メビウスと日本のマンガ

 『ユリイカ』のメビウス特集号に寄稿したものの短縮版。実際に掲載されたのはこの1.5倍の分量。いまはもっと書ける。たぶんこの数倍 笑。校正もしてないし(誤記の指摘などは遠慮してください)、注釈もいまは面倒なので下にぶらさげただけでリンクしてない。もっと詳細で深く考察してて、そこそこ校訂したのを読みたい人は『ユリイカ』を読みましょう


メビウス、日本マンガへの衝撃(未定稿)

 メビウスの日本における本格的な紹介は1979年に始まった。このときから現在まで、多くのマンガ家たちがメビウスの表現力に影響された。大友克洋谷口ジロー浦沢直樹藤原カムイとり・みき寺田克也小池桂一宮崎駿松本大洋湊谷夢吉たむらしげるらの名前をあげることができる。当時のSFブームとも重なることで、日本のマンガは一挙に世界水準の表現力を手に入れていった。ここでは、メビウスが日本のマンガ家たちに与えた影響をいくつかの側面からみていく。
 日本におけるメビウスの受容は、谷口ジローに始まる。1974年ごろ、谷口はグラフィックデザイナー志望の友人から『GRAPHIS=159』を借りて、そこに掲載されていたジャン・ジローメビウス)の西部劇『ブルーベリー』の一枚の絵に「強烈なインパクト」を受けた。この『GRAPHIS=159』は、フランスの批評家クロード・モリテルニによって編集された各国のマンガの概要や歴史、テクニックなどを解説した特集雑誌であった。掲載されていたのはたった1ページで、それはブルーベリーたちが断崖の下で崩落してくる岩石から身を隠したり、水面に顔を近づけて喉をうるおすシーンである。谷口はさっそく『ブルーベリー』を手に入れ、デッサンの見本として積極的に活用した。1977年の冬には、ある雑誌の編集者から「L'HOMME EST IL BON?」(人間っておぃしぃ?)を譲ってもらい、メビウスの作品を初めて体験することになる 。谷口は、メビウス/ジローを初めとして、多くのBD作家(フランソワ・シュイッテン、ポール・ジロン、エンキ・ビラルパラシオス、ミッシェル・クレスピンら)から深い影響をうけた。メビウスの「Long Tommorrow」や「Arzack」から刺激をうけた『ハウンティング・ドッグ』(82年、後に『可愛い死神』85年と改題)、そして『東京幻視行』(1984年)、『事務屋稼業』(1980-1年)などは、これらBD作家たちからインスピレーションを受けた代表的な作品である。ある意味で、谷口はBDの日本における申し子であったともいえる。そして最も影響の強かった「父」が、メビウス/ジローだった。
