竹中平蔵『経済古典は役に立つ』

 経済政策の担当者としての実務の経験、そして経済理論家としての分析的視点を、アダム・スミス、イギリス古典派経済学、ケインズシュムペーターハイエクフリードマンなどの古典を一冊かけて読むという趣向である。元は大学の講義がベースということもあり、編集の貢献も大きいのだろう、とても読みやすい。

 本書に取り組んだ竹中氏の意図は以下の発言に表れている。

「略 経済政策の話をするときに、一方で経済思想として話をする人がいることが気になっていたからである。いまの日本経済の問題をどう考えたらよいのだろうかというときに、思想のなかに逃げ込む人やハウツーもので安易に物事を解決する人がいる」

 例えば「市場原理主義」とか「リフレ派」などというだけで批判した気になる人たち、経済政策の問題なのに人格や政治的立ち位置をことさら強調して、経済問題なのに安易なイデオロギーや好き嫌いの判断に持ち込む人は実際に多い。僕はそれは経済思想に逃げ込んでいるのではなくて、ただ関係ない批判のための批判に逃げ込んでいる人が多いということでしかない。

 竹中氏の経済古典の読解はまずアダム・スミスから始まる。スミスの生きた時代背景ー経済的自由が社会的に認知され、しかし他方で社会秩序自体が揺らいでいる時代ーを簡潔に描き、『国富論』(1776年)に主に焦点を置く。

 そこでは富の源泉が労働であり、この認識は現代の経済学の生産関数の理解につながること、また生産性を向上させる上で分業の役割が強調されていて、この分業には一定の市場規模が必要であることが指摘されている。竹中氏はロングテール理論を紹介して、現代では必ずしも大規模な市場が存在することが分業の必要条件ではなく、デジタル技術の発展で多品種少量販売が可能になっている点も言及している。

 ここで竹中氏のビジョンがスミスのビジョンと重なって以下のように語られていると考えていいだろう。

「また、社会の秩序という解決すべき問題にとって、労働が富の源泉であるという考え方と、分業によって経済が発展するという考え方はきわめて重要な意味をもってくる。分業の進展によって、所得の低い最下層の人々にまで仕事が行き渡り、彼らはそれなりに豊かになっていく。その結果として、社会全体の秩序がある程度保たれるからである」(49-50)

 また社会の秩序は自己の利益追求によって維持されるが、それは競争=市場メカニズムという設定の中で抑制されたものとして現れているのだ、と竹中氏はスミスの貢献を要約している。非常にわかりやすい。

 さて竹中氏によればスミスは人口がサステナブルな経済成長の制約になっていなかったと解釈し、後のイギリス古典派経済学やマルクスらのような悲観的な予測や現状分析と一線を引いている。マルサスリカードそしてマルクスについての竹中氏の説明はやや足早である。ただ竹中氏のマルクスへの評価などいままで聞いたことがないだけに面白いものではある。

 マルクスの利潤低下傾向法則、産業予備軍、恐慌、資本主義の崩壊などを整理している。ただマルクスの利潤低下傾向法則がなぜ成立しないか。ここに竹中氏はマルクスの予言が妥当しなかった点を求めているが、その批判点はふたつ。ひとつは資本(産業)の高度化によって労働集約的な産業(=都市の産業)の方に資本集約的な産業(=農村の産業)よりもより傾斜したからだという。またもうひとつは、賃金が生存費に押さえつけられることなく、豊かなプロレタリアートになったからだ、というものである。この竹中氏のマルクス批判は正直理解ができない。前者は意味そのものがわからないので保留だが、後者は労働者の賃金が生存水準ではなく資本主義の発展とともに上昇していけば、マルクスの利潤低下傾向法則の枠内であればおそらく利潤は低下するような技術を資本家は選択するだろう。つまりそこだけみればマルクスのいっていることは竹中氏の批判に反して成立してしまうのではないか。

 竹中氏はローレンス・サマーズとの会話で、「今の経済学者はみんなモデレート・ケインジアンである」といわれたそうである。モデレート・ケインジアンとは、市場を中心に思考しつつも、市場(政府)の失敗には介入すべきである、という考え方である。

