かっての掲示板時代のネットの経済学

 黒木掲示板・池田信夫ブログエントリーのときにお約束したもの。遅れてすみませんでした。内容はすでに古くなったり他の僕の本に一部入っていたり、またはすでに僕自身が自分の考えとしては抱いていないものも散見されるかもしれません。しかし修正が面倒なのでそのまんま掲載します。旧ブログでも一度掲載したものですので読まれた方も多いとは思います。以上の理由から内容は無保証です。引用言及する際は僕の許可を得てください。


ネットの経済学

メディアと経済思想史研究会報告論文(2002年9月)

田中秀臣

1 インターネット経済論壇

 1990年代中頃から、個人のホームページの開設やメーリングリストの一般化などが急速に進展した。このような新しいインターネット環境の変化に呼応して、「掲示板」(BBS=Bulletin Board System)とよばれるインターネット上の言論空間がすざまじい勢いで構築されるようになった。この「掲示板」は、現在では個人の運営するものがメジャーな位置をしめていて、掲示板に書き込み閲覧することを日常的な関心事にしている人々は、日に数十万とも数百万ともいわれている。大新聞といわれる朝日読売日経などの部数となんら遜色ない形で、これらのインターネット上の言論公開・交換の場が維持されていることは、けっして過小評価されるべきことではないだろう。
 現在、日本語で運営されている「掲示板」の中で、経済や経済学の話題で高い水準を保持しているものが三つ存在している。いうまでもなく世界最大級の情報量を誇る「2ちゃんねるhttp://www.2ch.net/2ch.html、そして経済論議の質の高さでは他の追随を許さない「いちごびびえすhttp://www.ichigobbs.com/。この両者がアクセスした者の過去ログを記録しない、つまり完全な匿名掲示板として機能しているのに対して 、最後のひとつは原則的に(本名であれ匿名であれ)発言者の責任を明示化することを求めている掲示板「黒木のなんでも掲示板2」http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/b.htmlである。これら3つの掲示板はそれぞれ、匿名・非匿名という違いだけではなく、まったく異なる性格をもっている。そしてともに単に経済や経済学の「素人」のみならず本職のエコノミストたちの関心やその参加を促していることは、日本の今後の経済論壇を考える上でも無視することは許されないといえよう。では、これらの掲示板ではどのような論戦が行われているのか。そしてこれらの「掲示板」がメディアの経済学の中に占める意義とは何かを考えてみたい。


図入る(2ちゃんねる経済板 苺経済板の写真)


