福満しげゆき『グラグラな社会とグラグラな僕のまんが道』

 本書の題名の「グラグラな社会」は不景気が原因で寄る辺なき生活のグラグラ、「グラグラな僕」の方は何かバックボーンのない自分への自信喪失のようなグラグラである。このふたつのグラグラが交差するところに、福満しげゆき氏のマンガが存在する(のかもしれない)。

 『僕の小規模な失敗』など、福満氏のマンガを読んで面白いなあ、と感じるのは、そのマンガのゾンビ性である。これについては近いうちにまとめて書くが、そもそもゾンビというのは(『28日後』とか抜かして)ほとんど「グラグラ」している。福満氏のゾンビマンガといえば、とりあえず『カワイコちゃんを二度見る』の「日本のアルバイト」(これは秀作)だが、『生活』(完全版)でもゾンビは描かれていなくてもマンガにおけるゾンビ性(グラグラ性)は健在である。本書を読むとゾンビの造形は、花くまゆうさく氏の『東京ゾンビ』に影響を受けたそうだ。しかし福満氏の方はグラグラ性に注目しているだけ、その著作のベースには強い倫理性がある。

 「強い倫理性」と書いたが、それは単に「グラグラしていない」社会や個人の状態を基準にした見方である。その「グラグラしていない」状態は何だろうか? それは福満氏のマンガの至るところで散見される「怒り」やちょっとした「暴力」シーンで顕在化している。

 本書でいえば、福満氏が「被害者意識」として説明しているような件で明らかになる。

「同時に被害者意識も強いんですよね。その、「セックスブーム」に乗れなかった時に感じた被害者意識は、今でも普通にありますからね。他人のマンガ読んでても思うんですよ。どんなに好きなマンガでも、主人公がセックスしちゃうと、もう読むのやめちゃいますよ。「ふざけんなよ!」って。自分がモテなくて、彼女いる人に妬みを感じていた頃の名残なんですかね……」(45-6ページ)。

 妬みや被害者意識は「強い倫理性」の裏返しである。ここではセックス描写をしているマンガへの拒否となって強く表れている。この「強い倫理性」は別に「僕の小規模な正義」と言い換えてもいいが、それが作品中で客体視されて問われているのが、『生活』(完全版)などの福満流ゾンビマンガではないかと思う。

グラグラな社会とグラグラな僕のまんが道

グラグラな社会とグラグラな僕のまんが道