クルーグマンの発言解釈学について

 僕はみなさんも御存知のように専門は、日本の経済思想史研究。一般に「経済学史」「経済学説史」「経済思想史」の一分野を専門としているわけです。で、この商売の人は、特定の人物(あるいは集団・組織)の発言の意義を、まあ解釈するのがその研究の多くの中身になります。


 例えば、その研究対象となった人(多くは物故者)の発言が、その人がその発言をした時代とどう関係しているのか(いないのか)、あるいはいまの時代への教訓としてどのようなものを引き出せるか、あるいはもっと狭くその人の発言の矛盾があるのかないのか、などというわけです。


 特にいま最後にあげた、特定の人物の発言に矛盾があるのかないのか、などをめぐってしばしば「アダムスミス問題」(スミスの『国富論』と『道徳感情論』との立場は一貫しているのか否か)など、「なんとかという人の問題」というものが話題になります。


 こういうものは、実際の経済政策ですとか、あるいは時事的な問題へのインプリケーションとしては、ほとんど役に立たない、言葉の正しい意味での懐古的な分野だと思っていましたが、日本でしばしば話題になるのが、その「なんとかという人の問題」のクルーグマン版。つまり「ポール・クルーグマン問題」」じゃないかなと思います*1


 でも、僕はこのエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090120#p1でも書いたけれども、彼の理論的な矛盾は別にないように思えます(koiti yanoさんのブログでも理論的な矛盾はない、ということです)。むしろその発言が矛盾してたり、曖昧になっていると受け取られてもしょうがないのは、彼の政治的なスタンスだとかに影響されてるんじゃないか、と思うんですよね。もちろんその点で、矛盾を追及することも可能かもしれないけれども、クルーグマン流動性の罠モデル固有の矛盾でないかぎり、そんな大きな問題かなあ、とか思うんですよね。


 まあ、クルーグマンのポリティカルな発言の矛盾をついて、それで彼の発言の信頼性を失墜させて、さらに(理論的矛盾はつかないまま)流動性の罠モデルの信頼も失墜させる、という手の込んだ(信頼の負の乗数効果か? 笑)手口をつかう人もいるかもしれませんけどね。


 でもそういう議論に納得する人って、そもそも流動性の罠モデルなんて実はどうでもいいんじゃないかなあ。とりあえず理論を論理的に議論するというよりも、ただ単にネットでのたわいのないプロレスごっこに時間を潰しているだけの知的な堕落。そんな感じじゃないかな。

(付記)その話題の最近のコラムにおけるクルーグマンフリードマン&シュワルツ批判なんだけど、これは一昨年以来の論争の続きで、そこらへんはすでに三年前にhicksianさんがまとめているんだよね。

http://blog.goo.ne.jp/regular_2007/e/411978b0952ff5120d77f7438de38292

もちろんシュワルツはいまや清算主義になり(笑)、クルーグマンも財政至上主義(でもフレームワークはインタゲでの流動性の罠脱出と同じだけど)を究めていくようにみえて、そういったものがすべて含まれる未知の「一般理論」が今後でてくるのまでは否定しないし、否定どころか、これほどの21世紀最大の経済事件で経済学が大きく変化しなかったらそれは嘘でしょう。

(追記その2) あ、最近、mixiの方しかネットはみてなくて、hicksianさんがまさか例の自己欺瞞本にかけて上のエントリーの続きを書いていることにきがつかなかったワイナリー

http://d.hatena.ne.jp/Hicksian/20090305#p1

*1:いま流行のヴァージョンでは、昔は流動性の罠では財政否定し金融政策中心、いまは金融政策に否定的で財政中心で明らかに矛盾する、という風説。もちろんこれは本文にも書いたけど昔からクルーグマン流動性の罠での財政政策も金融政策も有効である可能性を論証していたわけで理論的には無矛盾なんだけど