「海の国」vs「陸の国」(水野和夫・若田部昌澄対談)

 『公研』2月号に面白い座談が掲載されていた。経済を文明史的な観点から面白く話すことができると定評がある水野和夫氏と、やはり重厚な史観をもちつつもマクロ経済政策の重要性を強調している若田部昌澄さんとの異色対談である。しかもかなりの紙数を割いているので両者の基本的な対立点はよくわかる。

ひとつの対立点は、水野氏がいまの日本のデフレは構造的なデフレであり、名目所得の落ち込みはまずいものの嫌消費などの形で若い世代がこの構造デフレに対応した経済の仕組みを考案することに将来なるかもしれずその意味ではポスト近代のレースの先頭ランナーである、という認識である。対して若田部さんはいまのデフレはc日本銀行の政策のミスであり、日本以外の多くの先進国はデフレに陥る可能性は低い、そのためポスト近代のレースの先頭ではなく、ただ単に若い世代を含めて日本経済が活力を喪失している、という見方である。

もうひとつは文明史的な視座であり、水野氏は東インド会社以降の人類の経済発展は、新たなる投資機会を空間的に拡大することで得ていた「海の国」の発想であるが、その新しいフロンティアも消滅し(収穫逓減がきいている)+消費も飽和した。そのために「陸の国」の考えか今後のポスト近代レースの主調音になる、という見方である。これに対して若田部さんは水野氏は人類の可能性に悲観的であり、技術進歩などで資源の制約が緩和される可能性もあるだろう、デフレ論にも展開したように消費の飽和が世界的に予見される可能性はいまだ低い。水野氏のように断定することはできない、という主張としてまとめることができるだろう。

「陸の国」という水野氏のポスト近代のあり方が、いまいち僕にはわからなかったが、対談の最後の方で、若田部さんが、水野氏の経済観をゼロサム経済論としてまとめたことで僕も理解できた。水野氏は世界中の利害を足し合わせるとゼロサムになると考えている。しかし他方で世界中で足し算引き算すればゼロなのだが、そのうちの一部分の組み合わせを取り出せばかならずしもそれはゼロではない。そのゼロではない組み合わせの「妙」に日本の生きる道を見出す、という発想が水野氏にはある。

その典型が「東アジア共同体」である。環インド洋経済圏とも表現されている(なぜか海なのだが?)。この経済ブロックの組み合わせはややプラスになりうる。他の組み合わせの経済圏(例えばアメリカなどに、円高ドル安を利用して資源輸出や貿易を行えばさらに優位は確保される、というわけである。

正直、何重にも恣意的な歴史の読解と、都合のいい経済圏の組み合わせ、そもそも本当に経済は世界全体でゼロサムなのか(残念ながらそう思う人の呪縛を解くことは経験上困難である)実証されてもいない前提など、水野氏のおもしろおかしい経済論をまとめて、標準的な経済学の理解(若田部さんのもの)と対照することで理解がすすんだことはやはりこの座談の意義ではあるだろう。

『公研』はこちら参照http://www.koken-seminar.jp/new.htm

なお、田中の水野和夫氏の見解への批判的検証は、『atプラス』2号の「]Review of the Previous Issue 資本主義の限界と経済学の限界、それがわかる人わからない人」で行ったので参照してほしい。

atプラス 02

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