 2ちゃんねるが世間に広く認知されたのは、直接には1999年の「東芝クレーマー事件」をきっかけにしている。この話題を取り上げたスレッドには日に何万ものアクセスが集中し、「2ちゃんねる」の存在が認知されていった。『2ちゃんねる宣言』の著者が指摘するように、それは必ずしも「いい評判」とはいえなかった。それに続く「ネオむぎ茶」(佐賀バスジャック事件2000年5月)の書き込みなどもニュースでとりあげられ、TVの画面に2ちゃんねるの過去ログが映し出され、その会話のもつ「反社会性」から2ちゃんねるに対してなにかあやしげでアンダーグラウンド的なイメージが多くの視聴者・読者に抱かれることになった。しかし、現在、2ちゃんねるは、そのあやしげな雰囲気をたもちながらも、2ちゃんねるのトップページに書かれているように「「ハッキング」から「今晩のおかず」まで」を話題の対象とする広汎な「公共の場」に変貌をとげている。一日の平均アクセス200-300万ともいうその数字がその「公共性」の一端を知らしめているだろう。
 この2ちゃんねるには経済問題を主に取り扱ういくつかの掲示板があるが、中心は経済@2ch掲示http://money.2ch.net/eco/である。2002年9月現在も無数のスレッドが乱立していてその全貌は容易に把握しがたい。すべてを閲覧するのはきわめて困難であり、アクセスした者は自分の関心に絞ってROM するかカキコ するしかないであろう。ともかくこの原稿の執筆時点から本が出版されるまででさえも経済@2ch掲示板で話題になっているスレやその書き込みの内容は急激に変化すると思われる。その時々の話題に即応するというそのスピードはテレビやラジオとほぼ同時であるか場合によっては上回るケースもあるだろう(関係者の直接の情報提供など)。過去の書き込みは「倉庫」の中に保管されていて、一定の資料的な価値をもっている。ちなみに2002年9月初めにおいて掲示板のトップに位置し、比較的書き込み数を集めているスレッドの題名は、「円高?円安?」、「インフレターゲット支持こそ経済学の本流」、「くだらない質問はここに書き込め@経済板」などである。
そのほかにもあえて大胆にまとめると、1 小泉政権の経済政策や構造改革を検討したもの、2 特定のエコノミストや個人を話題にしたもの(例えば、岩田規久男大前研一木村剛田中直毅野口悠紀雄、塩沢由典などの各氏)、3 経済的な不安を問題にしたもの(日本の財政破綻預金封鎖などが話題)、などで整理することができる。
2ちゃんねるは匿名掲示板であるが、書き込み時には各自に記述の責任をもつことが要求されるし、書き込みにあたっての詳細な注意書きがある。それに従わないスレッドや書き込みは随時、「削除人」が削除しており、あたかも自由競争市場の中の監督官な役割を果たしている。ただ原則が匿名掲示板であるため、匿名のハンドル名(金持ち名無しさん、貧乏名無しさんなど)でかなり自由度の高い書き込みがみられる。必ずしも世間常識的に「お行儀のいい」反応ばかりがみられるわけではない。匿名掲示板で本名を書き込んで議論することはさけるべきなのがどうも「世間知」のようである。ただし、このような「お行儀のわるさ」はマイナス面ばかりではない。確かに「煽り」 や罵倒(「逝ってよし」 など)さらには意味不明の書き込みが満載しているものの、それはいってみれば「ゲームのルール」の一部である可能性もある(・・・・・・)。すなわち煽りや罵倒自体もいわば「ネタ」 であったり、異なる価値観をもってこの「公共の場」で発言するものが体験しなくてはいけないシニシエーション(通過儀礼)であるかもしれない。もちろん本気での煽りがどうも大半なのも事実である。だから読者や視聴者などの参加が、発信側から仕切られた旧来メディアに馴れているものにとっては、はなはだしく混乱したもの、または粗暴なものにも思えてしまうかもしれない。しかし、そのような側面はあるにしても、それもまた2ちゃんねる流の「ゲームのルール」などだとわりきる考え方もあるだろう。
この匿名性にはもちろん負の側面だけではない。主に2つの利点が存在する。第1に匿名であるため、自分の所属や肩書きなどを気にせずに意見が表明できるということ、第2に匿名であれば発言内容が不適確・不適切であれば柔軟に意見の変更ができる点である。これらの特徴は意見の交流に活気と柔軟性を付与するだろう。
これに加えてなんといっても速報性の高さが最大のメリットである。テレビやラジオなどで流れた事件や話題への意見表明がすぐに展開されるのも掲示板ならではの醍醐味であろう。東京証券取引所での株価下落のニュースが適切なスレッドや新スレッドとして登場し、匿名たちによって次々と意見が書き込まれていくのを見るのは壮観でさえある。
ただ経済@2ch掲示板には意見を論理的に長々と展開するよりも、短い文章での「感想」の羅列のような書き方が一般的な流儀のようである。それはある事件や話題へのネット上でのおおまかな反応を知るうえでは有益ではあるが、やはり「論壇」としての機能としては限界があるようである。その点で次に紹介する「いちごびびえす掲示板」(通称:苺掲示板)は、2ちゃんねる同様に匿名掲示板ではあるものの、異なる特徴をもっている。
いちごびびえす掲示板の「経済/経済学@いちごえびす」http://www.ichigobbs.net/economy/は、むしろ「論壇」としての機能を発揮している稀有な匿名掲示板といえるだろう。この特徴は主に、特定のハンドルネーム(コテハン)の書き込みが有力であること、さらには匿名の書き手たちも煽りを行うよりも内容重視の書き込みを「ゲームのルール」として暗黙のうちに採用しているところにあるようだ。つまり多少とも自分の書き込みにこだわることで議論の質の高さが保証されているようである。
人はこの苺掲示板を「ネットでの(経済を話題にするものでは)最高峰」と表現している。確かに、一瞥しただけでもその内容が非常に高度なのがわかる。2002年9月初め現在の主要なスレッドとしては、「日銀の金融政策」「トンデモ経済学家元追究委員会」、「“ザ・モデル”で経済を語るスレ」、「経済板ロビー」などである。特にこの掲示板ができた二年前から2002年の初夏までを事実上仕切ったふたりのコテハン 、「ドラエモン」と「すりらんか」が活躍したころの苺経済板はまさにネット上の「論壇」としてあるいは大学高学年対象の「経済学教室」としての啓蒙的な役割をも十分に発揮したものであった 。現在は一時期にくらべて低調なように思えるのが多少気がかりである。
そうはいっても現在でも、ネット上でO.Blanchard and S.FisherのLectures on MacroeconomicsやD.RomerのAdvanced Macroeconomicsなどをネタにしたかなり詳細な勉強会スレッドまで存在したり、政府機関や日本銀行などの政策に関しての立ち入った論評や情報を見ることができる。
「ドラエモン」と「すりらんか」が活躍していた頃の苺掲示板では、各コテハン同士がいわば「擬似的人間関係」を構築して互いに意見を表明し、論戦を繰り広げていた。この両名がいわゆる「リフレ政策」を主張しているので、苺掲示板ではマクロ経済政策を中心にするケインジアンの意見が主流といえた。もちろんそれ以外にも新古典派マクロ経済学ポスト・ケインジアンマルクス経済学、構造改革主義、「日銀理論」などの立場からの書き込みも多い。実はこのように書き手がどの立場に依拠して書き込んでいるかがわかるのが苺掲示板の特徴であるともいえよう。苺掲示板でもほかの掲示板でもいえることだが、論戦が行なわれれば、それは旧来メディアのように余計な仕切り(いきなり話題を転換したり、コマーシャルをふるような司会者などの存在)がないために、その多くが論理と情熱で勝負が決するということである。この具体例を「黒木のなんでも掲示板2」ではやや詳細に見ることにする。
掲示板での特徴で、2ちゃんねるにはあまり存在しないものの代表として、通常の経済学の常識からは信じられないような経済問題への発言を批判するものがあげられる。さまざまなスレッドにそのような観点からの書き込みがあるが、そのものずばりをテーマにしたスレッドに「トンデモ経済学家元追究委員会」がある。ちなみに経済学の世界に「トンデモ」という発想を持ち込んだのは、野口旭『経済対立は誰が起こすのか』である。
スレ主 の「ドラエモン」は、開幕の辞を次のように述べている。

「01: ドラエモン  2001/04/20(Fri) 23:39
足かけ8ヶ月ほど弐編・2chの経済板で雲霞のような数の「トンデモ経済分析」に遭遇し、そのたびに個別撃破してきましたが、いつまで経ってもきりがない。薬の売人を挙げても元締めに手を出せない麻薬取締官の気持ちが良くわかります。

そこで考えついたのは、この厨房エコノミストの背後には「家元」がいるに違いないということ。だって、変だとおもいませんか?多くの連中が経済学のイロハも知らないのは直ぐにわかるけど、そのくせ貨幣数量方程式MV=PQとか、長期金利についてのフィッシャー効果なんか知ってる。明らかに、体系的に勉強してないが、誰か知ってる奴が吹き込んでるとしか思えないんです。

そこで、各種メディアでの発言などをウォッチしながら、トンデモ経済学家元を追究しましょう。」

 まさに本書の第×章でとりあげた「分業の失敗」をネット経済論壇が解消していこうとする格闘宣言とも読める。この「どらえもん」の宣言をすぐさま受けて「すりらんか」はトンデモ経済学者を次のように分類するという「壮挙」を行なっている。長文だが掲示板の雰囲気が出ているので引用しておこう。

「05: すりらんか  2001/04/21(Sat) 00:22
おおお!とうとう十字軍編成ですね!トンデモはいくつかの種別に分けられると
思います.

