ロイック・ヴァカン『貧困という監獄ーグローバル化と刑罰国家の到来』

 ネオ・リベラル政策(市場原理主義的な政策)は、辺境に位置する膨大な未熟練労働者を生み出すとともに、他方で刑罰を厳しく適用し(例:ニューヨークの割れ窓政策)、裁判と刑務所を効率的に活用することで、社会の安定を確保しようとするものである。いわば「貧しきは罰せよ」である。


 しかし、このようなネオリベー刑罰国家は、福祉社会を解体し、また経済社会自体も変容させてしまう。この刑罰国家の誕生によって、刑務所はキャパシティ一杯の囚人たちで溢れている。そこで今度は、彼らに刑務所内労働を提供させるという思惑は、刑務所の民営化などの効率化によって行われようとしている。


 だが、ヴァカンは、このような監獄の肥大化、刑罰国家のあり方は、まさに民主的な討議の対象であり、何も自然現象ではないと指摘する。


 ヴァカンの指摘は強烈なネオリベへの批判を中核とするものであり、それは激しくイデオロギー性にみちているように思える。ただ日本でも不況の長期化をうけて刑務所が事実上の「最後のセーフティネット」(本来は生活保護がそうであるべきだが)として事実上機能している、という指摘がなされている。例えば、元議員の山本譲司氏は『累犯障害者』の中で、刑務所が事実上の福祉施設となっている事実を受刑者の過去を辿ることで、日本の福祉行政、司法のあり方や更生教育の欠如などを説得的に論じている。


 ヴァカンは、日本では長期不況の深化として出現している事態が、好不況に関係なくワシントンコンセンサスの流布によって先進国経済に共通する市場化の流れの反面としてとらえているわけである。


 ヴァカンの問題意識は、例えばこのブログでも紹介した、岡本裕一郎の『ポストモダンの思想的根拠』での主張と共鳴しているだろう。

http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20070915#p1からの引用。

「−−現代のポストモダンでは、近代的な「規律社会」は終焉を迎えつつある。いま私たちが立ち会っているのは、人間の「動物的な生」に照準を定めた「生権力」であり、「剥き出しの生」をいかに管理するかである。それは、人々から危険を遠ざけ、安全・安心を保証するのだから、「セキュリティ社会」と呼ぶことができるだろう。この社会は自由の許容度が高く、ファッシズム的な全体主義とは区別されなければならない。人々が自由に生存しつつ、同時にセキュリティが維持される社会、それがポストモダン社会である」(49)。

 この自由管理社会をメンテナンスする原理として、この自由管理社会のルールを前提とする範囲で、著者はこの自由管理社会のメンテナンス(著者はそういわないが)を行うためには多様な意見を合意にもっていく必要があるとする。

 メンテナンスのための合意形成を、岡本氏は民主的統制(リベラルデモクラシー)の観点からどうおこなうべきか、という視座でローティーらの試みを紹介し、さらにラディカルデモクラシーの立場も紹介している。


 もちろん僕はメンテナンスのための合意形成原理としては、経済的統制(希少性への配慮)の観点もわすれるべきでないと思うが、この論点は自分で考えてるところなのでここではまだ書けない。

 この自由管理社会のメンテナンスあるいは、ヴァカンではその自由管理社会へ「否!」をつきつけるか否かの討議は重要であろう。この問題圏を「厚生闘争」として、僕なりに論じたエントリーはこちらの休眠ブログのエントリーに書いてあるので参照いただきたい。

http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi-ver2/20070916/1189876824
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi-ver2/20071013/1192242855
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi-ver2/20070917/1190009275
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi-ver2/20070918/1190119933

貧困という監獄―グローバル化と刑罰国家の到来

貧困という監獄―グローバル化と刑罰国家の到来