グルンステン=田中のマンガ論の拡張(ふたつの全体論)

稲葉振一郎さんが、この前のSFトークイベントのときに用意してきた短文を公開していて、その中で僕のグルンステン論を引用しているのにちょっと驚いた。

インタラクティヴ読書ノート別館の別館トークイベント「SFは僕たちの社会の見方にどう影響しただろうか?」用メモ
以下は当該部分の引用

田中秀臣はティエリ・グルンステン『マンガのシステム』を再構成して、マンガ(日本まんがのみならずアメリカのコミック、カートゥーン、フランスのバンド・デシネ等を含む)読解のためのモデル構築を試みている(http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20091220#p1)が、私見ではそれはクワインデイヴィドソン流の「意味の全体論」(ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン『真理を追って』、ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題』)のパラフレーズとしても解釈できる。田中はグルンステンからヒントを得て、伊藤剛のマンガ表現論(『テヅカ・イズ・デッド』)における「表現の単位の不確定性」論――現代まんがにおいては通常、コマと見開きの双方がともに表現を構成する単位として融通無下に機能し、どちらがより基本的とは言えない――を批判している。グルンステン=田中によれば、コマにせよ見開きにせよ、あくまでもそれらは全体としての表現の「部分」として、全体に奉仕するものであり、それぞれの具体的なコマや見開きが表現上の基本単位となるか、それとも二次的な単位となる――見開きが単位の時にはコマはその単なる部分となり、コマが単位である場合には見開きは単なるコマの配列となる――かは、あくまでも表現全体の中でのコンテクストによる。

 クワインデイヴィドソン流の全体論の発想を大雑把に言い表せば「言語表現において何事かを意味する基本単位は文であり、語句の意味はあくまでも「それが属する文の意味にどのように寄与するか」であって、語句は通常は文のように何事かを表現したりはしない」となるだろう。この観点からするならばコマも見開きも、マンガ作品という全体の部分としてはじめて意味を持つのである。もちろんこのアプローチは別の攻め口、たとえば作品の単位を「コマ」や「見開き」といったいわば「シニフィアン」のレベルではなく、「キャラクター」や「シチュエーション」といった「シニフィエ」のレベルで考えてみた場合にも有効である。更に当然のことながら、マンガ以外の表現形式、つまりは映画や小説にも転用できる。

特に後段にある「もちろんこのアプローチは別の攻め口、たとえば作品の単位を「コマ」や「見開き」といったいわば「シニフィアン」のレベルではなく、「キャラクター」や「シチュエーション」といった「シニフィエ」のレベルで考えてみた場合にも有効である。更に当然のことながら、マンガ以外の表現形式、つまりは映画や小説にも転用できる」という指摘にはとてもよく見ていただいている気がしてこれまた驚いた。

このグルンステン=田中論以降、僕が取り組んできたのはまさに、1)「シニフィエ」レベルでの検討2)小説への転用、である、からだ。さらにこれを3)アイデンティティの問題に拡張していこうというのが、グルンステン=田中論以降、はじめた『AKB48の経済学』でイントロを書き、その後、小松左京論やシノドスメールマガジンでの村上春樹論、そしていま連続している対談シリーズでの「学習」に至る試行錯誤である。

グルンステン=田中論の一部を引用してみよう。

ページ構成もコマ割りやコマ枠の選択と同じく、基本的に物語計画のもとでの最適なパラメーターの選択に還元される問題である。

マンガを制作するということは、ページ構成、コマ割り(=部分的関節論理)とそれぞれを最適に決めたものとして実現できる → 多段階の最適化

 グルンステンの基本的な枠組みは、多段階の最適化問題として記述される。彼はこれを「マンガのシステム」と命名しているわけである。

 ところでまだこの多段階の最適化問題=マンガのシステムに、グルンステンは注目すべき二つのサブシステムを導入している。それが「コマ格子化」と「編み込み」である。

 物語計画はマンガ家の心的形式(脳内世界)である。

ところでこの「物語計画のもとでの最適なパラメーターの選択」=「マンガを制作するということ」自体も、実は「物語空間」という「全体」の「一部」でしかない。

それを記述したのが、簡単にいうと村上春樹論で言いたかったことである。

 マンガを制作するということは、村上春樹論でいっているところの「物語空間」の中のひとつないし複数の「こころの消費」(=物語消費)のありようと考えられる。

 そして「こころの消費」(=物語消費)自体は、「物語空間」という「全体」の中の「一部」である。

 以下の図は、村上春樹論から援用した「物語空間」であるが、そこに描かれている台風の目のようなものが、「個々」の「こころの消費」(=物語消費)のありようを示す。

●一人称の物語空間(詳細は村化春樹論に)

 よりわかりやすく行ってしまうと、マンガを制作する行為(=こころの消費=物語消費)は、「物語空間」というコンテキストに依存して意味をもつ。これは実はふたつの異なる「全体論」をひとつらなりの議論としてみようとしているアクロバットな手法でもあるのだろう。

 稲葉さんの引用をしてみよう。

 ただし、一つの作品が「全体」でありそれを構成するコマや文章やキャラクターや設定が「部分」であるという場合の「全体―部分」関係と、ジャンルや文化伝統という「全体」とそのジャンルに帰属し伝統を引き受ける個々の作品という「部分」との関係とは、構造的に大いに異なる。前者の場合には、全体の方が部分に対して(時間的とか因果的というのではなく論理的に)先行する。「全体」としての作品の意味、表現されるべき課題の方が先行し、それに貢献するために構成要素たる「部分」の意味が決定されていく。

 それに対して後者の方は反対である。そもそもここでの「全体」は、実体としては――たとえ今は不在の「目指されるべきもの」としてさえ――存在してはいない。ここでの「全体」はものではなくものがそこに存在する場所、地平、空間である。ニクラス・ルーマン風に言えば「環境」である。普通の意味では存在するのは個々の作品であり、個々の表現である。(唯名論的だが)「マンガ」というもの、「伝統」なるもの、あるいは「言語」というものは実体としては存在しない。ここで「部分の意味は全体の中での配置によって決まる」というのは、先のように「全体が先行していてその意味があらかじめ確定しており、部分の意味はそれへの寄与として決まる」というのではない。「部分としての個々の表現を取り巻く環境としての全体はおおむね定まっていておおざっぱには不変であるので、それが不変であることを前提として個々の表現を決めてよい」という風に解釈されるべきである。個別の表現を行う場合に、具体的に表現者が参照したり念頭に置いたりすることができる「文脈」や他の表現はたかだか有限でしかない。しかし厳密に言えば個々の表現をとりまく文脈全体は、潜在的には無限大である。それは全体としては具体的に認識されえず、指示もされえず、ただ想定されるしかない。

田中=グルンステン論でやったのは、稲葉さんのいう前者の「全体論」であり、村上春樹論でやろうとしたのは後者の「全体論」といえる。それをいまここで両者を僕は接合できるものとして説明していることになるんだと思う。