・経済知識ゼロ開き直り系
経済・経済学の知識全くナシで,経済を語ろうという有る意味ものすごい勇敢なひとびと.さすがに「エコノミスト」「経済評論家」とは名乗らない人も多い(S高は例外).必殺技は「景気回復出来ない経済学なんて無意味(だから自分が正しい)」.経済誌ではなく一般誌,テレ東以外の民放などに出没.居酒屋オヤジ感覚のライトなテイストが人気の秘密.

・正答派言論人経済なんて下賤だ系
サブカテゴリーとして,思想系と道徳系に分かれる.前者は難しい単語がたくさん出来て,インテリ君の自尊心を大いにくすぐる.どう読んでも,一片の論理も含まれていないような気がするのは私だけではあるまい.後者の特徴は「今の日本は罰が当たっている」という,ちょっと自分を反省したい中高年をくすぐる主張が売り.土日の朝番組クラスの政治評論家との親和性がたかく,容易に「開き直り系」と共同戦線を形成する.バブル期に苦言を呈していた人がこの系に多いため鼻高々.

・トレンドサーファー系
バブル→その崩壊→長期不況という日本の15年を最も上手く乗りこなした人たち.ある意味ものすごく経済学的に行動している(ただし,経済学は知らない人が多い).バブル期には日本式経営・経済を賛美し,90年代にはアメリカ賛美とIT革命.経済学に関する単語を結構知っている感じなのが特徴.経済誌からTVまで活躍のは場は広いが,主婦・高齢者受けしないのが弱点.やる気あるサラリーマンの教祖的存在.経済学者から転身するのに格好?
 
06: すりらんか  2001/04/21(Sat) 00:23
・ころび学者系
元正答派経済学者がある日突然何かに目覚めてしまう.このカテゴリーは主張というよりその出自が特徴.ただし,「サーファー系」への同調は少なく,「開き直り系」「言論系」への移行がメイン.ただし,日に日に転び学者弟子系という何を学んだのかさっぱりわかんない人々が生産されてきているが,こちらはむしろ電波系としての分類が妥当なことが多い.

・正統派電波系
語るも不毛,反論するのももっと不毛な人々.まじめに反論するとある日,3面記事行きの可能性もある.よって割愛.

 おもわず補遺で実名をそれぞれに書き込みたいぐらいだが(実際例は各自掲示板本体を参照されたい)、このようないきのいい書き込みにはすぐに違うコテハンたちからエールが送られ、また違う書き込みが次々登場し、場合によっては関連するスレッドがたつなど事実上の「議論ツリー」を形成していく。
 
「09: へなへな  2001/04/21(Sat) 00:51
>08
(・∀・)イイ!! 」
 
「62: 元予備校生  2001/05/05(Sat) 03:34
予備校で教えてる経済作文は,もっとすごいぞ。
天下の○予備校のK大模試や講習の問題の模範解答を
読んでみてよ。コースの定理が公共財の非競合性や排
除不可能性と関係あるって言うんだからすごい。あと,
「空気や水は公共財の典型例です」なんて解説もあっ
たりして。
頭のいい皆さん,こういう経済学派もあるんですか?
 
63: すりらんか  2001/05/05(Sat) 10:34
経済学の本をちょっと調べるくらいの労をとれよなぁ…….まぁ,
経済学者のなかでもたまに「公共財=政府・自治体の供給する財」
と本に堂々と書いちゃう人もいるけどね. 」

 特定はできないが、この「ドラエモン」と「すりらんか」の両コテハンが苺掲示板を中心にして活躍していた2000年から2002年央にかけてが、「ネット経済論壇の第1次黄金期」であったと評価できるかもしれない。実際に多くの「プロ」(エコノミストや官僚、大学院生や「崩れ」と表現される元研究者の卵たち)が参加していると推測され、コテハンたちを中心にした論議は、例えば研究のアイディアやまた時事論議の方向を考える上でも有益な材料を提供していると考えられる。その意味では、確かに意味のない書き込みも多いが、「便所の落書き」と一部で形容されるものとは異なるだろう。いわば、やじが飛ぶ公開討論会でも想像すべきで、このとき旧メディアは討論者や司会者の発言(しかもその一部)しかとりあげないが、ネット掲示板では「やじ」までもリアルに再現しているのだと考えればいいのだろう。


 苺掲示板の世論の主流は、この両コテハンに主導される形で、日本経済が直面している不況の根本原因を、経済制度の疲弊や欠陥といった「構造的要因」よりもデフレ・ギャップの存在といった「循環的要因」とみなしているようだ。そのためいわゆる「構造改革主義」(サプライサイドの改革を重視する立場)的な発言をするエコノミストにはきわめて厳しい批判が加えられている。また日本銀行の金融政策のあり方についても苺掲示板内の世論の方向はかなり厳しいものである。例えば2002年9月18日の「金融システムの安定に向けた日本銀行の新たな取り組みについて」という日銀の主要民間銀行からの株式買い上げ策という、日本銀行の政策変更についてはただちに苺掲示板の面々が反応する。長いやりとりだが、掲示板全般の雰囲気がでているので(一部修正して)引用しよう。

133: ドラエモン  2002/09/18(Wed) 15:23
でたー。今日の日銀政策決定会合は、主要10数行からの株式買い入れ(時価)を決めた
ということだ。国債買うのは嫌だけど、持ち合い解消支援は厭わないわけだ。まともな
リフレ政策が発動されなければ無茶苦茶な政策が実行されることになるだろうと予想して
いたが、予想通りの結果となったようだ。
 
142: 名無し不審船  2002/09/18(Wed) 16:54
あれだけ長期国債も外債も絶対に買いたくないって言ってたのに…。
株式はOKとは。
きっと金融政策(仕事)はする気はないけど、それ以外なら何だっていいんだろうな。
それでもやっぱり、なぜ株式は良いのかという点を国民に明らかにするべきだろうが。
 
148: すりらんか  2002/09/18(Wed) 19:04
あーあ,とうとうやっちゃった〜.なんで絶対価格は動かしたくないけど
相対価格は動かしたいのかね.はぁぁぁ.しかもどうせ不胎化するんでし
ょこれ?
 