 さてケインズの理解は典型的な公共投資をメインにした総需要管理政策の理解を中心としている。そして戦前の経験から、日本がただひひとつケインズ政策を活用した国であるという評価を紹介している。また多くの国がケインズ政策を採用しなかったのは、開放経済ではケインズ政策が効果がなかったからだという。これらは前者については誤りであり、後者については大胆に単純化されすぎている。なぜなら世界恐慌の際の多くの国は金本位制からの離脱とそして財政金融政策の積極的な援用で離脱しているからで日本が例外でもないし、また竹中氏のいうような財政政策中心でも特にない。後者についてはマンデルフレミングの枠組みで、小国経済であり変動為替相場を採用するなどの条件であれば竹中氏のいうのは正しいが、開放経済そのものが財政政策の効果を失わせ、金融政策の効果をもたらし、したがって竹中氏のように日本だけがケインズ政策を利用したという評価にまでつながることはこれも大胆か単に間違いである。

 シュムペーターについては、彼は資本主義の動態メカニズムを記述することに目的があったとし、その動態メカニズムの中核はイノベーションであり、担い手は企業家であるとする。企業家による「創造的破壊」を、最近流行している高校野球の女子マネージャーによるドラッカー本などを利用しながら巧みに描いているのはさすがである。ここでイノベーションの担い手である企業家を育てるには銀行(家)が重要なリスクの担い手として必要だという。竹中氏らしい引用をここでしていて、日本の高度経済成長のときの理想的な銀行家の姿を池田成彬に求め、反していまの時代にはそのような企業家を育てる銀行の不在を批判している。

 なお「不況なくして経済発展なし」というシュムペーターの考えもそれを「一面では正しい」として紹介し、特に政府によるゾンビ企業の延命を問題視している。この点でも安易なゾンビ企業論でありここでの岩田規久男先生の批判などを勘案してほしいと読者にお願いする(参照:http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100209#p1)。

 竹中氏は本書の冒頭でシュムペーターの資本主義はその成功をもって崩壊する、という命題(実はこの命題は別にシュムペーターの専売特許ではなく当時のドイツの経済学者の多くが共有していたビジョンであり日本人にもいたのだが……田中注)は妥当しないといいながらも、シュムペーターのこの命題から導き出される「トラスト化資本主義」「知識人による資本主義への敵対化」「別種の経済人の登場」などには、自身の体験も踏まえて肯定的である。また崩壊命題自体にも、日本のいまの姿を重ねてそれの成立をにおわせている。ここでの竹中氏のビジョンは悲観的ですらあるだろう。

 最終章はハイエクフリードマン、ブキャナンらが登場する。しかしシュムペーターの章ほどの竹中氏の解釈の面白さはない。この章ではハイエクのところで書かれているのだが、「市場は失敗することがありうるが、政府も失敗する。市場の失敗は、たかだか不景気やインフレをもたらすだけだが、政府の失敗(すなわち社会主義全体主義)ははるかに大きな犠牲を強いることになる」。これはハイエクだけではなく、()の中をのぞけば、ブキャナンにもフリードマンにも共通していることだろう。フリードマン大恐慌Fedの失敗であるとする説を説明するところで竹中氏も次のように書いている。

「しかし、中央銀行は見事なほど失敗する。日本銀行も失敗し続けている。バブルが起こったのは明らかに日銀の責任である。バブル崩壊が極端な形で起きて、あれだけ長引いたのも、日銀の責任だった。近年では、せっかく行った量的緩和を短期間で終結させてしまった(2006年)ために、上昇しかかつていた経済は再び失速してしまった。その結果、日本は十数年間デフレが続いている。このため最近になって(2010年)、再び量的緩和政策を採らざるをえなくなった」

 竹中氏は今日の経済政策を考える上で、フリードマンの主張するように、金融政策の重要性と金融政策上の政府(つまり日本では日本銀行)の失敗を追及する意義と強調していて、これは私も賛成する見解だ。なぜこんな当たり前なことが日本では通用しないのか? 経済の古典を読めば読むほどに、日本の現在の停滞にも多くの具体的な処方箋が用意されていることにきがつくだろう。別に堂々たる古典でなくてもいい。そのような知の教訓がなぜいかされないのか、おそらく著者も同じ思いを抱いているのかもしれない。

経済古典は役に立つ (光文社新書)

経済古典は役に立つ (光文社新書)