雑誌『ニューモデルマガジンX』:飯田泰之「ロスジェネと貧困問題」

 編集長の有賀さんから献本いただく。有賀さんは達筆なので手紙をもらうことが楽しみである。連載陣である山形浩生、フェルディナント・山口さんらは相変わらずユニークであるが、中川昭一を偲ぶ記事、民主党マニフェストは実現可能?そして特集の「ロス・ジェネの大貧困時代がくる」などの力の入ったものを読むと、この雑誌の異相が際立つであろう。

 今回は飯田さんの登場である。特に円高がもたらす圧倒的なデメリット(海外への雇用流出=国内での雇用喪失、中小企業の負担の急増)の半面でのメリットが極端に小さいことを、わかりやすく説明しています。さらに現在の藤井裕久財務大臣が、「ちなみにバブル以降、日本の景気が本格的に冷え込んだ1993年の時も、当時の大蔵大臣が円高に寛容すぎた。そこから失われた15年がスタートするのです。そしてその大蔵大臣こそ、現財務省藤井裕久さん」という、みんなが一番心配している人事面での不安を直撃している。

 実際に今回も藤井大臣のスタンスは普遍であり、日本はこの大臣のもと再び、「失われた15年」を繰り返してしまうのだろうか? そうなったら本当にこの国はとんでもない手遅れになるに違いない。鳩山首相が答弁で「筋肉質の経済をつくる」と堂々と強調しているかぎり、その懸念は非常に大きい。日本銀行は楽観的なシナリオを出している。それが当たるか外れるかなどは僕には興味がない。問題はその予測にこめられた日銀の将来の政策スタンスに関する点である。飯田さんも指摘しているように為替政策は中長期的には金融政策のスタンスで決まる。例えば前回の藤井蔵相時代の93年以降も「回復」のシナリオがあった。しかしその「回復シナリオ」が政府(大蔵省)と日本銀行の決定的なミスジャッジであったこともしばしば指摘されている。

 かの著名はFRBの論文「デフレ防止策について」(一部翻訳は『エコノミスト』8月20日号…これは必読なので各自図書館に依頼してコピー推奨)の分析をおもいださずにおれない。そこには藤井蔵相時代とまた日本銀行が「緩和を継続している」という認識の下で、楽観的なシナリオに陥り、ある意味自業自得で長期停滞に陥った模様が描かれている。以下のこの論文からの抜粋に、いまの状況が重なってしまう。もちろん歴史は繰り返さない。繰り返すのは茶番としてであろう。

「90年には約5%だったのに、92、93年と、ほぼゼロ成長になった。これに加えて、為替相場は90年初めから驚異的な円高に転じ、このために経済活動は低迷し、物価下落にさらに拍車をかけることになった 略 しかし、第Ⅲ章で示したように、不況がこれほど深刻になり、しかも長引くと予想したエコノミストはいなかった。しかも94年半ばに始まった経済成長の一時的な回復が96年いっぱい続いたために、これ以上の景気刺激策は不要さと考えた政策立案者も多かった。略 93年から94年にかけての時期が、金融政策にとって決定的に大切な時期だったかもしれない。この時期を最後に(略)、物価上昇率がゼロを妥当な幅で上回るという常態はなくなってしまい、その結果、政策金利をかなり大幅に引き下げても、短期の実質金利が極めて低い水準になると、マイナスになるという事態が生じなくなってしまうからである」(邦訳87頁)。

 注釈をすれば現時点の日本銀行は市場の大勢(そのうち日銀にあわせて多くが楽観に変更するだろうが 笑)よりも楽観的なシナリオをみていて、それはおそらく来年度後半に遅くとも実行したい金利引き上げの「地均し」であろう。今回はニュースをみると、かっての日銀のリークと同様に、マスコミにかなり具体的な政策内容が伝わっていたように見える(CPの買い取り中止などは前日には報道されていたのではないか)。日銀が市場の「外」でこの種の金利あげの「地均し」をすることは、前回のリーク騒動と同様にこの中銀の「政策変更」時にしばしば観察される「お家芸」である。嘆かわしい。ちなみに引用の後半の「短期の実質金利」とは、短期名目金利から期待インフレ率を引いたもので、前者がゼロだと、後者がデフレ(期待)だと高いプラスになり、短期名目金利の操作ではこれを下げられないということを意味している。中央銀行はこの実質金利を政策運営で意識する必要がある。

 さて引用を続けよう。

「だが、マクロ経済予測の場合同様、企業は、90年代前半には、売上高と収益について過度に楽観的な見通しを持っており、このことは、企業もこの不況の深刻さと永続性を見過ごしていたことを物語るものである」(88頁)

「日銀が90年代の長引く不況をまったく予測しなかったのは明らかで、日銀が、異例に潤沢な通貨供給策を取っているのだという考えを、90年代に何度か表明した。だが、金融政策の道具立ては、とくに当時の経済に立ちはだかるつり合いの取れない大きなリスクと、デフレに伴って金利がゼロの領域に到達する可能性があるというリスクである。それどころか、日銀は、ゼロインフレが一定期間続くと、短期的にはデフレかインフレになる可能性があるという事実にもかかわらず、物価上昇率がゼロを続けるという予測に満足しいるようだった」(88頁)

 この最後の「物価上昇率がゼロを続けるという予測に満足」という一文こそ、日銀のデフレ愛好を当時示すものはなかったろう。今日も(当時も)、「デフレスパイラルではない」といい、不況とデフレを過度に切り離すことで、デフレの進行を事実上放置している。また過去には「良いデフレ」や「デフレ中国説」なども日銀などから発せられた。

 「その意味においては、91年から95年までの間の日銀の政策スタンスが引き締め過ぎだったことは明らかだ。しかも、この時期を過ぎると、政策金利はすでにゼロ近くまで下がってしまつていたから、金利を下げるだけデフレを回避する機会は失われた」(91頁)。

 今回は、すでにゼロ金利近傍であり、それを近々楽観シナリオの下で金利引き上げ(実質金利はさらに上昇)することで、事実上の「清算」(非効率部門の淘汰)を金融政策が主導で採用することに結果なるのではないか? それを「筋肉質」首相と円「円高財務相が支持すれば、束の間の「成長回復」「失業率の目先のささいな回復」が、やがて悪魔のシナリオに変化することも十分考えられる。

 もっと簡単にいえば、93年は意図ぜさる長期停滞だったが、今回は意図した長期停滞が訪れる可能性が大きいのではないか。