谷沢永一逝去、『高橋亀吉 エコノミストの気概』再考

 谷沢永一氏がお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。文献考証的な面で僕の研究分野と接点があるいくつかの研究がありますが、やはり最も注目したものは、03年に出た『高橋亀吉 エコノミストの気概』です。以下ではこの著作の内容を振り返りたいと思います。

 この著作は、評論家として筆一本で生活し、戦前から戦後まで長い時代に活躍したエコノミスト高橋亀吉の事跡を追うことで、おそらく谷沢氏自身の生活、評論活動を自省する試みであった。

 「世には評論家と呼ばれたり名乗ったり、数え切れないほど同業者は知られているけれども、実際のところそのほとんどは、大樹の陰に宿って固定給にありついている」

 だからサラリーマンの気楽な稼業として評論をやっている。それに対して高橋亀吉は身銭をきって眼光を光らせて、資料を精査し、「高橋学派」とでもいうべき彼個人だけの主張を構築したのだ。

 「私は独立独歩の高橋亀吉を敬愛する。そしてこの我が邦に稀でブリリアントな個性を、読者に紹介したい」というのが谷沢氏の本書執筆の動機だった。まさに敬意とその発言・行動への愛情までも感じられる序文であった。

 しかし本文では、谷沢自身の見解と高橋の見解が衝突するときは、遠慮容赦なくその論を批判した。本書は高橋の自伝的要素と時系列的に彼の著作の性格を解説し、その時代的背景の中での意義を明らかに氏、学術的なレベルを失うことなく、自由闊達な文体で書かれているすぐれた作品だ。本書では高橋のかなりマイナーな著作やパンフレットの類まで精査されていて、高橋亀吉の経済学入門としても役にたつ。また谷沢氏は、高橋の経済学を精読することで、正しくその論がもつ現代的意義を理解していた。以下は、高橋の代表作『経済学の基礎知識』を扱った章での記述である。

「第6章。通貨問題。このあたりから高橋独自の主張が始まる。この論点は現代日本経済にとっても非常に重要である。問題の要は、通貨の膨張にあわてふためいて、収縮の策を講じる必要はないという見通しである。一国の経済が、家計簿をちまちまいじる赤字黒字のバランスとは異なるのである。通貨膨張に関する考え方如何によって、経済機構の勘所が解っているか否かの二筋道が分かれる。言い換えれば、一国の経済を家計簿の感覚で処理しているかどうかの判定ができる。平成不況に対応する方法が、高橋の考える方向しかありえないのに、その決断のできない人々によって無為に放置されているのである。高橋は高橋是清を批判した。物価の一般的騰貴が起こらない限り、通貨の需要は起こらない、と論じた」(17-8頁)。

 谷沢氏の素晴らしい炯眼である。「物価の一般的騰貴が起こらない限り、通貨の需要は起こらない、と論じた」という理解に至らず、一国経済を家計簿と同じに例えている素人経済学や財務省の喧伝にくらべれば、谷沢氏の洞察は比較にならないほどの境地に至っている。

 しかも他方で谷沢氏は、高橋が「投機」に過剰に警戒的であることを論駁してもいる。

「高橋個人が性格として、投機に手を出さないのは勝手であるが、資本主義経済の運転を支えている投機行為一般を、何か犯罪を犯しているように見るのは妥当ではない」(20頁)。

 むしろこのような「投機」を統制する側である「公務員こそ、私利私欲に果てない機構的な収奪者ではないか」(20頁)とその舌鋒はするどい。「投機」は資本主義経済の中核であり、これをいたずらに制約してしまえば、経済の革新が起こらなくなってしまうだろう。そのような谷沢氏の視点は、今日の日本の経済学者でさえもきちんともっているかどうか疑わしい。

 「投機に無用なる投機と有用なる投機の二種類があるどうなのだが、それを区別する基準が何か解らない。また投機が盛んになると、不景気と恐慌に悩まされるという。それはどこの国にあった事例か、具体的は現実の記録を示していただきたい。投機とはそんなに悪い行為なのか」(35頁)。

 この谷沢氏の高橋批判には、今日の「バブル」を過剰に警戒して、いたずらに日本経済を停滞させ、若い人たちの可能性をつぶすような日本の経済政策への批判が込められているようにさえ思える。それだけ谷沢氏の経済観は非凡だ。本書の高橋批判の多くが、このような投機を「無用なる投機」か「有用なる投機か」−つまり今日風にいえば、バブルであるのかないのかを事前に決めつけてそれを抑制する態度への苛烈な批判という形をとっている。これは素晴らしい洞察なのだ。