藤原カムイは、谷口ジローにやや遅れたものの、メビウスの日本における受容を示す最初期のケースであった。藤原は、桑沢デザイン研究所に入所してまもないころ、渋谷西武の洋書売り場店頭で『ARZACK』の単行本を立ち読みした 。藤原はそのイメージをもとに作品「趨向」を描いた。「趨向」は、1977年冬に構想が始まり、78年10月には完成していた 。「趨向」は、記憶を喪失した若い男が巨大な翼竜とともに、崩れかけようとしているコンクリートの壁の上に立ちすくんでいるところから始まる。メビウスの『ARZACK』からインスピレーションを得ていることは疑いがない。と同時に、この作品からは、藤原のストーリーマンガを創作する能力の萌芽を確認することができる。
ティム・リーマンが適確に指摘しているように、谷口ジローメビウスやBD作家たちの影響を払拭し、独自のマンガ世界を表現のレベルでも物語のレベルでも実現していく 。例えば細かい線の書き込みは次第に洗練されていき、画質は「黒」から「白」へ。物語の題材も、アウトローもの、ノワール調な探偵もの、あるいはSF的な創作が次第に減少していき、私小説的なものを仮構世界の中で実現するというユニークな作風を確立していく。そのエポックメーキングになるのが、87年から連載の始まる『「坊ちゃん」の時代』、そしてフランスでも訳された『歩くひと』(1990年)であろう。後者はメビウスの影響から離れながら、しかもメビウスと不思議な縁で結びつくことになった。
『歩くひと』のフランス語版の出版は、メビウスと谷口との共作である『イカル』の連載を『週刊モーニング』誌上で実現するきっかけになった 。メビウスの回想によると、講談社から日本のマンガ家との共作を打診された際に、複数の候補を提示されたという。メビウスが選んだのは、かねて好印象を抱いていた『歩くひと』の作家谷口であった。まったくの偶然とはいえ、まさに運命的な事件だろう。
谷口にとって『イカル』は、未完に終わった『地球氷解事紀』(1988、1992年)以来になる本格的なSFであった。主人公の青年は、アルザックのように翼竜に頼ることなく、自由に飛翔する能力をもっている。メビウスの作品の特徴としていわれることの多い、空間の開放性、そして浮遊感そのものがストーリーマンガのプロットの中核になり、キャラクターの特性として組み込まれていた。全部で六部になるはずであったが、残念ながら現時点で未完のままである。
谷口は自らを最もBD作家の影響を受けたマンガ家であると評している。その自己評価は正しいだろう。また谷口の作品がアングレーム国際漫画賞を受賞するなどフランスやヨーロッパ諸国で高い評価を得ていることも、谷口を日本の伝統だけにたつマンガ家ではなく、フランスやベルギーなどBDの伝統をも承継することを表しているともいえる。さらに連載中である『シートン』(2005年−)の連作は、『ブルーベリー』への再挑戦ともいえるだろう。もちろん若き頃の谷口とは異なり、堂々たるメビウス/ジローへの対峙である。その意味で、谷口は(藤原とともに)、「メビウスの息子」としてマンガ家の経歴を初め、いまやメビウスとは異なる世界を構築した国際的にも有数の作家となった。

