栗原裕一郎(企画監修著)『村上春樹を音楽で読み解く』

 村上春樹は好きだ。70年代に雑誌に登場したときは本当に「衝撃」だった。なんで「」をつけたかというとそういう「衝撃」という言葉は当時、村上春樹の作品を読んだときには決して使わない言葉だっただろうから。僕が村上作品から70年代に受けた感覚はもっと親密なものだった。「衝撃」という言葉のもつはぎ取るような語感にはなじまない何かである。

 とはいえ、村上作品をすべて読んでいるというわけではない。特にサリン事件を扱ったルポタージュから村上作品は非常に縁の遠い存在としてある。『海辺のカフカ』もいまだに読んでいない。『1Q84』や『アフターダーク』もいったいどうしたのだろうか? といいたくなり出来にしか思えない。むしろ20数年ぶりに再読した『ノルウェイの森』(読んだときは上に書いた親密なものをむしろ感じなかったのだが)に感動してしまう自分を発見した。20数年前には死が遠かったのに、いまは死が身近にあるということの違いがそのような感想を抱かせたのかもしれないが。

 さて本の感想を書くつもりが長々と村上春樹作品の印象を書いてしまった。おそろく多くの人が村上作品を語りたくなるに違いない。この本は一冊まるごと、村上作品に出てくる音楽、あるいは村上氏が書いたり語った音楽についての情報とまたそれについての論評が加えられている。

 僕は栗原さんの仕事を読んで、あとは座談会を流し読みした程度なのだが、面白い本だと思う。座談会での大谷能生氏の縦横無尽な発言は格別の味わいがある(笑える)。

 栗原さんの論説「村上春樹と「80年代以後の音楽」」は村上春樹作品との緊張感ある戦いとでもいった印象をもつ。特に『ダンス・ダンス・ダンス』について書かれた次の一節はこの論説のテーマを集約している。

「踊りつづけているけれど社会的にはゼロだと答えたあと、「僕」は五反田君に「君はとてもよくやっている」という。そう、五反田君はある意味では「僕」などよりはるかに上手く踊っていたのだ。だが五反田君は破滅する。キキ殺しを認めたあとマセラティごと海に突っ込んで自殺してしまう。踊っていたって最悪の事態を免れるわけではないのだ。だがそれでも「僕」たちは踊るしかないのである」

 ところで「踊りつづけているかれど社会的にはゼロ」だという発言を意識的に採用してきた経済学者(同時に文学者でもある)大熊信行という人物がいた。彼について、以前、「零度のエコノミー:大熊信行論」という長い論文を書いたことがある。おそらく僕の論文でも最も他人に引用されているもののひとつだ。大熊が「踊り続けているけれども社会的にはゼロ」だといったのは、昭和恐慌期から戦時体制の間、例えば彼の大政翼賛会系の団体で活動したいた時期を象徴して、彼自らが語る踊り続ける「ゼロ」の認識だった。栗原さんによれば村上の場合は高度資本主義だ。

 大熊の場合は両性具有的な身体感覚と社会的な立場とのズレ、前者から後者が遠のくことのゼロ認識なのだが、同様な動きが村上作品にもあるようだ。この問題を深く考えると、僕がなぜ大熊と村上に魅かれているかもなんとなく自分で納得してしまった。うまくはいまは表現できないが。

 この本は資料的にも価値のある情報が多い。村上氏の仕事でこれだけ「見えなく」なったものがあったこと、音楽に込められた多様な読解の可能性に気がつかされた。

村上春樹を音楽で読み解く

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