僕がミクロ問題を考えるときのひとつのベース

 そろそろシノドスで話す準備をしなくてはいけない。僕は飯田泰之さんのような「ニューケインジアン」というのにはためらいがある。他方で、『atプラス』(http://actibook.la.coocan.jp/at/)で権丈善一さんが書かれた話(「政策技術学としての経済学を求めて」)にはかなり同意する部分もあった。またいままでいろんなところで権丈さんの論説を人にすすめてもきた。もう無くなったのでいうが『月刊現代』のこの特集の人選もすべて僕が編集者と相談しつつやったのでそのときも権丈さんを推した。その理由は率直な物言いへの評価だったのだが、他方で何か共通の土台で考えている面もあるんじゃないか、と思っていた。それが今回の『atプラス」の論説で僕には明らかになった。もちろん個々の論点で権丈さんとは異なる立場もあるだろう。


 以下は、僕の福田徳三論の一部分(抜粋)である。元になる原稿はすでに10年以上前に書いたものでありまだ完成稿ではない。図表は一部分だけ収録。注釈は省略したが気が向けば後で修正。抜粋なので前後意味が通らないところもあるだろうが御容赦。ちゃんとした完成版は8月中には脱稿してその後出版する予定。

 関連する文献としてこのエントリーも参照 →生存権をどう経済学的に基礎付けるのかhttp://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20060910#p2

価格の経済学と厚生の経済学(抜粋)

 福田徳三は、マーシャル、A.C.ピグー、E.キャナン、J.ホブスンらの「厚生学派」(今日では旧厚生経済学とも物的厚生学派とも称される)らの業績を、福田の近代経済学宣揚の書ともいえる『経済学講義』の段階から注目していた 。かれらの主張は、例えばピグーの3つの命題に代表させることができる。

 社会の経済厚生は、
(1)国民分配分の平均量が大きければ大きいほど
(2)貧者に帰属する国民分配分の平均取得分が大きければ大きいほど
(3)国民分配分の年々の量と貧者へ帰属する年々の取得部分との変動が少なければ少ないほど、おそらくますます大きくなるだろう 。

 この3つの命題をすべて、「厚生学派」の構成員が支持したわけではないが、かれらの関心が貧者の生活水準を改善しようとする努力にあったことは確かであった。特に二番目の命題の前提として、大きく2つの仮定が採用されていることに注意したい。それは、第1に経済厚生は貨幣によって計測されうるもののみを対象としていること、第2に、個人間の効用が比較可能であることである。

 ピグーの『厚生経済学』(1920年)の「国民の分け前の経済厚生と分配の変化」と題する章には、「同じような性向tempatureをもつ比較的裕福な人から比較的貧しい人に所得が移転することは、より切迫していない欲望の犠牲の上に、より切迫している欲望を満たすことになるのだから、両者の満足の総体を増加させるにちがいない」と富者と貧者の効用を直接に比較している 。もちろんこのようなピグーの効用のとらえ方は、後に基数主義としてL.ロビンズや新厚生経済学などの序数主義者から批判を浴びることになる。彼らの批判以外にも、ピグーらの主張には、より慎重な検討を要する点がある。ピグーらは、財からの満足には階層があることを重視していた。例えば、生存や健康にかかわる財(例えば、食料、衣類、家屋、冷暖房施設など)は安楽comfortやぜいたくluxturyな財よりも緊急性を有するだろうし、満足の階層においてその基盤をなしている。よって貧者の方がより緊急性を要する財を必要とするのであるから、富者からの所得の移転はこの満足(あるいは必要)の階層からみても正当化される。

 ただピグーも注意していたように、このような個人間(あるいは社会階層間)の所得の移転は、2つの条件が成立しているときにのみ妥当とされるものである。第一に、課税された富者が労働意欲を減退させるなどして、結局国民所得を減少させてしまわないこと、第二に、移転された所得を得た貧者がそれを有効に使用する能力を有することである。この能力の中には、長期的にみて生産性に貢献するような人的資源開発などの投資も含まれている。短期的には所得の移転が国民所得の減少をもたらしても、貧者の能力や才能が開発されることでより大きな国民所得が長期的に実現できるとピグーは説いたのである。

