スレッド越えならず、m9おしまい

 三号で堂々の完結。なんで2号ではなく3号で終わるのが多いのか。昔、考えたことがあったけれど忘れました(笑)。

 (付記)どうもyahooのトップで紹介されたため猛烈なアクセス増加中。たった10分で2000アクセスぐらいですか。数時間で終わるとは思いますが、とりあえず記念に、小田嶋さんのところを見習って、連載の第二回を以下に。ちなみに、僕はいま経済格差をめぐる話題を書いてて、それは『月刊現代』に掲載予定。なんか休刊の神様に愛されているようですが(縁起でもない 笑)。

 サブカルチャーの経済学第二回

 このままの人口減少のスピードが続くと、1000年後には日本人はこの世からいなくなる計算だという。「死ね死ね団」も無理してレインボーマンと戦いながら日本人を絶滅させるよりも、気長に構えていれば確実に問題は解決(?)していくというわけだ。しかし本当に日本人はいなくなるのか? 例えば外国から移民をたくさんいれればいいじゃないか、あるいはいつか特殊合計生率(生涯に女の人が子どもをもつ割合)も底打ちして回復するんじゃないの? と思われるでしょう。その通り。実際に将来の人口がどうなるかなんて正確にはわからない。そもそも1000年どころか、10年先の日本がどうなっているのか誰も自信を持って断言できるわけではない。

例えば戦前(1945年夏以前の戦争ですよ)では、人口増加の恐怖の方が先行していて、そのためにアジア諸国への進出が正当化されていた。食料の生産よりも人口増加の方が上回るので、やがて生まれても食べるものに事欠く世界になるだろう。これを学者たちは「マルサスの罠」といった。このマルサスの罠を回避するために、世界にうってでよう、と国家をあげての一大キャンペーンが行われたのである。そのときは人口が1億人を超えるところが危ない、と宣伝されていた。それがいかにバカらしい心配だったのかは今日の日本をみれば一目瞭然だろう。

もちろんこのプロバガンダに抵抗した人もいた。人口増加の恐怖が特に強く宣伝された頃の日本は、ライフスタイルがアメリカ化して都会の男女はモダン・ボーイ(モボ)、モダン・ガール(モガ)といわれたものである。よく知られている事実であるが、女性がコスメやファッションに懲りだすと子作りへの関心が低下して、さきほどのマルサスの罠から脱出してしまうのである。日本でも同様に都市部を中心に出生率は低下していったのである。ちなみに当時でもオタク、腐女子がいて、彼らはマルクス・ボーイ、マルクス・ガールといって、やはり子どもをつくるよりも脳内革命行動に忙しかった。

 また日本が大陸進出をする費用と便益を計算すると、海外との交易を盛んにして不足する資源を購入した方がよほどいいよ、とアドバイスした人もいる。しかしこういった冷静な主張は、政府が旗を振ればたいていは無視されてしまうのである。しかし大陸進出の帰結が、戦争による人口の強制的減少だったとすればこれは実に危険なキャンペーンだったことがわかるだろう。

今日の年金破綻の議論の類も実はこの1000年先の日本人滅亡論と同じ前提(出生率の推計など)で議論されているのは意外と知られていない事実である。もっともさすがに1000年先というとまずいので、人間の寿命を理由に100年くらいで話を切っている。しかし100年先も1000年先も脳内世界という点ではほとんど変わらないだろう。この脳内世界を日本だけでなくアジア全域にまで拡大するのが最近のファッションなのだが、そうなるとインドやバングラデシュなどほんの数カ国以外は、ほとんど1000〜2000年先には全滅してしまう。人口大国中国でさえもやがて消滅してしまうのである。これはどんなにもっともらしく装っても基本的にアホらしい議論である。何十年も先の心配をするよりも、とりあえず子どもを育てやすい環境をつくるために補助金や減税対策でも行えばいいのに、大抵は赤字財政を理由に拒否されてしまう。そもそも人口減少が年金や財政赤字を深刻にするといっていたのにそれを防ぐことも赤字だからだめ、というのは何がなんだかさっぱりわからない。

ところで日本では人口減少によって、社会で実際に働く人たち(生産力人口という)の減少を防ぐのか、という議論が政府を中心に白熱している。従来の熟練労働者や高い専門的知識をもった人たちだけではなく、未熟練労働者も大幅に受け入れるべきだ、とする意見が台頭してきている。
 
