吉本隆明『全マンガ論』

 たまにはマンガの話題。かなり前に購入して積読状態だったものを読みました。しかしこれは作品論を扱った冒頭部分や、対談のところはまだいいとして、原理論と称された部分を、読者はさくさく理解できるのでしょうか? 僕はさくさく理解しないですっ飛ばして眺めましたが笑。この評論集をなぜ読んだかというとメビウス論の包括的なやつを準備してて、その関連で大友克洋論として吉本の論を参考にしようと思ったのです。吉本の大友論は、視野的には面白い関連が書かれていて、大友の作品中の「執着点」が、つげ義春と共通しているといったり、またここは僕も同意するのですが『AKIRA』のまとまりのなさを指摘したりと読ませる部分もあります。

 しかし例えば次のような吉本の主張は、わかる人には理解できるのでしょうが、僕には彼が何をいっているのかわかったようでわからず(笑

つげ義春からはじまって岡田史子大友克洋のコミックス画像に象徴されるような、画像の様式化と言語の位相を平準化する方法は、ラジカルな自己主張をいちばん強力に集約できる方法におもえる。だがいつも新しい様式の補給を必要としている。そうでないと画像が言語の<意味>の重さにおしつぶされてしまいそうだからだ」

 大友のマンガが<言語>の重みと絶え間ない表現様式とのある種の格闘である、という感じなのだろうか。むしろ言語の<意味>の重みよりも大友がメビウスに似ているといわれているのは、その表現様式の洗練性と、言語の<意味>の消去とでもいえる事態に思える。

 まあ、それを格闘した結果、画像の様式化と言語位相の平準化が極限にまでいき、表現もすっきりした線で描かれ、ついでに言語も表層的には失われた軽くなった、とみてもいいのかもしれないけど。というか吉本にひかれて自分で何を書いているのかだんだんわからなくなってきた 笑 吉本からするとそういう「平準化」に至る背後の大友らの無意識への注目こそ重要なのだろうか。

 というわけでほとんど30分で読破

吉本隆明 全マンガ論―表現としてのマンガ・アニメ

吉本隆明 全マンガ論―表現としてのマンガ・アニメ