 1970年代末、SFブームを反映した雑誌がいくつも誕生した。その中でメビウスを日本の積極的に紹介していた雑誌が『スターログ』である。『スターログ』は、アメリカのSTARLOG(宇宙船の航海日誌の意味)の日本版として1978年の7月1日に8月号をもって発刊されたツルモトルームの雑誌である。その日本版の紙面の特徴は、SF映画・SFテレビドラマに関するサブカルチャー系の雑誌であり、和物よりもアメリカやヨーロッパ(フランスが中心)の作品を中心に企画がたてられていた。同時に日本人のマンガ家たち、小説家、映画監督やさまざまな分野のアーチストが紙面を飾っていた。また毎号、欧米のコミックの最新情報を、日本の読者向けに初歩的な知識とともに提供し続けたこともこの雑誌のユニークな特徴となっていた。アスカ蘭、LEO(黒丸尚)らが、積極的にフランス、スペインなどのヨーロッパのコミック事情を詳細にレポートした。そして海外コミック情報で最も重視されたのが、メビウスの作品紹介であった。『スターログ』でのメビウスデビューは1979年3月号からであり、メビウスの『バラッド』(白川星紀訳)が掲載されている。
ところで同じ月に発売されている『S-Fマガジン』(1979年3月号)でもメビウスが堂々の登場を飾っていた。同誌の巻頭で連載されていた野田昌宏「私をSFに狂わせた画描きたち」が、米国の『Heavy Metal』誌を紹介する中で、メビウスの「ARZACK」の連作、「バラッド」、「Long Tommorrow」を何枚もの画つきで詳細に紹介した。野田は、「そのいやッたらしいタッチといい、陰うつな雰囲気といい、もうこれは本物である」、「非常に上質の短編小説」、「この場末の汚れ具合がまたいいんだ」とメビウスを激賞している。
日本へのメビウスの本格的な紹介は、この『スターログ』と『S-Fマガジン』両誌が発刊された79年の3月に始まるといっていいだろう。実際に、この両誌の特集を読んでメビウスから影響をうけたマンガ家・アーチストは多い。浦沢直樹とり・みき寺田克也、吉井宏らはいずれかあるいは両方の雑誌でメビウス体験を経ている。
スターログ』はこれ以降もメビウスの日本への紹介で重要な役割を果たした。作品紹介は、「バラッド」の他に「落ちる」(1983年2月号)、ポートフォリオの掲載(1984年2月号もあった。1981年4月号では、メビウスへの日本人による最初のインタビューが掲載されている。メビウスは当時、ディズニーの『トロン』の制作に携わっている最中であり、また同時にルネ・ラルー監督による『時の支配者』にも関わっていた 。
 さてメビウスの日本マンガへの受容で注目すべきは、『スターログ』を通じた人的な交流であろう。『スターログ』は82年から国際SFアート大賞を設け、そこにメビウスを海外審査委員として参加させた。特に第1回国際SFアート大賞展では、同年7月終わりから8月初めにかけて、メビウスが初来日を果たし、ファンの熱狂的な歓迎を受けた。この82年が日本でのメビウスの一般的な受容のひとつのピークであったろう。
 しかし残念ながら、当時のメビウスの評価は、一部のマニアやマンガ家たちのレベルで留まったといわざるをえない。代表作の『アンカル』も80年代に翻訳されたが全6巻中1巻のみで未完に終わった 。また『スターログ』では84年あたりを契機にしてメビウスの話題は出てこなくなった。80年代後半から今日までいくつもの雑誌でメビウスの発言や簡単な特集が組まれたが、70年代終わりから82年までの『スターログ』ほど意欲的にメビウスの作品、そして人的な交流まで企図した意欲的な媒体はない(例外は『モーニング』(講談社)での『イカル』の企画だろう) 。
この原因はなんだろうか? ひとつには、日本のマンガやビジュアル系の作家たちが「国際化」を積極的に意識していたことが背景にあるだろう。それは裏返していえば、日本のマンガの「後進性」を表現しているともいえた。例えば山口昌男小野耕世らは80年代真ん中で、日本のマンガの国際化への適応が難しいことを真剣に議論していたのである 。このような日本のマンガに対する意識の中で、メビウスは日本のマンガが国際化していくためのひとつの目印(方向)として80年代初めまでは機能していたのではないだろうか?
 ところでこの『スターログ』はまた若い世代のマンガ家たちにも活躍の場を与えていた。その代表が「日本のメビウス」と形容された大友克洋である 。