151: R  2002/09/18(Wed) 20:37
つーか、へいぞうに相談無しかよ(w
理解できないって言葉に爆笑させてもらったよ。

趣旨・目的がよくみえない=日銀株買取で竹中経済財政担当相
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020918-00000051-reu-bus_all
 
153: 招き猫  2002/09/18(Wed) 20:51
天下り先の業界団体を保護することさ。
OBから公的資金注入になれば、自分たちの立場が危ういって泣き疲れたんだろ
どうせなら、不良債権も簿価買い取りしてもらえよ。

158: ヒクソン・グレイシー  2002/09/18(Wed) 21:43
なぜ、日銀は長期国債や外債の買いオペをやらずに、株を買うのか全く理解できない。
素直に考えれば、変だと思います。量的緩和やインフレ・ターゲットに反論をいろいろ考えている割に理解できない行動が多すぎる。
審議委員の人はいったい何を考えているのでしょう。
 
168: Thumb  2002/09/18(Wed) 22:55
金融機関のディシプリンも視野に入れたリフレ政策をとるべきと
いう意味では最低の決定。
構造改革というよりも、彌縫策でしょう。
言葉ないです。
 
 2ちゃんねるでも同様な書き込みがある一方で、苺掲示板とは異なり、日銀の政策に理解をしめす論調なども根強くあるようだ。いずれの意見に組するものであれ、両掲示板には関連する情報源をリンク先で知らせるなどニュースソースを知る上でも参照になり、多くのメディア関係者がこの両掲示板での「世論」動向を参考にしているという噂も私の見聞ではありうることであろう。
 さて2ちゃんねるいちごびびえすとは異なり、実名・匿名問わず発言者の責任を重視する経済関係の掲示板としては「黒木のなんでも掲示板2」がある。これは黒木玄(東北大学大学院理学研究科)氏が運用するサイトの一部にあるものである。黒木氏は、「ソーカル事件」についての関連リンクや発言集をも提供し、また自身も科学論、技術関係、経済学にわたる幅広い発言を自らの掲示板や苺掲示板などで展開している。
 黒木掲示板では、例えば山形浩生氏、稲葉振一郎氏などの経済関連の話題がよく出る掲示板を自ら運用しているネット上の有力な論者たちが持続的に投稿している。特に2001年に入ってからは、黒木氏は、日本の経済不況についてマクロ経済政策によるその改善を主張し、他方で構造的要因に経済停滞の原因を求めるいわゆる「構造改革主義者」に対して苛烈で周到な批判を展開しはじめた。その水準とセンスは、多くの経済学専門家を凌駕するきわめて高い水準にあるといっていい。この一連の黒木氏の発言に引かれて、「声の出るゴキブリ」たち が黒木掲示板に登場し、また他方で「構造改革主義」的な論者も精力的な書き込みを行い、両者の間で長期にわたる論争が行なわれた(これについては第3節で扱う)。
 この黒木掲示板では、黒木氏自身がある程度の「仕切り役」を演じてはいるが強制的なものではない。ただ責任のない発言に対してのペナルティは重く、しばしば掲示板の約束にしたがっていない不適切な発言は削除されることがある。黒木掲示板の特徴は、経済問題について意見を同じにしないのもかかわらず、塩沢由典氏の次の発言が的を得ていると思われる。

Id: #b20020825144344  (reply, thread)
Date: Sun Aug 25 14:43:44 2002
In-Reply-To: b0049.html#b20020824145126
Name: 塩沢由典
Subject: 不況に対し経済学はなにをすべきか
(略)
わたしが「黒木のなんでも掲示板」を選らんで議論しようとしているのは、ここには他の多くの掲示板(「2chBBS」や「いちごひびえす」を代表的に考えている)と違う特質があると考えているからです。ここには、掲示板管理者の適切な「産婆的介入」があり、多くの投稿者も、みずからの投稿に責任をもたなければならない程度の自己同一性をもっています。他の掲示板でも、新しいスレッドが立った初期には、すこしはおもしろい議論がなされるのですが、そのあとは議論がぜんぜん深まりません。あとは常識の投げあいか、ひどい場合には罵声の投げ合いに終わっています。くろきさんがこの掲示板を運営されている一番の目的は、そうしたものとは違う討論の文化を日本に根付かせるためではないでしょうか。罵声の投げ合いがないだけでなく、常識の投げあいに終わることがないよう、適切に舵を取ってほしいと願っています。
(略)

 しかし、すでに述べたように2chや「いちごびびえす」も共に議論の場として成立しており、ただの罵声の投げ合いや常識の投げ合いで終っているわけでは決してない。聴取のいらだちや罵声さえも同一水準で再現される公開討論の場というルールのもとで議論が行なわれているのである。もちろんそれに伴うリスクや時間の浪費も多いに違いない。第3節では、掲示板での議論のあり方を一段立ち入って検討することにしよう。