 このようなピグーの長期的な視点は、再分配政策においても、教育・医療・産業訓練などに投資すべきであるとする主張につながっている。貧者の生活水準の上昇の必要とそれが長期において能力的・精神的な発達を成し遂げるというピグーの考え方は、師のマーシャルを受け継ぐものであり、また福田の関心でもあった 。

 だがこのようなマーシャル・ピグー的な厚生経済学の考え方は、評価すべき所はあるものの、その根底においていまだ従来の経済学の枠組みを破壊することはできていないと福田は反論した。福田は従来の正統派経済学を「価格の経済学」price economicsとし、かれの目指す経済学を「厚生の経済学」welfare economicsと区別した。その上でマーシャル、ピグーはこの「価格の経済学」でいまだあると批判している。価格の経済学はその前提とするutilityの意味する内容に依存する。福田は、『社会政策と階級闘争』(1921)の中で次のように述べている。

「ある人がある物またはある労働に対して提供するを肯する一定の貨幣額は、その物、その働きより得べき満足、またはこれを得るによりてまぬかれうべき不満足を直接に測るものではない。ただその物、その働きに対する欲望・願求の強さを測るにすぎないのである。しかるにこの欲望願求の強さを言い表すに、普通利用utilityなる語を当てている。しかし利用なる語は満足の度合の謂であって、願望の度合desirabilityまたはdesirednessの度合の謂たるべきではないのである。利用大なりというは、得る満足の大なるの意であって、われわれがこれを追求し願望すること大なるの謂であるべきではない」。

 価格の経済学の対象とする「価格」が測ることができるのは、実は本来の「利用」の意味ともいえる満足の度合いではなく、むしろ願望や欲望の度合いにすぎない。その意味で従来の価格の経済学のutilityの語用は誤解を招くおそれがある。むしろ価格の経済学の対象とするのは、「要用」というべきものである、と福田は述べている 。「価格が測るところは、この「要用」であって、「利用」ではない」のである 。要用が必ずしも実現されるか否かは保証されないのであるから、この要用と利用は異なる可能性がある。そして「利用」を対象とするのが、福田の「厚生の経済学」にほかならない。もちろん価格の働きも、福田の経済学の中では重要な機能をもっているので、正確にいうならば、「要用」と「利用」の二つの次元を統合し、後者の意義をより強調した経済学といえるであろう。

 このような「要用」と「利用」の区別は、V.パレートのophelimityとutilityの区別に類似している。パレートのutilityは社会的で基本的な必要を満たすものをさしている。他方、ophelimityは主観的な欲求を意味している。パレートは有名な比喩で、「苦い薬は病気の子供にはutilityがあるが、ophelimityはない」と形容している。さらに注目されるべきは、福田の「利用」もパレートのutilityもともに観察可能であることである。共同体の中ではだれがどのような財に「利用」を抱いているかが他の共同体の成員には観察できるという意味で使われている。この「利用」の発想こそ、福田の「厚生の経済学」の要点である。

 ピグーの国民分配分やマーシャルの消費者余剰論があいまいなのは、両者が「要用」と「利用」を混同して使用しているからだと福田は断じている。ピグーでは、所得の低い者が、財やサービスについての欲望の階層からみてより緊急性を要する財を需要するとしているのだが、福田からみればこの点にこそ従来の経済学のutilityの概念では完全にとらえられないものとして「利用」あるいは現代風の用語でいえば「ニーズ」(必要、基本的必要)の作用する余地が出てくる。対してピグーでは、このような必需品の需要も、他の財やサービス同様に従来のutilityの概念でひとくくりに取り扱ってしまっているところに、福田はピグーの不徹底を見ている。福田が強調した「利用」と「要用」(後者は、今日の正統派経済学が前提としている効用概念に該当する)の区別が、どのような理論的なケースで重要な意義を帯びるかは節を改めて論じることにする。