 日本におけるメビウスの影響は、ことマンガに関するかぎり、大友克洋への影響を通して語られることが多かった。だがこのことがメビウスの日本マンガへの影響を測りがたいものにしていることも事実である。なぜならほぼ79年から90年代初めにかけて、米澤嘉博が「大友以前 大友以後」と評したほど、大友の作品が当時の若い作家や読者に対して与えた影響は凄まじいものがあった。藤原カムイ今敏高寺彰彦守村大、理尾洋、田中雅人福山庸治吉田秋生望月峯太郎すぎむらしんいち古谷実松本大洋荒木飛呂彦ら、大友から影響をうけたビックネームを多数あげることができる。そしてメビウスの日本での受容史を考えるときに難しい問題は、大友自身がメビウスから影響を受けていることに加えて、大友から影響を受けている作家がほぼ同時期に、メビウスの影響をも受けている点にある。
例えば、浦沢直樹は、明治大学メビウスシンポジウムで、大友の「Fire-Ball」(1979年1月)から受けた衝撃を語るとともに、同時期の『スターログ』を通じて知ったメビウス作品にも「おれが書いた絵だ」と評するほどの深いつながりを感じていた。また寺田克也の次の発言などはメビウスと大友からの影響が混然一体になっていたことを示してもいる。
 「そうして(中学)3年になったときに買った『SFマガジン』で、今外国で面白いマンガがあると、野田昌宏さんが紹介しててですね。そこにメビウスが載ってたんですよ。3×4センチくらいのちっちゃい絵だったんですけれど、メチャメチャショックでね。「なんだこれ!」って思ってね。見たことない線なんですよ。で、それをB5くらいに拡大して模写したり。そうこうするうちに『スターログ』ですから、はまらないほうがおかしいんですよ。マンガはマンガで大友克洋さんのマンガ読んで頭打っちゃってね。「なにこれ!」みたいなね、それは「宇宙パトロール隊シゲマ」だったんですけどね」 。
 実際には、大友がメビウスからの影響を明瞭に受けるのは、79年後半以降の創作([
Flower」、「DON QUIJOTE」)においてである 。したがって浦沢や寺田の言及した「Fire-Ball」(1979年1月)や「宇宙パトロール隊シゲマ」(1977年2月)は、メビウス体験以前の創作だった可能性が大きい。例えば「Fire-Ball」の「「ウォーミングアップ」と大友自身が語っている「信長戦記」(78年12月)には、メビウス調のタッチを見つけることは難しいだろう。しかしそれでも大友の作品はメビウスと共通する何かを当初から持っていた。板橋しゅうほうの以下の発言は、この大友とメビウスの共通性を指摘した最初期のものである。
「フランスのメビウスなどの画面がいいなと思ってたら、大友克洋氏はわりと同じような画面構成使うのね。何ていうのかな……日本のマンガって空白の中に人物描いて、空間は人のまわりにはなくて、人の中とか体の中にしか空間がないんだけど、メビウスとか大友氏は輪隔(ママ)を描いた時、空間がその外側にある。日本のマンガ家と逆なの。あれは非常に天性のものだと思う。それに画面の中の大きさが違うのね。スゴイと思った」 。
大友がメビウスの作品を知った経緯は、『彼女の思いで…』のあとがきにあるように「Flower」
が描かれる直前に黒丸尚を通じてであったという 。また同時期の「DON QUIJOTE」が、『スターログ』の別冊3号に掲載されたときも、メビウスからの影響があることを編集者が紹介している。しかし問題はこの「影響」の内実である。板橋しゅうほうが適確に指摘したように、大友とメビウスはもともと「同じような画面構成」、似たような線の持ち主だった。そのことは当の大友自身が一番はっきりと自覚していた。大友を初めて特集した雑誌『ぱふ』(1979年7月号)のインタビューの中で、「近ごろやっとみたんですけどね、あ、似ているなという感じしたし、自分の好きな線だな、っていうか、フランスのメビウスって人。この人がひじょうに好きですね」と大友は語っている 。
 谷口ジロー藤原カムイメビウスの影響下から創作修行を開始したのとは異なり、すでに大友は独自のスタイルを身につけようとしていた。それがメビウス体験によって一層洗練されたということではないか。他方でメビウスもまた大友の作品から影響をうけているとも発言していることは興味深い。

