なぜ不況期にホラー映画が多く作られたのか?

 ネットのニュースみていたら森永卓郎氏が「暴走」していたとのこと。ただ「暴走」は無視しておくと、ニュースの次の部分に興味を持った。

http://movie.goo.ne.jp/contents/news/NFCN0020464/index.html

 「不況時にホラー映画が多いのは、製作費が安いから」と語る森永氏は再び、話を脱線させ、「最近はテレビ局も不況で、どんどんギャラが下がっている。タクシー代は出ないし、弁当も質素になっている」と今度はグチを連発。

 テレビ局不況とコスト削減も無視しておくと、不況時になぜホラー映画が多いのか、ということである。本当に多いかどうかは原田さんたちの分析にまかせるとして、確かに30年代の大恐慌のときに、ハリウッドなど米国ではホラー映画が数多く制作されていた。『ドラキュラ』、『フランケンシュタイン』、『キングコング』などなど、ホラー映画の黄金時代にようにも思える。ここらへんも本格的な分析は映画秘宝系の方々の推論にまかせたいが、ざっとネットのソースをみると、「つらい現実をわすれさせるための気晴らし」仮説、「たまたま」仮説、「当時増加してた移民への潜在的恐怖」仮説などが目にとまった。

 最初の「つらい現実をわすれさせるための気晴らし」仮説と、森永氏の低コスト仮説というのは特にホラー映画でなくてもあてはまるものではある。一番支持しやすいのが「たまたま」仮説だが、これだと味気ないだろう。最後の移民仮説は精神分析にまかせることにする(それにこれも移民と不況のつながりは必ずしも等しくないので、不況期におけるホラー映画の増加という「事実」を証明できないのではないか)。

 ただ心理的な側面というのは無視できないようには思う。テイラー・コーエンは米国の現在の不況の経験が、「こころの消費」というライフスタイルの変化をもたらしたと新著で、トマス・シェリングなどを援用して書いている。いわば「大停滞の文化経済学」(コーエンの言葉ではなく僕のネーミングだがw)とでもいうべきものだ。人々は高額な物的な財を消費することが、不況でできなくなる。そのため限界費用がほぼゼロに等しい脳内=こころの想像物の消費に走る。

 その具体的な産物としてコーエンは現在のネット文化の興隆を指摘していた。ここらへんの論点は先日も宇野、荻上氏らとの対談でより深く話したつもりだ。このコーエンも深刻な不況が人々の消費生活を劇的に変化させたことを示唆している。

 映画というものもその本来的な特徴は、人々の心の中にさまざまな想像上の消費対象を実現するものであろう。その消費の限界費用はゼロにやはり近い。もちろん映画だけではなく、小説もラジオもそして隣人とのおしゃべりなどもそのような「こころの消費」、より具体的には「こころの生み出す物語の消費」を可能にしている。シェリングが例に引いているが、人々は『名犬ラッシー』の死に涙するが、それは「こころ」=「物語」を消費しているのであって、他方で視聴者の多くはラッシ―を演じた犬が現実には生きていることを知ってもいる。だがまさに本当に死んだかのように涙しているのである。

 大不況のときに小説やラジオや隣人とのおしゃべりが増加したのかどうか調べなくてはいけないが、そもそもホラー映画だけではなく30年代はハリウッドの黄金期だったはずであり、ホラー映画だけがもてはやされたわけではないだろう。そうなるとホラー映画だけが不況で増加したというのではなく、それを含む「こころの消費」が増加したと考えるのがいいように思える。そしてこの「こころの消費」の増加は、コーエンが指摘しているように、不況が終了しても人々のライフスタイルの変化、一種の心的構造の変化として長く持続していく、と考えるのがいいのではないか。

 ちなみに山形浩生さんがコーエンのことを自分みたい、と書いてたが、実は僕も自分じゃないか、とたまに思っているw コーエンの本を山形さんが訳してくれることを願いたい。シェリングの下の本でもいいけど(クルーグマンが大絶賛の本でもある)。

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