図表入るが省略

厚生闘争と失業

 「われわれは価格のために作られた動物ではない、われわれは価格世界の奴隷たるべきではない。われわれはわれわれの生を厚うし、われわれの用を利し、人類としての生活の充実発展を期するにあたり、いまや世界が価格の世界なるがゆえに、その理法を尊重するにほかならないのである」 。

 このいくぶん逆説めいた発言は、福田の社会改良の意志の発露として読むべきであろう。われわれが目前にしている経済は、貨幣の無限の増殖を自己目的的に追求する流通経済の形態をとっている、と福田は随所で述べている。資本主義経済の主役は、企業であり、この企業の生み出す余剰を資本家と労働者が交渉により分配することになる。ただし、後に述べるように、労働者はその特性から、つねに交渉上で絶対的な劣位に置かれており、実際には資本家の利益のみが実現していると考えられている。

 福田は J. ホブソンの用語を借りて、「資本主義社会は、所得獲得社会である。それは余剰の分配によって活き、しかして発展していく社会であるから」と述べている 。資本主義社会の生き馬の目を抜くような特徴を、福田は封建社会との対比としてさまざまな形容を行って特徴づけている。封建社会は、「自足経済」「有限経済」あるいは「実物搾り取り原則」に立脚する経済として、他方資本主義経済は、「交通経済」「営利的経済」「無限経済」「所得獲得社会」そして「流通経済」「貨幣的搾り取り社会」等として表現されている。

 論文「失業の必然・不必然と失業対策の可能性・不可能」(1929)において、資本主義社会における雇用関係に着目し、次のように資本主義社会の本性が「貨幣搾り取りの社会」であると述べている。

「貨幣搾り取りの特徴は、それが無限の搾り取りにあること、資本主義の特徴は、アリストテレスによって無限の経済なりとせられた営利経済のうち、その最も徹底的ー今日までに知られているかぎりにおいてーなものたることに存する」 。

 ところで資本主義社会の雇用関係は、主に「労働契約」に基づくものである。だが貨幣搾り取りの社会では、この「労働契約」は労使双方に平等ではなく、むしろ資本家の雇用の自由のみが約束されている内容のものでしかない。なぜなら、労働者の提供する労働サービスは保存が不可能であり、彼はこの労働が売れなければ生きていくすべがないので、売れる見込みが難しければどんな悪条件でも呑まずにはいられないからである。この労働の特殊性は、師のブレンターノから受継いだ考え方であり、歴史学派の立場をほぼ放棄した後も変更することなく保持しつづけた見解でもあった(第5章参照)。

 このように福田の考えた資本主義経済・自由放任経済・流通経済では、労働者の契約の自由は認められていないといってよい。いいかえれば、雇用労働への需要は、資本家らにとっての貨幣搾り取りの機会への需要を表わしているにすぎない。当然、このような非対称的な雇用関係では、市場の調整原理は働きようがない。
「雇用労働に対する需要は、労働に対する需要ではない。被搾取者に対する需要である。搾り取りの機会の欠如は、すなわち雇用労働に対する需要の縮小を意味し、その機会の増大はその需要の拡張を意味する」 。

 私的な領域で結ばれた「労働契約」が、実は雇用側の「貨幣搾り取り」の原理が作用して、雇用側に有利なように不平等に結ばれていることに、貧困とそれがもたらす労働者の人格的・道徳的な堕落の原因があると福田は断定する。だからこそ福田は私的な雇用契約の領域についてその国家による規制を主張し、「労働契約から労働協約へ」の移行を訴えた。この「労働協約」論とは、雇用者に対して労働者と一方的に不利な立場で労働契約を結ばないように、「労働協約」(集団的労働契約)を強制化するようにすること、そして労働協約の法制化を政府に求める内容を持つものであった。労働協約によって労働者側は、雇用者と団体交渉が認められることとなる。