 最後に手塚治虫メビウスの関係に触れなければいけない 。メビウスの受容のあり方に一貫してシニカルともいえる態度をとったのが、手塚治虫である。1982年1月に手塚はアングレーム国際マンガ祭でメビウスと出会っている。手塚は当初からメビウスと大友を比較していた 。特に最晩年に属するエッセイでは、80年代初めのメビウスタッチブームに触れ、その中で埋没していた大友の不幸を指摘するとともに、ジョージ・ルーカスのスタジオを見学した際に、『AKIRA』が「見事に国際的な若い絵描き仲間の心を捕えてしまった」事実を記している 。手塚は冒頭でも書いたが、日本のマンガの国際化を終始意識した人物であった。だが、この大友の「国際化」は手放しの評価では終わっていないのだ。このメビウスタッチと類似した大友の「カミソリのようなタッチ」が、これから10年、20年続くことができるのか、と手塚は挑発ともとれる発言をしている。それはメビウスの衝撃によって生じた「大友以後」のマンガに突きつけた手塚のいまも生命を保つ不穏な予言である。

(本稿作成で、伊藤浩二、竹熊健太郎、原正人、小田切博各氏から執筆上欠かせない情報や資料提供をいただいた。記して感謝したい)。

注)

1 谷口ジロー「あとがき」『可愛い死神』(廣済堂、1985年)、248頁。
2 藤原カムイ インタビュー」『季刊コミックアゲイン』(1984年8月夏号)、71頁。以下の藤原カムイの記述については、竹熊健太郎氏の情報に大きく依存する。
藤原は「趨向」を『コスモコミック』(サンボウジャーナル)に投稿しようとした。残念ながら未掲載に終わったが、79年夏に同人雑誌『ANG ANG』に掲載した(藤原カムイ遊人PIA』(壱番館書房、1985年))。
3ティム・リーマン『マンガマスターー12人の日本のマンガ職人たちー』(美術出版社、2005年)、198頁。
4 『歩くひと』のフランス語版は、L'homme qui marche(casterman、1995)。メビウスの谷口との出会いの経緯は、プラネットBDでのインタビュー(2008年) http://www.planetebd.com/BD/interview-101.htmlに詳しい。『イカル』は最初、『モーニング』に1997年に連載され、後に(2000年)美術出版社から単行本として発行された。美術出版社は、雑誌『zero』で『イカル』の再開を目指したが実現はしていない。
5『トロン』は82年10月号で、メビウスへのインタビューを加えて『時の支配者』が82年7月号で、それぞれ特集が組まれている。なお『時の支配者』については『時の支配者―メイキングブック&アニメコミック』(横山研二訳、講談社、1986年)が出版されている。
6『謎の生命体アンカル』(横山研二、カトリーヌ・ジュクレール訳、講談社、1986年)。
メビウスの簡単な特集や紹介は、『デザインの現場』(美術出版社、1992年12月号)、『LITTLE BOY』(ふゆーじょんぷろだくと、1988年4月号)、『STUDIO VOICE』(インファス、1990年11月号)、『ユーロマンガ』第二号(飛鳥新社、2009年3月)などで行われた。また『フランス・コミック・アート展2003』(I.D.F、2003年)でのメビウス作品解説なども有益なソースであった。
山口昌男小野耕世・斎藤慎爾「漫画の国際化は可能か」(山口昌男のらくろはわれらの同時代人』(立風書房、1990年)所収)。
9『SF宝石』(1979年10月号)見出し。
10『コミッカーズ★インタビューズ』(美術出版社、2001年)、100頁。
11「FLOWER」は初出が『SF宝石』(1979年10月号)で『彼女の思いで…』(講談社、1990年)に収録。「DON QUIJHOTE」は初出が『スターログ』別冊三号(79年10月号)で、『ヘンゼルとグレーテル』(CBSソニー出版、1981年)に収録。なお『ヘンゼルとグレーテル』は典型的なフランスのBDの単行本スタイル(アルバム形式)を採用している。
12『少年/少女SFマンガ競作大全集』(東京三世社、1980年4月、202頁)収録のコラム。
13黒丸尚(Leo)の書いたものなのか、本人を直接通じてなのか現時点では不明である。本年5月の京都精華大学でのシンポジウムでの大友自身の発言でも不明確であった。ただ黒丸は『バラエティ』(角川書店、79年1月号)に掲載された大友克洋が行った最初のインタビュー記事の冒頭で、「ヘンゼルとグレーテル」の衝撃を書いていて、このときに両者の接点が存在している。
14インタビューは79年5月20日に収録。先の『バラエティ』誌が前年の終わりにインタビューが収録され、そこで黒丸尚との接点があったこととも矛盾しない発言である。しかもこの『ぱふ』のインタビューの段階では、大友はすでに『Arzack』連作が掲載されている『Heavy Metal』を所持していた。
15宮崎駿についても当然触れるべきだが紙数が尽きた。宮崎駿は1980年ごろにメビウスの作品に感銘し、のちにメビウスと共に展覧会を開催することにもなる(於:2004年11月から2005年3月までフランス造幣局博物館)。その展覧会で、宮崎は『Arzack』から翼竜に乗った戦士アルザックを、メビウスは『風の谷のナウシカ』のヒナウシカを借りてそれぞれイラストを描いている。また大塚康生『リトル・ニモの野望』(徳間書店、2004年)も参照。
16手塚治虫メビウスについて」(『スターログ』1982年7月号)。
17「大友克洋のカミソリ感覚」(『ユリイカ臨時増刊号 総特集 大友克洋青土社1984年8月号)。手塚の大友へ手厳しい評価は最晩年に行われた石ノ森章太郎との対談にも散見できる(『手塚治虫対談集3』講談社、1997年、所収)。