2 “個”に回帰するメールマガジン

 2001年春、小泉首相への国民の圧倒的な支持を反映してか、日本で最大部数(200万部以上)の購読者をもつ「小泉メールマガジン」が内閣府から発行された。「メールマガジン」という媒体にこれだけの読者が存在していたことは驚きをもって迎えられた。小泉首相はこのメールマガジンを使って「構造改革なくして景気回復なし」やその修正版の「改革なくして成長なし」などを趣旨とする発言を繰り返し述べているようだ。
 もちろん政府の発行するメールマガジン以外にも経済関係のメールマガジンは存在する。有力と思われるものは、作家の村上龍氏が編集長をつとめる『Japan Mail Media』(
通称JMM)http://jmm.cogen.co.jp/と作家猪瀬直樹氏の『メールマガジン日本国の研究 不安との訣別/再生のカルテ』http://www.inose.gr.jp/mg/index.htmlである。前者は1999年3月に当初週1回で配信され、現在は基本的に週3回の配信の金融・経済を主要内容とする。後者は2001年3月から週3回配信ではじまり、2002年8月からは週1回の配信に切り替わっているものである。前者は村上氏とそのスタッフが事実上の編集・企画を担っているようだが、後者は猪瀬氏とその事務所スタッフを中心にエコノミストたちを企画に積極的に参加させているところが特徴となっている。本節では、特にJMMの特徴を検討することでメールマガジンのネット経済論壇における意義を考えよう。
 村上龍氏がなぜ経済・金融関係のメールマガジンをはじめたのか。村上氏の小説『希望の国のエグソダス』の取材で培った人脈やそこでの関心が成長したものだと説明されている(村上龍希望の国のエグソダス』取材ノート)。この『希望の国のエグソダス』については、経済小説の章で改めて触れることにするが、村上氏のメールマガジンには実に多彩な寄稿者が終結している。経済関係だけでも山崎元、北野一、河野龍太郎といった核になるメンバーをはじめに、玄田有史、小林慶一郎、林康史、故糸瀬茂、木村剛、岡本慎一氏らがいる。またゲスト的な寄稿者や座談会出席者なども無名の新人を発掘するというよりもそれぞれの分野で一定以上の業績をあげている人物を好んで選択しているようである(吉川洋竹中平蔵カルロス・ゴーン森永卓郎の各氏ら)。これは無料配信のメールマガジンとはいえ、単行本化(NHK出版が担う)やテレビ化(NHKスペシャルなど)といった形で旧来のメディアとの巧みな営業戦略によって運営されていることが一因といえるかもしれない。そのためアカデミックな人材を登用するというよりもジャーナリステックな発想(人気アナリストや有名エコノミスト)が必要とされているように思える。これは比較的地味な人選を好むかのような猪瀬MMとは好対照をなしている側面でもある。いってみればJMMはビジネス営業志向だが、猪瀬MMは個人商店的な色彩が強いように思える。
 村上氏自身はJMMをはじめる際の基本的な関心を次のように語っている。
「作家であるわたしは「システム」と「個人の意識」の関係に興味があります。金融・経済の専門家に実際に会う前は、「この不況で何かが変わるかも知れない」という漠然とした期待を持っていました。「世界」と「日本」を自分たちの中で分離し、集団の利益に個人を従属させる日本的システム・考え方への大前提的な嫌悪がわたくしはありました。
 今でもそういって嫌悪はありますが、システムや考え方の変化と一口で言っても、実は多様な側面があることがわかってきました。」(村上龍『だまされないために、わたしは経済を学んだ』16頁)。
端的にJMMの一貫するテーマは、「日本的システム」と個人との関係を金融や経済の側面からとらえることにあるといえる。そして村上氏の関心はさらにその中でも文化や文学的な側面にかかわるものにあるといえよう。いわば、「日本的システム」が経済のグローバル化や「大競争時代」を通じて変容するなかで、そのシステムに属する個人の精神や生き方がどう変わるかという点に興味があるように思える。JMM全体で、村上氏はあまり積極的に金融や経済について発言しているのわけではない。その点はきわめて抑制の利いた編集スタンスである。それでもこの「日本的システム」が日本の90年代から今日までに至る停滞の原因をもたらすものであるという認識が根強くあるように思える。それが最もはっきりとしているのが、メールマガジンの内容やオリジナルな記事を掲載して発刊された『NHKスペシャル 村上龍 失われた10年を問う』や『対立と自立 構造改革が生み出すもの』である。そこには戦後の高度経済成長の成功が、日本的システム(銀行・企業の閉鎖的な過当競争、護送船団方式、個人を集団に従わせる非個性的な教育、それに雇用システムなど)により可能になったが、国際的な経済・社会環境の変化によっていまや日本的システムが経済の停滞をもたらしていると考えるのである。われわれはこのような見解を以前、「日本的システム=構造問題説」と名づけた(『構造改革論の誤解』)。
 ここでいう構造問題の「構造」という言葉は、雑多ながらくた箱に似ていてなんでも受入れかねないものだが、それでも改革されるべき「構造」として、多くの人々は「日本的システム」を脳裏に思い描くに違いない。終身雇用制、年功序列制、企業内組合といった企業の「三種の神器」、「護送船団方式」といわれた官僚主導の経済システムである。そしてこのような「日本的システム」を構造改革の対象として明示したバイブル的存在こそ、野口悠紀雄氏(青山学院大学)による『一九四〇年体制』(東洋経済新報社、1995年)である。
 野口氏の主張は以下のように整理できる。先の「日本的システム」が1940年代の戦時統制経済において基本的に形成され、戦後も高度経済成長の原動力となるなどきわめて有効に機能した。しかし、それがうまくいったのは欧米への「キャッチアップ」段階までのことであり、その段階を終えた現時点では、いまや経済成長の障害になってしまった。この障害たる「日本的システム」を改革できるのは、「構造改革」しかない、というものだ。
 この野口氏の明快ともいえる一九四〇年体制テーゼは、理論的なさまざまなヴァージョンを伴いながら今日も強く支持されている。例えば、リチャード・カッツ氏の『腐りゆく日本というシステム』(東洋経済新報社、1999年)、池尾和人氏(慶応大学)らの『日韓経済システムの比較制度分析』(日本経済新聞社、2001年)、立花隆氏「現代史が証明する「小泉純一郎の敗退」」(『現代』2002年3月号)などであり、経済学者に加えてカッツ氏や立花氏のようなジャーナリストに支持者が多いのも特徴だ。おそらくこのテーゼのわかりやすさがうけるのだろう。
 官僚が統制した経済が半世紀以上持続し、90年代以降の日本経済の停滞をもたらしている。犯人=官僚と「三種の神器」を採用する経営者・労働者、改革方針=システムの破壊、と勧善懲悪的にはすっきりしたシナリオが書けるからだ。二大メールマガジンの両編集長も多かれ少なかれこのテーゼの影響下にあるといえる。
 野口氏自身が、この一九四〇年体制テーゼを本格的に提唱したのは、同書発行より二十年近く前に遡る。当時、大蔵官僚であった榊原英資氏(慶応大学)との共著「大蔵省・日銀王朝の分析―総力戦経済体制の終焉―」(『中央公論』1977年8月号)である。榊原・野口両氏はこの共著論文で、日本の経済体制の核心部分として「大蔵省・日銀王朝の支配」を指摘し、この「王朝の支配」に反を唱えた。大蔵省・日銀主導の「日本的システ
