権丈善一「政策技術学としての経済学を求めて」

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 この論説で権丈氏は以下のように経済研究の位置づけをしいてる。

「経済研究というものは、経済現象にまつわる事実と制度を正確に調べ、そこで何が起こっているのかこれからどのように変化していくのかに想像をめぐらせ、それらの現象と関連のある複数の価値の間の優先順位を付ける判断の連続、しかもその時代時代における利害の対立、権力の分布を詳しく知り、その力の分布図をアダム・スミスが『道徳感情論』で言う公平無私な第三者の立場から俯瞰的に眺めた上で、リアリズムのある問い、分析と総合、判断の連続という作業から成り立っている」

では、各論としてはどうか。例えば働く人の立場を考えるときに権丈氏は「縁付エジワースボクスダイヤグラム」が便利な考察手段であるとしてそれを用いて彼の労働市場観を開陳している。その点については僕も下に自分の考えを書いた。

「この縁付きエジワースボックスは、昨今の労働問題、つまり、労働と福祉の接点を考察する上で、若干の示唆を与えてくれる。アダム・スミスが見た18世紀後半の労働市場とは異なり、今の先進国では、どこにも生活保護や失業給付、そして最低賃金制など、労働者の最低生活を保障する制度的枠組みがある。これは、スミスの言う交渉上の地歩(bargaining position)における労働者側の不利な立場を補正し、労使の交渉の場をαゾーンの内側に持ち込む役割をはたす。ところが日本の生活保護、失業給付、最低賃金などは脆弱であり、ゆえに労働と福祉の境界に位置する人たちは労働市場で自らの労働力を窮迫販売せざるを得ない状況にあることは専門家の間ではひとく知られている。
 そうした労働市場を外から支える、もしくは労働市場を下から支える福祉は弱い日本の労働市場で、柔軟性・流動性は強く求められて規制緩和が進められ、労働者の交渉上の地歩の弱さを補正する政策、労働者の生活の安定性を保障する政策を怠っているとどうなるかは、想像に難くない。
 αゾーンでの市場取引がそれなりに望ましい結果をもたらしてくれることは、多くの経済学者が言う通りであり、それ自体を否定することは難しい。けれども労働市場というところは、リカードが推奨した、市場にまったく介入がない自由放任のもとでは、労働者がβゾーンに陥ることもあるという特徴を持っている。このとき、価値基準を効率のみで評価するわけにはいかない。αゾーンの外枠に張り付くSA点も、職人が利得を得ようとすれば親方は損害を被らざるを得ないという意味でパレート最適点なのである。したがって、アダム・スミスは、労働者をαゾーン内部での取引に参加できるように、要するに、労使の交渉が「公正」におこなれるように労働者にハンディ・キャップを与える政策を積極的に展開することを説いていた。(略)はたして90年代に規制緩和をリードした日本の経済学者たちは、労使間に交渉上の地歩のアンバランスがあることや、そもそも労働市場を考察する際に有益な「縁付エジワースボックス」があることなどを知っていたのであろうか」

 図については以下の知人(どうもありがとうございます)作成のものを手直しした図表を参照のこと。権丈氏の論説の図とは多少異なるが上記の引用文を理解する上では大差ないだろう。もちろん下のエントリーのものとも基本的に同じである。



 権丈氏が「労働者がβゾーンに陥ることもあるという特徴を持っている。このとき、価値基準を効率のみで評価するわけにはいかない」といっているとき、下のエントリーで書いている福田徳三の「利用」あるいは「社会的必要」とか「二―ド原則」というもので評価する必要がでてくるわけである。

 では、「社会的必要」とは何か? 別ブログにも書いたことがあるが次回はそこを検討する。

 なお、権丈氏は、また「はたして90年代に規制緩和をリードした日本の経済学者たちは、労使間に交渉上の地歩のアンバランスがあることや、そもそも労働市場を考察する際に有益な「縁付エジワースボックス」があることなどを知っていたのであろうか」と書いているが、知っていたと思う。なぜならその規制緩和論者といっても差し支えがないだろう、島田晴雄氏は自著の『労働経済学』(岩波書店)でこの縁付エジワースボクスダイヤグラムを説明しているし、未見がだ英文の本でも掲載しているらしい。権丈氏は職場が同じであり、近接領域なのでそれを知らないはずはないと思ったが…あるいはそれも含めての批判的言説(揶揄)なのかもしれないが

労働経済学 (モダン・エコノミックス 8)

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