しかし国民の多くのコンセンサスは移民の受け入れに慎重だ。例えば国際的な通信社ロイターが配信した記事「ロボットが350万人分の仕事を行う日本」では、日本は移民を大量に受け入れるよりも、ロボットの導入によって未熟練労働者の不足(2025年で350万人の穴埋め)を補う方向であるとしている。この記事に対してハーバード大学教授ジョージ・ボージャス教授が、彼のブログで移民とロボットどちらがいまいる国民にとって利益があるのか、と問題を提起している。移民を過度にいれると社会的な摩擦が生じやすいことはいくつもの事例が証明している。

では、ロボットの導入で本当に人口減少(生産力人口の減少)を防げるのだろうか。最先端のサブカル研究では、ひょっとしたらロボットの導入を加速化することが少子化をさらに深刻化させる可能性が明らかにされている。ディビッド・レビィという国際的なコンピューター・チェスの名手が書いた『ロボットとのセックス+ラブ』という本が話題を集めている。これは猛スピードで人類はロボットとのセックス時代を迎えるであろう、という予言と実際のノウハウを収録した本である。日本のサブカル界でも長く、ロボットとの愛やセックスは普遍のテーマとして存在した。コミックをみれば、松本零士の『セクサロイド』、石ノ森章太郎の『セクサドール』など名作が多い。実践をみてもかの南極一号を始めとして、今日のラブドールまでその技術水準は世界最高レベルであろう。最近話題を集めた高月靖『南極一号伝説』(バジリコ)を読めば、そこにでてくるオリエント工業のシリコン製のラブドールの愛くるしさにクラっとこない人は稀だ。もし彼女たちが最先端のロボット工学と連動して大量生産されたとしたらどうなるだろうか。家に帰宅して「お帰りなさいご主人さま」とやられてしまったら、ほぼ間違いなく日本人男性の大半は「むしゅめにミーモする」となって日本人絶滅の加速化は必死である。経済学の法則を適用しても、人間に等しいラブドールの方が生身の女性よりも機会費用が低いためこれを抑止することはできない。もちろん女性だって完全彼氏を購入するかもしれないから日本人絶滅のスピードはさらに早くなる。他方で人口減少のマイナス面を防ぐために、さらに一層のロボット人口の増加を促していくだろう。そうすると1000年後には日本人絶滅は免れているだろう。もっともそのとき日本の大地に立っている「日本人」は、ガンダムラブドールかのいずれかである可能性が大きいのだが。

もうひとつおまけに第三回(最終巻の草稿)も以下に。

 増田といっても「はてな匿名ダイヤリー」のことではない。匿名さんではなくて、ちゃんとした有名エコノミスト増田悦佐のことだ。増田は大胆な経済論で知られていて、私も熱心な読者のひとりである。例えば日本の高度経済成長が終焉したのはなぜか。田中角栄型の都会から地方に公共事業などの形で資源をより配分する“社会主義型革命”が、日本で起きたためである。日本が高度経済成長を再び成し遂げるためには、国土の均等な発展という幻想を壊して、都市部に資源を集中させる“反革命”が必要である、などと彼は書いている。最近では、東京圏の鉄道網を話題にして、これが東京の活性化につながることを熱心に説いている。“反革命”の素材が“テツ”というのも、それもまた増田のかわいい論調として愛されている。

 ところで「かわいい」といえば日本のポップカルチャーの形容詞のひとつだろう。このクールジャパン(死語)をめぐって、増田は二年ほど前に『日本型ヒーローが世界を救う!』(宝島社)というひとによっては快著、別な人には怪著を出版したことがある。論旨は、日本のアニメやマンガはアメリカやヨーロッパに比べて文明的に優れたものである、ということを400頁近くにわたって論証した大作である。

 僕はこの増田本について経済雑誌に好意的な書評を書いた。特に彼が日本のアニメやマンガを振興するために政府がわざわざ音頭をとって産業政策的なものを採用する必要はない(ほっとけば十分であり、官僚がしゃしゃりでてくること自体が税金の無駄)、また日本のマンガ・アニメが世界中にかなりのシェアを占めているのは、規制の結果でもなんでもなく、ただ単に比較優位を持っているからにすぎない、という主張に魅かれたわけである。ここで比較優位を持つ、いうのは簡単にいうと同じような作品を制作する際の機会費用が低いということである。
例えば、僕に相沢紗世似の美人秘書がいたとしよう(脳内仮定)。彼女も優秀などのだが、僕の方がエクセルのデータ入力すぐれていて、また経済学の研究にも少しだけすぐれているとしよう。そうなると相沢紗世似の秘書は解雇して、データ入力も研究も両方、田中がやったほうがいいように思える。しかし僕はデータを入力すること(機会費用が田中には高い)を秘書にやらせて、その時間を研究すること(機会費用が田中には低い)に打ち込んだほうがいいわけである。