ム」の廃止を主張した若き野口氏らの発言は一部の論者に好意的に評価された。官僚主導経済として、日本の「構造」問題を指摘する野口氏らの手法は、前川レポートなどの政策提言、開発主義的な主張を展開した村上泰亮氏の『反古典の政治経済学』(中央公論社、1992年)などに代表される強力な「同伴者」を得て、今日では政府や論壇の中で一大勢力をもつまでに膨張した。
 しかし私はこのような野口氏に代表される「構造」的、「システム」的発想は、経済的な問題をきわめてステロタイプ化してしまう、閉ざされた思考形態であると思
う。実際に、半世紀も同じシステムが持続して影響力をふるうことができるのか? 野口氏の一九四〇年体制テーゼに対して、原田泰氏(財務省)の『1970年体制の終焉』(東洋経済新報社、1998年)は、時代的に「日本的システム」は近時の産物であり、しかも経済資源の非効率な諸規制によるものが大半であり、その意味では「システム」を変更することで問題が片付くのではなく、政府の不当な市場への介入が生じないように絶えず注意するべきだと主張した。
 さらに私が重要に思うのは、一九四〇年体制テーゼでは、資源の誤配分によるミクロ的な非効率性と、資源の遊休(=失業)によるマクロ的非効率を峻別する視点が
欠けていることだ。構造改革主義者の多くが70年代は「日本的システム」の悲観者であり、80年代では支持者であり、90年代にまた悲観者に戻ったのは、このマクロ経済への認識の欠如による。例えば、80年代はいまよりもずっと規制の多い経済であるにもかかわらず、90年代から今日にかけてよりも高い成長を達成した。それは、低い失業の実現というマクロ経済政策の一応の成果ゆえであった。反対に、規制緩和が曲がりなりにも
80年代よりも進んだ今日、経済が停滞しているのは、まさにマクロ経済政策の失敗によるのである。
 マクロ経済政策の失敗とは、日本銀行財務省(旧大蔵省)の「不況レジーム」とも呼ぶべき過ちの累積を指している。「失われた10年」という言葉は、90年代初めから今日までの日本経済の低迷を表現するのに使われて久しい。村上氏のJMM本のひとつもこの言葉を題名に選んでいる。この長期的な経済停滞の原因については、構造問題説、不良債権原因説などがあるが、もっとも有力な見方として「政策の失敗」を原因に求める説がある。財政・金融政策を中心にした日本の「政策の失敗」がこれまでの「失われた10年」をもたらしたと考えられている。
 書名もそのものズバリである原田泰氏の『日本の失われた十年』(日本経済新聞社)では、「政策の失敗」の核心を金融政策の失敗に求めている。金融政策の担い手である日本銀行は、「誤った政策思想」に取り付かれているために、適切な金融政策を採用することができなかった。「誤った政策思想」とは、中央銀行はマネーをコントロールすることができず、またマネーは民間の資金需要に受動的に応じて供給するしかない、という考えに要約される。この政策思想に立脚すれば、経済が停滞しているから、それに応じてマネーサプライを減少することになってしまい、景気は回復するどころか反対に急激に冷え込みかねない。実際に、90年代に入ってからマネーサプライとGDPはともに極端な変動と落ち込みをみせている。また、橋本政権下の経済失政が急速な財政再建路線の結果として生じたという見方がある。今日の小泉内閣でも、「構造改革」の主眼は財政再建におかれているように思える。先に日本銀行は民間の資金需要に応じてマネーを供給するので、景気が悪くなるとマネーサプライを低下させ、一段と景気低迷に貢献してしまうと指摘した。他方で、財政政策を担う財務省(旧大蔵省)は、景気低迷期かもしくはまだ確たる回復の見通しもない時期にかぎって財政再建とか財政緊縮型を指向しているように思える。特に今般の小泉政権下の緊縮財政スタンスは、おおいに疑問符がつく。
 私はこれらの「政策の失敗」を特に「不況レジーム」と名づけている。「レジーム」とは、特定の経済政策をとる政治経済システムのあり方を意味している。ここ10年あまり財務省日本銀行ともに、デフレ不況にあってあえて不況を加速化するような政策を採用しているようにしか思えない。その理由は、これら両政策担当機関が自ら「国益」と信じているものが、実は「省益」あるいは「行益」にしかすぎないところにある。
 先に日本銀行の「誤った政策思想」にふれたが、財務省(旧大蔵省)はどうして不況下において緊縮財政スタンスを選好するのだろうか。グライムス氏(『日本経済 失敗の構造』)が指摘しているが、予算編成への過剰な政治的介入を恐れて、財政出動が要求されやすい不況期にあえて緊縮型を採用しようとしているのかもしれない。それは彼らにとってみれば、「国益」を守る大儀名分かもしれない。しかし、経済全体が緊縮財政によってより一層縮小してしまうことは、どうも彼らの「国益」の損失には含まれてはいないようだ。また政治的な介入を排除することが、予算編成の自由裁量の余地を広げるので、他官庁への影響力などの「省益」確保につながるという有力な仮説もある。
 日本銀行については「誤った政策思想」以外でも注目すべきなのはその既得権体質である。元日本銀行調査役の石井正幸氏が書いた『日本銀行の敗北』は、日本銀行がどのような金融機関や民間企業に天下りしているかを詳細に書いた生生しいジャーナリスティックな著作である。主要天下り先である短資会社などが、日銀職員にとって「子会社」として認識されていたり、また日銀の人事査定では、政策実行能力よりも天下り先の確保に高い評価が与えられると書かれている。日本銀行の組織としての既得権体質がどのようなものであるか、またその既得権が「誤った政策思想」の採用とどのような関係があるかはより解明をまたれるところだろう。
 そして「三種の神器」などの日本的雇用システムに代表される「日本的システム」の機能不全があるとしたら、それはまさにこのマクロ経済政策の失敗がもたらした「結果」であり、「原因」ではない。
 70年代のスタグネーションや高インフレ下では、野口悠紀雄氏に代表される「構造改革」路線は一定程度の成果をあげたかもしれない。しかし、デフレ下では、「構造改革」は手段を間違えれば彼らの脳裏にある「日本的システム」どころか現実の社会までも危機においやりかねない。
ただ、村上氏も猪瀬氏もこの1940年テーゼに非常なシンパシーを抱いていると思われる一方で、需要不足による日本経済の低迷という認識にも理解を示しており、編集長としてのバランス感覚を評価すべきであろう。
 JMMについていえば、日本経済の停滞を「需要不足」と考えるか、または日本的システムの構造的な問題としてとらえるかで、主要寄稿者の中で創刊以来、主にふたりの人物をめぐって意見の対立がある。前者の立場を代表するのが、河野龍太郎氏であり、後者は山崎元氏が代表している。村上氏は編集長として基本的には後者の見解に立ちながらも両者の意見をうまく仲介している場合も多い。例えば、この両者の意見が鋭く対立しているのが、JMMでもかなりの労力を割いている「雇用問題」をめぐるものである。JMMでは「雇用問題」を、日本経済の景気や経済成長に関連して、教育問題や心理経済学の側面から、またフリーターなどの若年雇用の問題、そして従来の失業などの側面から多彩にとりあげており、それぞれのテーマを特集に単行本も出している。
 例えば、山崎氏は、後に見る黒木掲示板での塩沢由典氏の発言や野口悠紀雄氏の著作にも共通する「構造問題シバキあげ論」とでもいうべきものを展開している。

