長岡義幸『マンガはなぜ規制されるのか』

 本書は題名通りにマンガをめぐる規制を戦後の歴史的経験から今日の論争(いわゆる「非実在青少年」問題)まで俯瞰した上で、基本的に僕なりの区分で表現すると、「モラルによって表現の自由を制限すべきと考える人たち」と「表現の自由への公的介入は基本的に認めないと考える人たち」との対立が鮮明に描かれている。本書の立場は後者にあるといっていいだろう。

 まず議論を整理するためにデフォルトを設定しておこう

 (A)すべての人は選択を自らの意思で行いそしてその結果も自ら引き受ける 
この(A)にはここでいわれている「人」が合理的な主体であり、つまりはその「人」は自分が利用できる情報をすべて活用して意思決定をしているということが前提にされている。その選択が合理的に行われているのであればその結果にその合理的主体が責任を負うことも正当化される。なぜなら選択の結果も彼が選択を行った時点で利用できる情報の中に含まれているからである。

 長岡氏の立場は明示されることはほとんどなく推測するしかないが、それでも本書の248ページから258ページにかけての記述は彼の立場が(A)とさほど大差ないことを示しているといえる。

 ここで「人」の中には「子ども」も含まれるだろう。
 この(A)では暗黙のうちに次の(A)+も含んでいる。

 (A)+ 合理的な人が行った表現行為の結果はすべてその合理的な人に所属する

これは一種の所有権が前提されていることである。例えば奴隷制を考えてみると、奴隷の労働の成果はその奴隷の所有者のものであって奴隷の所有ではない。しかし今日、私たちの労働の成果は優先して私たちが所有している(まあ、現実は違うし過酷だし奴隷制みたいなものだという意見はあるだろうが、この規準をはっきりしないとその種の発言もできない)。ちなみに「表現行為」には単にマンガを生産するだけではなく、その消費や販売、編集などを含むと考えてほしい。

 また(A)が成立していると同時に下の(B)も本書を考えるときにデフォルトとして設定しておくべきだと思う。

(B) 民間の取引主体(消費者、出版社、マンガ家など)が行う取引には取引する関係者すべてが満足しているので公的介入は不要である。
この(B)は本書では「流通の自由」といわれているが、経済学的にいうと完全競争市場の記述に近い。(A)は主体の合理性の仮定、(A)+が所有権の明確性と保護 と考えると、本書のデフォルトは、経済学の用語に置き換えると、それは完全競争市場の前提条件とまたその状況を、議論のデフォルトにすると公言していることになる。

 長岡氏によれば「流通の自由」を規制することは、実は「表現の自由」を侵害していることになる、という。例えば「非実在青少年」規制でも、都の側は、あくまでも流通の規制で表現の規制ではない、と主張している。これは猪瀬直樹副知事も同様の発言をしていたと記憶する。

 しかしこれは本書で長岡氏が指摘しているように都側は間違っている。なぜなら都側が持ち出してくるのはある人が行った表現物を目にした第三者が「有害」な影響をうけるということが「流通の自由」への規制根拠だから。

 これは上記のデフォルトのうち、(A)+と(B)にかかわる問題である。つまりある表現の所有権が正しく割り当てられていないために((A)+の条件の毀損)、(B)が満たされていないということである。

 このことを直感的に考えるには、上流に工場がありその工場が脇に流れる川に有害な廃液を流し、それが下流で牧場の牛たちがごくごく飲み、それによってその牧場が損失をうける場合を想定してほしい。このとき問題になるのは、その川に廃液を流す権利(所有権の一種)がうまく設定されていないから生じる。(このケースでも必ずしも公的介入は必然ではないが)介入によってその所有権を適切に割り当てる余地が生じている。

 例えば駅の中の喫煙コーナーと禁煙コーナーの設定は、この種の所有権ルールの設定といえる(このときも公的介入は必ずしも必然ではないことに注意)。例えばゾーニング規制は、空間という所有権を割り当てるルールづくりだと考えることもできる(何度も書くがこのときも別に公的介入は必然ではない)。

 以上から、都の側が、「非実在青少年規制は流通規制であり、表現の自由を規制するものではない」というのは誤りといえる。(A)+という前提が満たされていないがゆえに生じている公的規制といえるのである。

 さてここで本書全体で問題視されているのが、法律と道徳を適合させるべきだと考える人たちの存在である。典型的には前田雅英氏が代表である。ところで上記の(A)、(A)+、(B)からなる本書の想定するデフォルト(まあ、僕の解釈ではあるのでそこのところは十分ご留意を)には、モラルの入り込む余地がほぼない。「ほぼない」というのは、とりあえず取引している人たちが結果だけみればみんな満足している状態が「いい」と暗黙に想定しているからだ。

 もし「(A)、(A)+、(B)」からなる本書の立場を、モラルの見地から批判するときは、この「取引している人たちが結果だけみればみんな満足している状態がいい」という命題そのものを批判するものでなくてはいけない。それ以外のモラル批判は少なくとも「(A)、(A)+、(B)」という主張自体が気に食わない、全面否定する、と天下りに宣告していることにほからない。それは僕からすると討議不可能な状態に近い。

 さらにこのモラル=法的な考え方と、都側の「流通の規制」という発言も必ずしも一致しない。なぜなら流通の規制にかかわる都の主張を正しくとらえると、それは表現の所有権(「表現の所有権」というのも妙な言い方だがとりあえずそうしておく)が適切に配分されていないことに理由がある。そこにはモラルと法が適合すべきであるとか一切関係ない、要するにモラルの出番がないのである

 モラルの出番はこの「取引している人たちが結果だけみればみんな満足している状態がいい」という命題そのものを批判する場合にしか起こり得ない。

 以上、僕は本書の長岡氏の主張を僕なりに整理してみたつもりだ。長岡氏の主張は(あくまで僕流に整理すればだが)非常に首尾一貫している。それに対して規制派はそもそも自分たちが何をいいたいのかさえも理解していないように思える。

 ところででは規制はまったく必要ないといいたいのか? という質問はあるだろう。僕は「(A)、(A)+、(B)」というデフォルトが問題がないとはいっていない。あくまで規準を提示しただけだ。この規準が現実でもうまく機能しているのかどうか。それはまったく別問題である。
 例えば本書では「子どもを権利の主体にする」という主張が肯定的に書かれていると思う。これは上記の(A)の合理的な人に子どもも含めるということだ。子どもは本当に合理的なのだろうか? ここにも議論する余地が十分にあるだろう。また年齢的な成人であれば(A)はみたされるのだろうか? 非合理な非実在青少年マンガの消費者は保護されなくていいのかどうか、それだって問題にはとりあえずなりうる。

 それと長岡氏はこのデフォルト自体を現実そのものとイコールしている印象が読後感としてある。いまも書いたが人は合理的なのだろうか? 表現の成果は他者に悪影響(負の外部性)をもたらさないのだろうか? 表現の自由が正の外部性しかもたらさない(例えばマンガは文化や表現自体の革新に貢献するなど)と考えるのは難しい。また流通がそれほど自由なのだろうか? 流通はさまざまに規制されていて(再販制など)そのうえでいまのマンガの隆盛(陰りもあるが)がもたらされているとしたら、(B)がそもそもみたされていない可能性もある。

 本書は特に第四章のゾーニング規制の経緯などいまに至るマンガ規制が詳細であり個人的に非常に勉強になった。いい本であるが、その主張もそれなりに咀嚼しないといけないな、というのが率直な意見である。

マンガはなぜ規制されるのか - 「有害」をめぐる半世紀の攻防 (平凡社新書)

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