 また谷沢氏はこの投機への規制、その裏面での公務員たちの私利私欲を追求する機構を絶えず警戒していた。特に高橋が経済の潜在的成長を高めるために「営利」を抑制し、「国営」の役割を強調するときに、谷沢氏の論駁は苛烈な表現になる。

「高橋が思いをこめて断言するのは、日本経済の生産能力を、根本的に進歩発達せしむる方法である。そんな方法がこの世にあるのか、ある。それを高橋が発明した。偉大なるかな。その方法は何か。その方法は、すべての生産組織を「国営」にすることだ。そう聞いたら誰もが人を馬鹿にするな。と怒り出すであろう。歴史の歯車を明治の初めに巻き戻す愚論であるからだ」(38頁)。

「高橋がどうしても嫌いなのは「営利」である。営利という経済行為を嫌悪する経済評論家というのは戯画にもならない幽霊であろう」(66頁)。

本書の第五章は昭和恐慌の時代を高橋の活動からスケッチした見事な俯瞰であり、専門的な研究の基礎にさえなる高水準の歴史研究である。そこには井上準之助石橋湛山や高橋らのライバル、金本位制復帰を図る等デフレ的政策をすすめた)の人物像が徹底的に批判されている。井上という「この男が姿を現していなかったら、昭和経済史の流域は、はるかに健全な発展を遂げていたであろう。事実の問題として、彼は悪人であり、罪人であった」(87頁)、「明治大正期においては、高級官僚と政治家とは、人事の交流が通常であった。したがって井上を典型とするような、官僚政治家が幅をきかしていたのである。しかし、井上ほど、尊大な官僚根性と、政党を逆に利用せんとする政治行動とが、ぴったり結びついている例は珍しい」(89頁)。

 この井上を谷沢は「馬鹿」とまで形容し、そこに湛山、高橋らのリフレーション理論を対比させていく。先にも述べたが、通貨膨張により物価を騰貴させることで、経済を活発化させる(一国の購買力を増加させる)ことが、「国家経済のヘソ」である、と谷沢は断言している。

 本章における井上批判は、「官僚政治家」という性格をもつ人間類型への一般的な批判である。今日、このような「官僚政治家」があまりにも多いことを考えると、今日の長期停滞が昭和恐慌をはるかにしのぐ長期に及んでいることの真相の一端がわかるようである。

 さて井上は「悪人」」だ。しかしそれは私利私欲を追求し、日本銀行総裁や大蔵大臣の地位を利用し、「国民の頭上に君臨する精神的帝王」(高橋亀吉の言)という、自らの特定のモラル=精神の在り方を国民に強制するがゆえの「悪」なのだ。

 このような特殊な精神の在り方としての「悪」と峻別して、谷沢氏の悪それ自体の見解は実に興味深い。彼は資本主義自体は「当初から目的が難だか不明の、自然発生による密林である。略 それゆえ資本主義には元来倫理がなく、利益を追求するためなら手段を選ばず人を出し抜く。何をしようと勝手である。だから、資本主義は人間性の露骨な表現となる。略 悪いことをしている奴が多いほど、総体として経済の背骨が強いのであるかもしれない」(106-7頁)。

 この谷沢氏の悪の資本主義観ともいうべき野太い見方もまたやわな経済学者たちの視点を数段先にいくものである。高橋がたえず倫理的な諌めに走ったことにも再三批判を加えている。特定の倫理を押し付ける点では、高橋も井上も大差ない。しかし後者はそれを社会的な立場から国民に強制した点で比較にならない「悪人」である。ここに明らかなのは、そんなに人間は変わらないし、倫理を追求する果てには、殺戮のいけにえにさえ化してしまうだろう、という谷沢の洞察である。

 谷沢氏の経済観、人間観は実に骨太だ。そしてその経済観の根底には、清算主義=デフレ主義が特定のモラルを強制することで、多くの国民を犠牲にすること、それを避けるためには、徹底的な構造改革(民間経済の活性化)とリフレ政策(通貨膨張によるインフレ期待の醸成)の提起があったことは疑いない。

 このような卓見に至った文学者、文学研究者はあまりいない。本書は高橋亀吉という偉大なエコノミスとの長所と短所を合わせて消化し、自己の現実を見る眼を養った、強靭な精神の結晶である。

 重ねてご冥福をお祈りしたい。

高橋亀吉エコノミストの気概

高橋亀吉エコノミストの気概