河野 ただ、日本にだって市場メカニズムはちゃんと働いているのだから、(保護されている)金融機関などの規制業種以外では、淘汰は見られると思います。ある企業や産業が要るか要らないかについては、別に議論しなくても、市場メカニズムがどうにかしてくれる。
(略)
山崎 河野さんが、強制退場させなくても自然に退場していく原理が働いていると言いましたが、それを推し進めて言うなら、現在の不景気というのは非常に良いことだと思うんですよ。結局、会社の仕組み、生産の仕組みというのを含めて、本来であれば変わらなければいけなかったものが、バブルのころに変に景気が良かったものだから延命してしまった。
例えば、鉄鋼や自動車の生産力にしても、自分たちで使えるキャパシティをはるかに超えるものを持つに至ってしまった。それで道路上を埋めつくすほどの車を買うことがいのか悪いのかというと、明らかにいいわけがないんです。
自動車工場で働く人が何割か減って、もう少し違うところに行くようになるということが起きなければいけない。それが起きるためには企業が潰れることもぜひとも必要で、そういう意味では失業率が高くなることももっと肯定的にとらえなければならない。むしろ高失業率と共存できるような社会にならなければいけないのであって、人が無駄なところからそうでないところに移るためには、マクロ的にはある程度の失業率が必要だと思うんです。(強調は筆者)(JMMNo.002 1999年3月22日 村上龍、金融経済の専門家たちに聞く 座談会編 第1回 経済戦略会議の最終答申について)

 このように不況によって従来の日本的システムとでもいうべきものを改変していこうとする価値判断は、「構造改革主義者」に固有の思考形態といえるだろう。しかし不況下で果たして山崎氏が主張するように、「無駄なところ」(非効率的な企業あるいは産業)から「そうでないところ」(=効率的な企業あるいは産業)へ労働者は移動するだろうか。むしろ経済全体が好況であるほうがそのような雇用の流動化は社会的な調整コストを過大に発生させることなくスムーズにいくのではないか? 同様の疑問を河野氏は山崎氏に率直にぶつけている。

河野 僕と山崎さんの意見の違いはほんの僅かだと思うんです。イギリスの銀行が潰れても、イギリス人が他の企業に雇われればそこには何の問題もないと、僕も考えています。僕が考えているのはただその間の調整コストのことだけなんです。山崎さんはそこで市場メカニズムが働くんだったらそれでいいという考えだと思うのですが、僕は山一証券の元社員が他の会社へ移るときの調整コストがどれだけ大きいかを気にする必要があるいう意見なんです。

山崎 調整コストが大きいのは分かっているけど、おそらくは潰れないことによって失っている機会費用のほうがもっと大きいでしょう。

河野 僕も山一証券が破綻したのも仕方ないと思っているんですよ。僕が言いたいのは個別のケースについてではなく、それに対してマクロ的な総需要刺激策をとるかどうかということです。