 福田は、資本主義経済における価格は、(エッジワース的な)交渉barganingの過程で決まると考えていた。もちろん実際には雇用者側が交渉を優勢にすすめるのが一般的であり、むしろ労働者は交渉力さえも認められないような状態が普通である。そのため賃金交渉(福田の用語では「賃金闘争」)は政府による直接・間接的な介入のもとでしか実現されない。福田の表現では「労働協約」による契約の自由の保障(丁寧にいえば、労働者が条件次第で契約を結んだり結ばなかったりする自由の保障)のもとにはじめて賃金交渉は可能になる。言い方をかえれば、エッジワース的な交渉モデルにおける市場の調整メカニズムは、「労働協約」のもとでしか機能しないのである。「労働協約」の保障がないときは、資本の側の「貨幣搾り取り」の原理が働き、市場メカニズムが機能した場合とはまったく異なる雇用のありかたが横行する、と福田は考えていた。

「今日の流通生活における価格の決定は掛け引き(bargaining,Verhandlung)によるものである」、「仮に労働協約により、もしくは協約なくとも団結の力によって、労働者が雇主と真に対等の強さを持つ取引者となった場合を見よう。この場合における賃金掛け引きは、商品の売買者間に行われる売買掛け引きの理に従うものである」 。

 たとえば労働市場の取引では、労働者はできるだけ高い賃金を、雇用者側はできるだけ低い賃金を望むであろう。両者ともにこの水準だけは譲れないとする把住(制動)点が存在するにちがいない。この両者の把住点を上限と下限にして、実際の「賃金闘争」は行われる。このような価格の範囲、労働市場でいえば、「賃金の不確定列」range of indeterminationのなかから交渉過程によって賃金が一意に決定されるのである 。

 以下では、福田の厚生の経済学を、より形式的に整理してみることにしたい。福田の主張を表わすために、わたしたちは以下のような「拡張されたエッジワース・ボックスダイアグラム」を説明の便宜として利用することにしよう。この説明の枠組みは、辻村江太郎の業績を福田の理論に適用したものである 。

 まず福田は、労働者が必要の階層からみるとより緊急性を要する財、たとえば生存や健康にかかわる財(食料、衣類、家屋、冷暖房施設など)を需要すると考えていた。このような必需品には生存に欠かせない最低量が存在する。これを賃金xの水準でみた場合には、生存維持が可能であるような賃金水準が存在しているといってもよい。これと同じことが、余暇yにもいえよう。労働者にとっての最低生存必要賃金をmxl とし、最低生存必要余暇時間をmyl としよう。賃金と余暇の最低生存必要量を加味した効用関数を、次のようなGeary-Stone型効用関数として次式で表わす。(ブログ注記:ゲフ。余暇と賃金のプロットを元原稿と逆にしちゃった。ま、いいけど)
 
 U=A(x-mxl)^α(y-myl)^β

この効用関数から労働の限界効用は、次の図表のように表わされる。mxlの軸と賃金xをプロットした軸に対して、限界効用曲線は漸近線の形になっている。余暇の限界効用曲線も同様の性質をもっている。

図表入るがブログでは省略

このような性格の限界効用関数から構成される無差別曲線を、雇用側の無差別曲線と合わせてエッジワース・ボックスダイアグラムに描いてみると、以下の図表のようになる。ボックスの外枠と赤線の内枠との間には、両者の無差別曲線が両方とも引けないか、あるいは片方だけしか引けない領域が表われていることがわかる。いわば、縁つきのエッジワース・ボックスダイアグラムになる。ブログ注記:ブログ用に図表作成したけど小さいw まあ、許されよ。



