宮崎駿とメビウス

 この間の研究会のレジュメのひとつ

宮崎駿メビウス
デフレカルチャー研究会 2010年12月11日 大東文化大学

宮崎駿メビウスの関係
1 宮崎駿メビウスの「Arzach」を読んで影響を受けたと発言
2 メビウスもまた80年代後半以降、宮崎のアニメに影響を受けたと発言。また宮崎のアニメ(「紅の豚」など)についての寄稿にも応じている。
3 宮崎とメビウスは共同で展覧会も開催
4 メビウスの娘の名前は「ナウシカ

宮崎駿メビウスにとっての「飛行」
風の谷のナウシカ』でのナウシカメーヴェでの飛行
 宮崎発言:メビウスの「Arzack」の影響
 メーヴェとドイツのロケット戦闘機メッサーシュミットMe163B(愛称ベルタ)との類似(野口悠紀雄の指摘)
「このロケット機は、離陸時にオレンジ色の炎を吐いて凄まじいい加速性能を示したという。メーヴェも、離陸発進時は、(たぶんロケット噴射によって)同様の加速をする」
「ベルタ」乗りの女性飛行士ハンナ・ライチェとナウシカのイメージの重なり

メーヴェの離陸時の凄まじい噴出、そのあとの浮力を利用した滑空はシャープな切れとして映像化ないしマンガ化。

BDの「Arzack」。翼竜による滑空。無音(メーヴェは「シュー」など)のマンガ。羽ばたくこともせず、一部の例外を除いて翼はほぼ水平。

アニメの「アルザック・ラプソディ」。翼竜による滑空は、その離陸時も含めてはばたくことをせず、あたかも折り紙の鶴(翼竜)がふわふわと気球のように空に舞う。シャープな切れとはま逆。空に舞う枯葉のごとき様。

メビウス:「飛行」の相対化? 「飛行」というリアルさの放棄

宮崎駿のリアル
「ありったけのリアリティー」のパラドクス:リアルを追求すればするほど、共感を得たいと思う観客はそのリアルから遠ざかる(おそらく感動はしつつも)

押井守の指摘
「<漫画映画>とは実はその方法的限界の故に<映画>に成熟できぬ過渡的な形態を指すのだと思います。そしてそれは個人の思い入れ(思い入れにルビ…引用者注)のみによって貫かれた世界であるが故に、共感やその場の感動を呼ぶことはあり得ても、最終的に何ごとかを語り得る(語りかける)ことへは到らぬものだと言わざるをえません」(『風の谷のナウシカ 絵コンテ2』)。
宮崎のアニメの表現そのものが、「何ごとかを語り得る(語りかける)こと」を目的とすることで、表現世界を改変することの危険(『未来少年コナン』のケース)。

アーキテクチャーとしての宮崎の作品世界
物語の次元では、マンガ『風の谷のナウシカ』では予測可能な計画を否定。アニメの『耳をすませば』も予測可能な計画を否定するというメッセージは同じ。
メタレベル(キャラクターの設定、キャラクターの位置する空間的配置、キャラクター間の関係性など)では、宮崎の作品が描くリアルは、一種のアーキテクチャーとして、観客を「規制」する。

アメリカの憲法学者ローレンス・レッシングの著作『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』(翔泳社)での議論を借りて、現代のわれわれの行動を規制する四つの仕組みに注意を促している。その四つとは、法、市場、社会規範、そしてアーキテクチャーである。

 ここでいうアーキテクチャーとは、レッシングによれば「社会生活の「物理的につくられた環境」」を意味する。具体的な例としては、ポルノや過剰な暴力サイトをみせないように工夫されたプログラム、またがホームレスの人たちが集住できないように敷設された地下通路のオブジェなどをあげることができる。監視カメラでの危険人物の事前排除。

 『耳をすませば』における選択アーキテクチャーの存在 →「ありったけのリアリティー」をバネにした宮崎の考える「リアル」への誘導

 マクドナルドの椅子(選択アーキテクチャーの一種)⇔違和感を抱きながら店に居座り続けるor初めからいかないorアーキテクチャーの狙い通りに短時間で出て行く

メビウスのリアル
メビウスの宮崎評

宮崎を現実を離れた夢の王国の扉を開くものとしてみなす。ディズニー的なものへのアンチとしての宮崎の試み。
「宮崎監督は、アニメーションという新たな芸術世界を高貴なものにした。ディズニーと異なり、彼は親達のためではなく子供達のために創作する。世界中どこででも、子供達は対等の立場で宮崎監督の世界と親しむことができるのだ…(略)しかし彼の本当の目的は我々の心に夢の王国の聖なる火を灯すことなのである」(メビウス宮崎駿作品へのメッセージ『映画紅の豚GUIDE BOOK』徳間書店、1992年、12頁)

メビウスのディズニーへの複雑な立場 → Inside Mobiusを参照

宮崎自身のアニメは、モラルが優先する選択アーキテクチャー。メビウスの指摘するように、「子供達」すべてに開かれているのではない。→ネットのオタクたちの発言(『耳をすませば』)

メビウスの理解する宮崎アニメの特質(子供に開かれた夢の王国)と宮崎アニメの特質(モラル的志向の強い選択アーキテクチャー)とのずれ。

メビウスのとってのリアル(現実)
便宜 現実世界(現実)、リアル、複数リアル
マチュー・スクリーチの指摘:「多様なリアル」の指摘(Mattew Screech“ Jean Giraud / Moebius: Nouveau Realisme and Science Fiction” in The Francophone bande dessinée ,ed by Charles Forsdick et al,Rodopi,2005,pp.97-114)。

短編「白昼夢」 :リアルと夢の区別の溶解
長編『B砂漠の40日間』:「B砂漠」→現実世界を相対化するための戦略拠点。『アルザック・ラプソディ』を含めてのメビウス作品の基本世界。

B砂漠自体もなんら特権的な地位はなく、多様な世界を構成する一世界でしかない(インサイドメビウス)。

『インサイドメビウス』のシリーズ:多様なリアル
作者という特権の相対化(作者の複数性の提示、作者は現在という時点から優越的に作品世界を構成しえないというメッセージ<過去の作者、現在の作者などの同時存在>、男根主義の相対化など)
キャラクターの相対化(キャラクターの性格の相対化、キャラクターと作者の関係性の相対化<キャラクターに論評される作者など>)
コミックという表現世界が現実世界とともに「多様なリアル」を構成する一世界(リアル)であることの提示→ビン・ラディンや作者の作品世界への参入。しかも現実世界そのものではなく、メビウスの複数世界(リアル)では歪んで登場
例 女性化するビン・ラディン
  男根化するお茶の水博士風鼻のメビウス
  奇矯なミッキーマウス

メビウスの戦略……複数のリアルを表現することで、マンガというアーキテクチャーそのものを解体していく試みではないか
 歪んだミッキーマウスアヌビス神古代エジプトの死者の神)に食われるメビウス→マンガとは死せるものの世界ともいえる?  生(現実世界)と死(マンガ世界=複数リアル)の境界の破断。読者自体の消尽の示唆など