マンキューの反経済学10大原理

 必要があって猛ピッチで反経済学について考えているここ数日ですが*1、「反経済学」は言葉の定義でいえば経済学の反命題なので、例えばマンキューの経済学の冒頭にある十大原理の逆を定義すればまさに「反経済学」になるはずです。それを考えたら例の寄席芸人経済学者(なんとなくキャラ僕とかぶる 笑)Yoram Baumanの持ちネタであるマンキューの経済学の十大原理の「翻訳」版が冗談みたいですが、僕が漠然といまは抱いている反経済学の(厳密とはいかないけれども)性格づけとして、“まじめな意味で”使えるのでは? と思うようになりました。以下、マンキューの訳文は翻訳を学術的引用で使用。


 まずマンキューの経済学の十大原理は以下のようなものです。

1 人々はトレードオフ(相反する関係)に直面する
2 あるものの費用は、それを得るために放棄したものの価値である
3 合理的な人々は限界的な部分で考える
4 人々はさまざまなインセンティヴ(誘因)に反応する
5 交易(取引)はすべての人々をより豊かにする
6 通常、市場は経済活動を組織する良策である
7 政府は市場のもたらす成果を改善できることもある
8 一国の生活水準は、財サービスの生産能力に依存している
9 政府が紙幣を印刷しすぎると、物価が上昇する
10 社会は、インフレ率と失業率の短期的なトレードオフに直面している


 というものでした。それぞれの原理が何を意味するかの詳細はマンキューの本を参照ください。そういえば新刊で基礎部分だけをまとめたもの(『マンキュー入門経済学』)が新しく出ましたね。

マンキュー入門経済学

マンキュー入門経済学

 さてバウマンは第8から10まではマクロ経済学の問題であり、複雑な世界に住んでる我々からみれば一目瞭然これがBlah,blah,blahであることがわかるといっております。「複雑な世界」が理由になっているのを見逃してはいけません。そうです。かのエコン族の長老様も「方程式の2,3本でこの複雑な世界が表せるわけはない」とある論争本の中で明言してました*2。それと同じです。で、そんな複雑な世界を表す複雑な表現としてはBlah,blah,blah以外にはまずはありえないでしょう。


1の「人々はトレードオフ(相反する関係)に直面する」をヴァウマンは「選択は悪い」と翻訳しています。これはバウマンの例示をみてみますと、いまスニッカーズ1本と数個のM&Msが目の前にあってどちらかを選ばないといけないというトレードオフ関係にあるとします。バウマンのいっていることを翻訳しますと、こんな悩ましい選択自体が悪い。「成長か財政再建か」「競争社会か格差社会か」「安心かリスクか」「効率か公正か」といったトレードオフは悩ましい、ゆえにそんな問題の提起自体が悪いに決まっている。ゆえにどちらか一方を選ぶべきだという「選択の問題」こそ諸悪の根源である。ということです。消費者が主権をもっているなんてことは幻想であって、それは悪夢や(あるいは企業やなにやら氏ね氏ね団とかが捏造した)消費者コントロールであり*3、そんなもの「買ってはいけない」=選択してはいけない、のです。


 2は1の視点をさらに徹底しているもので、これもバウマンは第2原理を「選択はまじにヤバイっす」としています。彼の説明では、今度はスニッカーズ一本とM&Ms一袋の選択を考えます。ある人がスニッカーズに40セントの価値を与え、M&Msには75セントの価値を与えていたとします。ところでいまM&Msを選んだとしましょう。このときのM&Msの「費用」は、M&Msを得るために断念したスニッカーズの価値になります。この「費用」を勘案すると35セントがM&Msの「経済的利潤」になってしまいます。このためバウマンは、そもそも75セントの価値があったM&Msがいまや35セントしか利得をもたらさなくなっている、これは選択がマジにヤバイからだ、としました。


 このバウマンの第二原理も反経済学ではお馴染みの思考方法です。クルーグマン、野口旭、松尾匡らが明らかにした考え方、例えば松尾は『経済政策形成の研究』の中で、「利害のゼロサム命題:トクをする者の裏には必ず損をする者がいる」で集約的に表現しましたが、この反経済学的思考そのものです。なぜならM&Msはいまや被搾取者=損をする者であり、スニッカーズは搾取者=得をする者です。M&Msの消費者はこの「搾取」のために彼が実現すべきであったすべての価値を得ることができません。したがってここでは消費者主権は満たされず、絶えず搾取者の簒奪と権力に脅かされます。そのためわれわれは一致団結してこの搾取ー被搾取の権力構造を戦わないといけないのです(と反経済学者たちは考えます)。


 さて第3原理の翻訳は「人々はバカである」というものです。これは次の第4原理の翻訳「人々はそこまでバカではない」と組み合わせて考えるべきです。組み合わせると「人々はここまではバカである」が導き出されます。そうです、反経済学が愛する限定合理性になります。反経済学の限定合理性の利用については、聖典『バタフライエコノミクス』を参照すべきでしょう。



バタフライ・エコノミクス―複雑系で読み解く社会と経済の動き

バタフライ・エコノミクス―複雑系で読み解く社会と経済の動き


 次は「取引(貿易)は人々の生活をより悪くする」という言い換えです。これは一昨日のエントリーをご覧いただければわかりますが、実際にいまの日本でも重要な問題を招いています。すなわちマンキュー原理ではガチャピンが総裁に選ばれてもおかしくはないし、(もちろん条件を変えれば)ムトウ一族でもいいのですが、実際には政治家の皆さん方は一切の取引を拒否して、総裁の空席を選びました。このヴァウマン的な反経済学第5原理の信奉者であることは明白でしょう。もちろんほかにも反グローバリズムや反市場主義なども似たマインドかもしれません。


 さてお次の第6原理の翻訳は「政府はバカである」ですが、これも第7原理の翻訳「政府はそこまでバカではない」と組み合わせてみるべきです。政府の限定合理性命題「政府はここまではバカである」が導き出されます。ただここで現在の日本の論壇とマスコミの論調や国民の一部の声も考慮しますと、どうも先の「人々はここまではバカである」と「政府のここまではバカである」の"ここまで"を比較するとどうも後者の方の水準がかなり高そうです*4。そのため、厳しい官僚批判が大手を振って跋扈しているのが反経済学系の論調です。そしてこの前者のバカ度がよほどまし、という価値判断から、自生的なバカ秩序論が好まれ、政府の介入はバカを上回るスーパーバカが混乱を招くだけ、として拒否されるという、理論構造を成立させます。


 ここまで考えてみますと、この寄席芸人エコノミストの洞察力はなかなか侮り難く、また今日の日本の政治や世論・言論動向までも分析できる珠玉の名芸といえるでしょう。


http://jimaku.in/w/VVp8UGjECt4/FuWFufKd_1_

*1:とはいえ今日は体調をいきなり崩して偏頭痛で寝込んでましたが

*2:以下の本の小宮隆太郎論文を参照:

金融政策論議の争点―日銀批判とその反論

金融政策論議の争点―日銀批判とその反論

*3:ケネス・ガルブレイス『ゆたかな社会』などに消費者主権の幻想が論じられています

*4:比較できないものを比較しているという指摘は反経済学の前では無効です