 ボックス上の領域の性格は、大きく3つにわけることができよう。a領域は、労働者も雇用側もともに所得-余暇の最低生存必要量をみたしている。a領域では、エッジワースの交渉モデルにおけるように市場調整メカニズムが機能している。つまり初期における所得-余暇の分配状態が、このa領域にあれば、交渉の結果、通常の経済学の意味での最も効率的な配分を達成することになる 。このa領域こそ、価格メカニズムが機能しているのだから、福田のいう「価格の経済学」が扱いうる世界であり、また「要用」の世界(すなわち効用関数が定義できる場)である。a領域では、国家の介入により、「労働協約」が成立しているので、「賃金闘争」は市場調整メカニズムにしたがって命運は決せられよう。

 b領域では、「価格の経済学」はその説明力の大半を失う。例えば、初期点がeで与えられていたとする。労働者は最低生存必要賃金にみたないので、このままでは生存の危機にさらされる。雇用側は、労働者が生存を脅かされており、交渉力がないのを承知しているので、労働者から労働を最低の賃金ですべてとりあげようとするだろう。このとき労働者が生存可能で、しかも雇用側が最大の効用を達成できるのはs点である。いわば、「貨幣搾り取り」の原理がフルに稼働して、最低の賃金で、最大の労働を強いていることになる。このような労働者側と雇用側の間の取引は、労働者の死の恐怖(=労働の特殊性)を利用したものであり、競争者の自発的意思による経済的な交換とはいえない。

 c領域では、労働者側あるいは雇用側のどちらか一方が賃金も余暇もそれぞれ最低生存必要量以下である場合である。例えば、労働者は最低生存賃金を得たくとも、それと交換できる労働の提供さえも不可能である。この領域では、市場メカニズムが働くどころか雇用側の強制的な雇用さえも生じない。なぜなら雇用側の必要とする労働を供給することができないからである。いわば労働不可能な老人や幼児、病人のような主体が考えられよう。また次節で言及するが、主体の保有する労働の質が提供されている職業や働き口に対して適応不可能であったり、技術や才能がいかされないための失業もこの領域に入ると福田は考えていた。福田はこのようなc領域に陥っている人々をも救済するために、「生存権」の認承を要求したと思われる。

 福田の構想した「生存権の社会政策」が直接の目的としたのは、a、b、cの三つの領域に初期状態があるすべての人々の状態を改善していくことにあった 。そのため、福田の「生存権の社会政策」は雇用政策と非労働者の生活改善策の両者を包括するものとして考慮されている。「生存権の社会政策」自体はすでに第4章でみたので、本章ではc領域の問題については、第4節で「復興の経済学」の視点から取扱うことにする(ブログでは省略)。

 さて以上の枠組みを用いて、福田の「厚生の経済学」の意味するところを考えてみよう。福田はピグーの命題のうち、特に「貧者に帰属する国民分配分の平均取得分が大きければ大きいほど全体の厚生を増す」を条件つきで支持した。条件付きとは、ピグーのように「要用」すなわち効用のタームでこの命題を理解しない限りにおいてである。では福田の「利用」版ピグー命題はどのようなものだろうか 。当面、a領域とb領域との関係に絞って考察を加える。

 いま初期の配分では、e点に労働者がいるとしよう。このままでは雇用側の都合だけで、s点に移行してしまう。しかし、政府が介入してa領域内の例えばhに再配分を行えばどうだろうか(あ、ブログ版の図表にh描くの忘れた 笑)。もちろん直接介入以外にも労働協約の規定の成果としてもこのような初期配分の変更は可能である。

 政府が介入した場合には、社会全体の労働時間の配分については変更がないが、所得については再配分が行われたことになる。つまり介入以前の労働者の所得に、雇用者からh-eに該当する部分が移転していることになる。この所得移転によって、初期配分がa領域に変更されるので、これ以降は労働者と雇用者は互いに交渉によってそれぞれ「最適な」所得と労働時間の契約を結ぶことが可能になるのである。

 ピグーの厚生命題については、それを個人間の効用比較に基づくものとして批判することが通説であるが、以上の福田の議論はそのような仮定には一切依存していない。この政府による所得の再配分、すなわちb領域(非市場メカニズムの領域)からa領域(市場メカニズムの領域)への移行によって、社会全体の厚生が増加したと福田がみなしているからである。すなわちb領域では、そもそも社会厚生すら定義することができないが(なぜならこの領域では労働者は効用関数を定義できないから)、a領域ではそれが可能であるからである。福田の「厚生の経済学」の重要な含意のひとつを、このような政府の介入によるb領域からa領域への移行にともなう社会厚生の増加としてみなしたことにあり、以下の福田の発言も理解がいくものとなる。

