない。

 山田は次のように福田の「厚生闘争」を解釈している。

「福田先生が厚生闘争ということを語るのは、個人(または集団)の間の闘争を通じて、しかもそこに社会全体の厚生を目指すことによって、闘争を調整する体制が形成されると考えられていたのである。この場合、福祉国家が何よりもまず権力国家からの離脱を重視するかぎり、専制的ないし独裁的な体制を排することは、異論がないであろう。しかし民主的な体制を考えるとしても、集団間の利害対立が自然調和をもたらさないとすると、どういう体制が考えられるのか」(山田雄三『価値多元時代と経済学』岩波書店)。

 山田は、福田の「厚生闘争」(=「社会的必要」の決定過程)を理解するキーとして、グンナー・ミュルダールの『社会理論における価値』(1958)の議論を紹介する。

「ミュルダールによると、民主社会においては、はじめ特殊利益の立場から討議が行われても、そこから次第に社会一般の共通利益の立場が生まれてくるというのである。しかしそれは必ずしも楽観的に見るべきではなく、そういう共通的立場がどうしても出てこない場合には「決裂」(civil war)の他はないとミュルダールはいっている。しかし、同時に彼は、西欧において「友愛、平等」などの道徳が高い価値を認められ、また洋の東西を問わずいわゆる高等宗教が幾多の波乱の間に継承されている事実をとりあげ、そこに高次の価値の社会的形成の可能性があるという。ただわれわれの場合の「社会的に必要」という概念はミュルダールの場合の高次の価値と同様に考えるには少々弱いように私には思われる」(山田、前掲書、301-2)。

 山田はミュルダールの高次の価値の議論と、カール・ポパーの『客観的知識』にいける社会的価値形成の客観性命題を重ねることで、西欧の宗教的な理念、「友愛、平等」などといった高次の価値と類似した価値理念に、「社会的に必要」が客観的なものとして立ち現れるであろうと述べている。

 この宗教的理念、「友愛、平等」そして「社会的必要」という諸理念が、それぞれ三項図式的な配置(例えば、人ー友愛ー人 という三項)の中でもつシンメトリカルな意義については、以下で論じる。

 以上の議論をうけて、山田は福田の「厚生闘争」を以下のように整理する。

「福田説の厚生闘争は民主的過程のうえの闘争である。それは、他を抹殺して自らを強要する闘争ではない。互いに他の行き過ぎを批判し抑制しながら、自他を含む全体の生活向上をはかる闘争であり、開放的かつ経験主義的な民主的討議による闘争である」(山田前掲書、302)。

さきほどの三項図式の諸理念の整理についてである。

 拙著『沈黙と抵抗』における内村鑑三森有正・住谷悦治論を利用して、上記の宗教理念、「友愛・平等」そして社会的価値観が、当該する社会の中で客観的な知識の座をいかにしてしめるか、という話をまとめる。常識的には「友愛・平等」などの理念がなぜ科学的知識のような客観的な地位を占めることができるのか、疑問に思われるむきもあるかもしれない。

 この点については、上記のエントリーでも紹介した山田雄三がカール・ポパーの『客観的知識』を利用して簡潔に要点をまとめている。

「これまで客観性というと、実在の側に確実なものがあると見るのが通説であったが、ポパーによればそういう確実性は主観的であり、むしろ知識の世界において討議・批判が行われることによって、そこに知識が形成され、再形成されるのである。知識は客観性を志向することを通じて客観的になるのであり、同じことが価値理念の形成・再形成についてもいえるとすれば、厚生闘争は厚生を志向すればよく、それ以上に概念的に確定する必要はないことになる。しかし認識の客観性と違って、価値の場合は主観間の合意が必要であり、それに何とか答えようとしたのが「社会的に必要」という概念であろう」(山田前掲書、302)。

 この山田の解釈をより具体的にみるには、例えば内村鑑三の議論が役に立つ。内村鑑三は近代的な自我の在り方(自己中心主義)への批判として、「先ず聖き神の正義を以て自己の良心を撃」たれることが重要だと述べた。神の正義を通しての自己中心主義やニヒリズムの超克といえる。内村は「神」を通しての人間と人間の相互の社会的関係の構築についてもふれている。以下は彼の「霊魂の父」(1929)からの引用である。

「各自異なりたる霊魂の所有者であるからである 略 それ故に人は直に人に繋がる事は出来ない。縦令親子と雖も然りである。人は神を通してのみ相互に繋がることが出来る。下の図1を以て之を説明することが出来る。


 甲と乙とは如何にして親しき身内なりと雖も相互に一体たる事は出来ない。一体たらんと欲せば、甲乙各自先づ霊魂の父なる神に繋がり、神に在りて一体たることが出来る」

 この内村流の「神を通しての人間関係観」を、宗教ではなく客観的な「宗教的真理」の問題として捉えなおしたのが、河上肇であり、その精神的弟子であった住谷悦治であろう。

 住谷は図1に類似した図2を掲げて以下のように書いている。

「友情が成り立つためには、必ずまず人格の自覚がなければなるまい。この歴史的現実において、この一つの生命を、如何に生くべきか。この内的な反省と、置かれたとことの歴史的、客観的世界との自覚が必要である。単なる「我」のめざめ、単なる「魂」の自覚だけではない。新しい意味での友情は、人格の自覚ーー個性の自覚ーー個性の成長をどの第一点とするけれど、この個性の人格的結びつきが、社会・歴史的な共同目的において共通なものであることが大切ではあるまいか」

 図1と図2では「神」や「共同目的・理念」=友情 を通じて人々が社会的関係を深め、そして同時にこの「神」や「共同的目的・理念」が一種の客観的な真理である、という観点が明示されている。

 このような図1と図2での三項図式を、森有正は『内村鑑三』の中で次のように「人格的関係」として形容している。

「私はそれ(内村の述べた人と神との関係 引用者注)を具体的現実的な人格関係そのものと呼ぼうと思う。それは西欧流の、ことにエラスムスモンテーニュにはじまる、人間の自己完成を追求するヒューマニズムではない。人格概念ではなく、人格関係たるものである。それは、あらゆる分析と総合以前の、それらの主体となるべき人間そのものの在り方である」。

 住谷は「友情」だけが「共同的目的・理念」の中味ではなく、「貧困よりの自由」「失業よりの自由」、そして「社会主義社会の実現」などを候補にあげた。ちなみにこれらはいままでの議論をみればわかるように固定的なものではない。「共同的目的・理念」の中味は、「社会的必要」や「福祉」の中味同様に先決的に定まっているものではない。山田や福田が指摘したように、闘争的議論の結果として決まり、それゆえに一定の「客観的知識」の資格を得るわけである。

 住谷はこの三項図式による社会のあり方(彼は別な表現で「環境的・歴史的必然への被縛性」と名づけている)への理解がすすむことで、「社会における自由」の獲得につながるともいっている。つまり自由を求めるほどに環境的な被拘束性(三項図式的な人間社会のあり方)への自覚がすすむとされている。この論点は最後にやや超越的にいえば、いわゆる自由管理社会の論点とシンクロするものであろう。

価値多元時代と経済学

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沈黙と抵抗―ある知識人の生涯、評伝・住谷悦治

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内村鑑三 (講談社学術文庫 64)

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