ポール・クルーグマン『世界大不況からの脱出』

 本書は世界が「恐慌型経済」−利用可能な生産力に見合うだけの個人消費など需要が不足している経済のことーに陥った、という前提のもと、緊急の政策的対応を提示することを目的にしている。本書は1999年に旧版がでていたものに大幅に加筆し、まさに90年代の経済危機、恐慌の事例を総ざらえした上で、今日の世界同時不況を検討する内容になっている。


 本書における主要な観点は主に二つである。一つは、景気がなぜ落ち込むか、時には今日のようにひどい不況や恐慌に陥るかを、非常に簡単なベビーシッター協同組合モデルというもので説明していること(ここを参照)。そしてこれを補助するものとして、なぜ経済は異常な過熱(つまりバブル)とその後の崩壊(信用市場の破綻=信用フローの停滞)に直面するのかという点を「モラルハザード」で説明している*1


 その上で、特に本書で注目すべき事例は、私にとってはふたつである。ひとつは日本経済、もうひとつはクルーグマンがいまのアメリカ経済とその政策についてどのような評価をしているかである。


 それを簡単にいうと、日本はデフレとデフレ期待が固着し、なおかつ金利がゼロに落込み金融政策が通常の手段では有効ではない「流動性の罠」に落ち込んでいたこと。そして00年代になって輸出の貢献で一時的に経済は安定したが、今日の世界同時不況によっていまだ「流動性の罠」から脱却していないことが明らかなことである。クルーグマンは日本のような「流動性の罠」に陥るケースでは、将来時点での期待インフレの醸成、つまりインフレターゲットインフレ目標、調整インフレ)がいまだ有効であることを示している。と同時に日本では90年代に財政政策が行われたが、その規模はせいぜい深刻な危機を回避したに過ぎず、しかも90年代の財政政策の試みの結果、(人口の高齢化を背景に)財政の健全性に疑問が投げられ、いまや財政政策は限界にきている、というのがクルーグマンの日本の診断である。この点は以前のクルーグマンとまったく変わらない。


 ところで、今日のアメリカ経済については、クルーグマンはまだアメリカは深刻な不況であるが、完全に「流動性の罠」に陥っていないと判断している。その反面で、彼はFRBの政策が「流動性の罠」を回避するのに有効であるか懐疑的になっている。それはバーナンキ議長の「信用緩和」(FRBのバランスシートの規模拡大と構成変化)が不十分だとみる観点に依存しているようだ(また本書執筆時点でのFFレートが1%に過ぎず短期金利を用いた政策も事実上効果がない、とクルーグマンは判定していた)。FRBの信用緩和の規模が約50兆円の信用市場に対して過小であること、さらに過小に加えて信用市場への資金供給が民間の資金の引き出しによって相殺される可能性が大きいこと、がクルーグマンFRBの政策に対する懐疑の根拠である。そのためクルーグマンは財政政策を唱えるのである。


以下、引用しよう。

「読者のなかには、この点に反対する人もいるかもしれない。公共事業による財政刺激策は、日本が1990年代に行ったことではないか、と。事実、そうである。だが、日本における公共事業支出は、弱い経済が本当の恐慌に陥るのを防いだといえる。それに加え、日本よりも迅速に行われれば、公共事業による刺激策がアメリカではより功を奏するだろうと考える理由がある。第一、アメリカはまだ、何年にもわたる非効果的な政策によって日本が陥ったようなデフレ期待の罠にはまってない。日本は銀行に資本注入するのにあまりにも時間がかかりすぎた。アメリカが同じ間違いを犯さないように願いたいものである。要は、景気を回復させるためにはできることはすべてやるという精神で、現在の危機に対応するということだ。もしすでに実行したことが十分でなかったとしたら、信用が拡大し始め、実体経済が回復するまでさらに多くを実行し、また違うことも実施すべきである。そして経済がしっかりとした回復基調に転じたなら、そのときは予防策に目を転じるべきである。危機の再発を防ぐためにシステムを改革するのだ」。


 日本ではクルーグマンインフレ目標の有効性を放棄したという発言を目にする(池尾和人・池田信夫『なぜ世界は不況に陥ったのか』日経BP社)が、それは単に誤りである。日本ではリフレ=インタゲ(しかも厳格なインタゲ)という案山子めがけての攻撃が多いが、クルーグマン他まともな経済学者は、「要は、景気を回復させるためにはできることはすべてやるという精神で、現在の危機に対応するということだ。もしすでに実行したことが十分でなかったとしたら、信用が拡大し始め、実体経済が回復するまでさらに多くを実行し、また違うことも実施すべきである」という立場を支持するであろう。本書の緊急性を帯びたメッセージの核心はこの一文にある。

世界大不況からの脱出-なぜ恐慌型経済は広がったのか

世界大不況からの脱出-なぜ恐慌型経済は広がったのか

*1:今回のエントリーでは省略