「賃金闘争はより高き価格のための闘争ではない。より大なる満足のための厚生闘争である」 。

「「余剰価値闘争」は、もとより資本主義社会にあっては、まず第1に、利潤所得者と雇用所得者とのあいだに行われる。これは誰人の眼にも明らかなところである。しかしながら、厚生経済の立場からみれば、社会的に必要なる所得と、社会的に必要ならざる所得ー前者を「値する所得」、後者を「値せざる所得」となづけようーとの間の闘争こそ、真の意義をもつものであって、雇主と雇用労働者との階級闘争は、それが、この意味の真の厚生闘争であるがゆえに、重大なる厚生的意義をもつものとなるのである」 。 

 ところでb領域からa領域への移行の要請は、「要用」すなわち現在の正統派経済学が用いる効用utilityのタームで理解されるものではない。労働者の市場外的な立場(b領域)からの離脱を要求するニーズ(福田は「利用」あるいは、Demandの訳語とまぎらわしいが「需要」とも表現している)から発したものと理解されよう 。いいかえれば従来のutilityの概念では、市場メカニズムの機能する領域での経済主体の厚生の改善しか議論できないが、福田的な「利用」は、市場メカニズムが働かない領域での経済主体の厚生改善を表わすことができるともいえるのである。もちろん現代の正統派経済学のように、「要用」の比較で厚生の改善を議論するものには、このような福田の立場は、彼の価値判断を実証の世界に不用意に持ち込んだものと批難されるかもしれない。しかし、「要用」では定義不可能な世界(=「利用」の世界)から、(労働協約の制約という前提のもとでの)「要用」の世界への初期配分の移動を、「厚生の改善」とみなしたことが、福田のユニークなところである。

 さてb領域からa領域への移行は、政府のさまざまな所得移転の手段によって可能ではある。福田は、この移行を可能にする制度的なものとして、工場法の成立、失業・医療・年金・生活保護などの有効性を特に主張していた。これらの制度的な施設は、それぞれ所得水準や労働時間を是正することで、b領域(さらには後に議論するc領域)に初期状態が陥らないような役割を果たすものである。従来の福田を対象とする研究の多くは、かれの経済理論と社会政策との理論的な関連をほとんど検討してこなかった 。しかし、福田の社会政策論は、以上のような経済理論の中でこそ、その意義をもつように思われる。

 ところで福田はこのような経済理論を背景として、独自の失業に対する見解を表明してもいる。福田は、ピグーを始めとする正統派経済学は、失業を実物的要因、心理的要因、あるいは貨幣要因などに求めているが、それらの理論は、結局「自然的均衡」を支持していることに帰着するとしている。福田の正統派経済学への理解を示す上でも重要なので、かなり長いが次の引用を挙げておく。

「正統派経済学は、自由競争の完全に行われる社会を前提とする。しかして、その前提のもとにおいて、労働の自由の完全なる実現を主張する。アダム・スミスが、ギルドを攻撃し、株式会社を非難し、あらゆる労働団結を否認したのは、それらを労働の自由の実現をさまたぐるものとみたからである。これらの人為的制限の存在せざる「自然的自由社会」においては、「各人よりは、その能力に応じて」なる原則 は、単なる要求たるに止まらず、端的現実の事実となると主張したのである」。
「なんとなれば、この社会においては、(1)各生産物に対しては、ただ一つの価格のみが成立、(2)その価格は生産費と一致する、(3)各生産要因に対してもまたただ一つの価格のみが成り立つ。そして、一方においては、すべての有効需要--価格を支払いうる需要--はかならず充たされ、他方においては、また、すべての生産給付は、ことごとく所要せられるように、生産は嚮導せられるいわゆる「費用原則」に支配せられ、かくて、需要=供給、供給=需要、価格=費用、費用=価格という均衡が成立するものであるから」。