 一読しただけでは、増田の主張は、なんだか日本のマンガ・アニメが欧米よりもすぐれているから日本文明サイコー! と叫んでいるかのように誤読されそうだが、彼の基本認識には、どかんと経済的な視点が座っている(と思う)。そのため同じように国策としてのジャパニメーション(これも死語)を批判している大塚英志らの議論に賛成しながらも、他方で大塚らがアメリカ追従型であるとそのイデオロギーを一刀両断するのも、実は日本文明サイコーというイデオロギーからくるのではなく、比較優位的観点から導き出されるのである。新刊のタイトルが『日本文明・世界最強の秘密』などと格闘技世界一決定戦みたいになつていても実は経済学の原理に基づいているのである。
 さて、そんな感じで増田本を好意的に書評(『週刊東洋経済』掲載)したら、あろうことか増田に徹底的に貶められた(?)アメリカンコミックの専門家の一部が、僕のブログ上に登場し、粗し同然の書き込みを展開した。そのためブログを引越しせざるをえない仕業となり、大迷惑だったわけだが、それはまあいまはどうでもいい。

 この騒動は結果的に、山本弘ら「と学会」に目をつけられる結果になったことが戦線の拡大を招いた(笑)。彼らの「と学会」でこの増田本は日本トンデモ本大賞の候補作になるわ、僕自身も目出度くも増田本の支持者として彼らの『トンデモ本の世界U』に登場したのは、まったく名誉なこと‥‥なわけはないが(笑)、正直、面白い現象とあいなった。

 ところで最近、この増田本関係で気になる動きがあった。それは「と学会」による新刊『トンデモマンガの世界』(楽工社)である。
 この本は、山本弘唐沢俊一による「トンデモ」アメリカン・コミックの紹介が掲載されている。これを読んだジャーナリストで、アメコミ研究家でもある小田切博の名言を借りれば「山本弘流のクールジャパン」論が展開されたものである。確かに、山本は日本のマンガやアニメのアメリカにおける影響をわりとオーソドックスに書いているだけだ。ある意味、増田本と対照させるかのような論陣でもあろう。いわば「トンデモじゃない増田本」とでもいうべき山本の書きっぷりである。ただどこが「トンデモ」なのかまったく理解できず、アメコミのファンなら既知な内容を退屈に書いているだけの代物である。この程度でアメコミを語れるならば、その理解は底は浅いといわざをえない。

唐沢に至っては、いまだにコミックコード(アメコミの過激な内容を取り締まる規制)が50年代半ば以降のアメコミ産業を壊滅させたというよくある凡庸な俗説を採用している。これは(増田本から刺激をうけた私の)最近の研究では、コードの設定よりも、むしろ自主規制を盾に一部の出版社が「カルテル」を形成したための競争市場の崩壊の結果である、と考えるのが自然である。こういったおよそ「通」でも専門的にも未熟な人たちが「トンデモ」ブランドだけに依存して、凡庸な視点からアメコミの紹介をすることは本当に不幸なことであろう。

 ところで増田本のマンガやアニメ産業への経済論的視点はもっと重要視されていいだろう。例えば、名著として名高い中野晴行の『マンガ産業論』(筑摩書房)や、中村伊知哉の『日本のポップパワー』(日本経済新聞社)などには、高付加価値産業の育成の必要が説かれている。これらの両者は非常に参考になるのだが、残念ながら高付加価値をもつ産業を目指すことが、必ずしも他国に比較して日本のマンガやアニメ産業を育成することには繋がらない。なぜならば高付加価値産業の典型は重厚長大な造船や鉄鋼業などであり、そういった産業がもつ性格を目指すことは、どう考えてもトンデモな発想に思えるからである。
 いま一度、「と学会」の評価はさておき、増田本を再評価することは日本のサブカルチャーを豊かにするだろう。


m9 Vol.3 (晋遊舎ムック)

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