筑紫哲也とミルトン・フリードマン

 筑紫哲也氏がお亡くなりになった。ご冥福をお祈りしたい。80年代終りから07年まで彼のNews23はやはり日本の言論界に大きな影響を持っていたろう。筑紫氏の業績は今後さまざまに議論されるだろう。以下は、このブログでただ一回だけ筑紫氏の経済観について論じたものである。

 ミルトン・フリードマンが94歳で死去したニュースは日本でも新聞・テレビなどで大きくとりあげられた。だいたいの論調がレーガンサッチャー政権の採用した「小さな政府」の理論的な支柱を提供したとして、日本でも構造改革の起源として評価されていた。他方で報道番組NEWS23ではキャスターの筑紫哲也氏が、日本の格差社会を招いた元凶としてフリードマンを批判しているのが目をひいた。つまり市場原理主義を採用しているので、経済格差が生じても放置して悪化をもたらしている、というのが筑紫氏の主張であった。

 ところでフリードマンの代表作である『選択の自由』をともに書いた妻のローズは、夫とともに学んだ大恐慌期のシカゴ大学の学風を紹介したことがある(『わが夫 ミルトン・フリードマン』)。当時の経済学者たちはみんな大不況が長びいたのは、金融緩和政策を継続して不健全な企業が生き残っているからだと考えていた。むしろ不況を進行させて金融コストをさげ、弱体で不健全な企業を淘汰してしまう「清算主義」が経済学者の意見の主流だった。それに対して、フリードマン夫妻が在籍していたシカゴ大学では中央銀行が積極的な金融緩和政策をとり、政府が赤字予算を編成するというポリシーミックスを不況対策として喧伝していたという。もちろんフリードマン夫妻もこの見解に賛成なわけである。

 ここには市場原理主義として一般に流布されているイメージとは異なり、長期不況で経済格差が拡大しているような状況では、むしろ積極的な「介入」で経済的損失を防ぐというフリードマンたちの「ケインズ主義」的側面が顕著である。フリードマンはまた日本の「平成大停滞」でも積極的な金融緩和政策の適用をかなり早い段階から提唱していたのもこのような思想的な背景に基づいていた。しかし筑紫氏だけではなく、日本のメディアのほとんどはこのフリードマンの「ケインズ主義」的側面は忘却されているようだ。

 ところで戦前ではシカゴ学派以外はほぼすべての経済学者たちが採用していた「清算主義」であるが、ケインズ主義の浸透やまた中央銀行の役割の重要性への認識から、いまでは欧米の学界ではほぼ死滅に近い状況である。だが日本の経済論壇はやや趣きが異なるようである。日本を代表する経済理論家のひとりである斎藤誠一橋大学教授は、『週刊東洋経済』で「成長重視、空しさばかりの政治算術」という論説を寄稿して、この世界的には廃れてしまった清算主義から日本の経済政策を検証している。

 すなわち低生産性企業を低金利で延命させるのではなく金利をあげて淘汰すべし、低金利環境だと資産価格バブルが発生し、ガラクタ投資が積みあがるというのが齋藤教授の主張でもある。

 実は日本の経済学会の次代を担う世代にはこの齋藤教授と同じ意見をもつ人が少なからずいる。例えば岩本康志東大教授も同じ意見である。デフレの状態で名目金利を引き上げたり、または低生産性企業を高めの金利で淘汰せよ、という清算主義的な研究成果は日本の有力経済学者に多くの支持を集めている。

 もちろん仮にそのような政策が日本銀行によって採用されれば、金利収入が眼にみえて大きな高資産階層に資産効果は顕著であろう。また低生産性企業は淘汰されるだろう、そして低生産企業に属している多くの若年者(彼らはまた低資産階層でもあろう)の失業は増加し、増加しはじめた正規雇用はふたたび減少に転じるだろう、彼らの雇用が増えたり正規雇用が増える保証を求めることは高生産企業には原理的に難しい。つまり本当の格差社会をもたらしかねないであろう。

 長期停滞を防ぐことに必死だったフリードマンの見解が「格差社会」の元凶と批判され、その一方では日本の経済学界では「格差社会」を拡大する政策提言がゾンビのように復活している。 過去のデフレ不況の長期化という「清算」の教訓を得ることのない言説にふれ、空しさは募るばかりである。