「したがって、資本についても、土地についても労働についても、供給=需要であり、需要=供給であらねばならぬ。各人はその適能する労働をかならず見出し、その労働の供給はかならず需要によって迎えられる。需要せられざる供給なるものはなく、供給せられざる需要なるものは存しえない。両者のあいだには、厳として紊すを得ざる自然的均衡が存在するというのである」 。

 よって恒常的な超過生産(失業)は、正統派経済学には存在しない。この正統派経済学のロジックが、すべて労働の自由の完全なる実現に依存している、と福田は指摘する。だがそのような労働の自由、すなわち労働者が「労働契約」を締結したりしなかったりする自由は、今日の資本主義社会では保障されない、とする。なぜなら、労働者は、例えば先のb領域に陥っているものが大勢を占めているからである。 

 労働に「適応なく経済力なきものは、自由競争がいかに完全に行われる社会にあっても、そもそも競争人たることができないのである」 。「各人にその適応とする労働を与うべし」とする「労働権」が、「全然存在せざるということが、資本主義企業存立の条件なのである。存するものは雇用者の自由雇用権これのみ。被用者は形式的には雇用を拒みこれを諾せざるの権ありというけれども、彼が人間として生活する必要をもつかぎりそれは空名にすぎない」とし、労働者と雇用者の交渉力の圧倒的な違いを強調している 。

 「被用者は形式的には雇用を拒みこれを諾せざるの権ありというけれども、彼が人間として生活する必要をもつかぎりそれは空名にすぎない」という労働者の状況こそ、まさしく上記「拡張されたエッジワース・ボックスダイアグラム」でのb領域の状態にほかならない。ところでb領域では、雇用者の利益だけが前面に出ている。労働者は生存の危機を回避するため、s点を選択せざるを得ないのだが、かならずしもs点が実現されるとはかぎらない。なぜなら、「企業者はその雇用労働者に対して、かならずしも生活最低限を保障するに足る賃金を支払うものではない」 からである 。市場の競争メカニズムが働いていないので、s点で雇用するか否かはその都度の雇用者の事情に依存する。たとえ労働者が生存できない、あるいは労働不可能なほど生活水準が低下してもそのことが企業の生産性には影響を与えない。なぜなら他の産業や農村から潜在的な労働者を追加的に雇用できるからであると、福田はカッセルらの主張を借りて述べている 。これは、福田が一種の二重経済を念頭に置いていたことを、理論の面から裏付ける重要な点である。

 福田の「失業」とは、まず第一義としてb領域における労働者の契約の自由の欠如を原因として生じている。そのため、このような雇用契約の自由の欠如を失業の原因とみなせば、その状態を改善するのは政府の積極的な役割になる。政府は、労働協約の導入や所得移転等を通じて、b領域からa領域にもっていくことで失業を防ぐことが可能である(もちろんa領域でも正統派経済学が考えるような短期的な失業は存在するであろう )。福田はこのような政府の介入は、企業や資本家の社会的損失を、社会全体に転嫁しているものだとして、資本家や企業を批判してさえもいる。
「その失業の処置を国家に--そして、その実は国家を通じて、社会全体に--転嫁するところの資本的企業は、かれこれの区別なく、一体としての寄生虫的存在を営むものにほかならないと」 。

 いままでの議論の要点は、資本主義社会の機構(流通経済)では、労働争議最低賃金(最低生存必要賃金とは異なる)・各種の労働保険などの諸制度をつうじて、b領域(非市場メカニズム)からa領域(市場メカニズム)への移行が可能な余地が存在することにあった 。この主張には、福田の市場メカニズムへの(条件付きの)強い信奉が顕示されているといえよう。

 しかし、忘れてはならないのは、福田がa領域自体も「労働協約」のもとではじめて市場調整メカニズムとして機能すると考えたことである。またb領域(またはc領域)からa領域への国家を通じての移行措置が、その国家と労働者(c領域も考えれば、非労働者をも含む共同体の成員)との緊張関係をはらむものであったことを福田は十分自覚していたことであった。この点については第6章で再度考察を加えることにしたい。