山崎 それは必要ないよ。総需要刺激策というのは、だいたいにおいて優れてないところに資源を向けるだけだから。

河野 だけどここに1万人の失業してる人がいるとしますよね。その状態と、まったく非効率的な形であっても、例えば、民間よりも効率は劣るかもしれないけれど政府がその人たちを雇用したというのと、どちらがいいのかという比較は成り立ちますよね。

山崎 だから、例えば民間の能率のいいところに人が早く動けるという意味では、余計なことはしなくていいんです。

河野 極端なことを言うと、この問題は、1930年からの10年間であれだけの失業が発生したことを容認できるかという、具体的な話に置き換えることもできると思うんです。
(JMMNo.007  1999年4月26日 村上龍、金融経済の専門家たちに聞く 座談会編 第1回 経済戦略会議の最終答申について)

 私の基本的な意見は河野氏と同じだが、JMMでは、このふたりの「エース」に、バイプレイヤー的で「世間知」に富む北野一氏がいい味をだして座談会をもりあげているといえようか。
 2002年に入り、デフレ不況の解消をめぐって村上、北野、河野、山崎、藤巻健史木村剛の各氏による座談会が設けられた。そこでも河野氏デフレスパイラルの危機を訴え、インフレターゲットと円安政策を主張した。それに対して北野氏や山崎氏はいってみれば「がまん説」(いつか経済の調整過程も終了しデフレも下限に行き着く)を主張した。JMM創刊以来の対立軸があったわけだが、注目すべきは編集長村上氏の視点の変化である。この座談会をもとにした『円安+インフレ=夜明けor悪夢?』(NHK出版)の冒頭で、村上氏は次のように書いている。

 日本経済の将来を語るよりも、自分自身の将来について考えるほうが合理的なのだという確信を得た。そして、バブル以後、識者と言われる人も、専門家といわれる人も、どうして「日本経済」についてその処方箋を披露し続けて来たのだろうという疑問を持った。同時にJMMの方針をマクロからミクロへ少しづつシフトしていこうと決めた。もちろん日本経済のマクロな論議に意味がないと決めつけているわけではない。だが、日本経済が抱える問題をマクロの面からだけ論議することには無理と弊害があるように思う。(『円安+インフレ=夜明けor悪夢?』10頁)。

 もちろん日本経済の諸問題をマクロからだけ見るのであれば適切ではないかもしれない(それでもマクロから日本経済を見る有効性自体は疑いない)。またマクロ的な問題からミクロ的問題に編集方針が移動することもそれ自体は問題でもなんでもない。しかし、村上氏はまた円安やインフレによって日本社会がどうなるかわからず、また他方で円安とインフレによって、「わたしたち一人一人がさまざまに異なった影響を受けるということだ」とし、一人一人への円安とインフレの意味を重視したいと書いている。ここまではなんら問題はない。しかし、私が懸念するのは、それに続いて「繰り返すが、マクロの視点はそういった個別の問いを覆い隠す場合がある」(同書11頁)と発言し、それゆえミクロの問題に編集をシフトさせると表明していることだ。もしマクロの問題を考えてしまうと、円安やインフレが個人の生活に与える影響が「覆い隠」されてしまうならば、それは村上氏が単にマクロとミクロを混同しているからではないだろうか? むしろマクロ的な議論とミクロ的な議論を両方適切に考えなければ、日本経済のどこに問題があるのかさえも十分にわからず、かえって問題が「覆い隠」されてしまうのではないか。私はそう思う。
ともあれ、村上氏がマクロよりもミクロに、しかもここではミクロは「個人」に等しいものとみなされていて、「個人」の資産防衛や個々人の間の「信頼関係」をテーマにJMMの編集がシフトしたことは疑いないようだ。

3 開かれた議論は可能か?

 第×章でも注目した事実であるが、既存のメディアは新聞を例にとれば、朝日、毎日、日経などの社説や記事の論調が「構造改革」中心のものであり、対して読売、産経がマクロ経済政策に理解をしめすという形となっている。テレビや主要経済専門誌などを加えると旧来メディアの主流は、景気対策よりも「構造改革」を重視するというものでありそうだ。ネットの世界では、旧来型のメディアに近い媒体(メールマガジン)では、村上JMMのように「構造改革」が中心におかれていて、マクロ経済政策は否定的かもしくは二次的な位置しかしめていない。しかし、旧来型メディアから離れるほど、その「世論」は「構造改革」至上主義からマクロ経済政策への理解や支持を示すものが多くなっているという印象をうける。もちろん、正しい定義としての構造改革(資源配分の効率化を目指す施策)とマクロ経済政策は、矛盾するものでも対立するものでもなく、きちんと政策割当てがなされるべきものである。われわれが「」つきで構造改革を表記するときは、この当たり前ともいえる政策割当てを無視するような構造改革の歪んだ解釈を指し示している。代表的なキャッチフレーズとしては、「構造改革なくして景気回復なし」とか「ミクロの積み上げがマクロ」といった発言である。後者の誤りは、「合成の誤謬」をきちんと理解していないか現実に適用できていないことから生じる。例えば、個別の企業が業績不振の改善や経営体質の強化のためにリストラを行い、従業員を解雇する場合はミクロの次元では合理的ではあっても、経済全体では失業の発生をうみ出すことにつながる。どうも「構造改革」論者の多くは、正しい政策割り当てや合成の誤謬の論理を侵犯しているかのように思える。もちろん、通説として認められた諸原理を批判したりそれに逆らう命題をきちんと論理的に証明できるのであれば話はまったく異なるものであることはいうまでもない。

(ここで野口悠紀雄氏と浜田宏一氏との『中央公論』誌上での論戦の評価がはいるが、近刊に収録のため省略)

 ネット経済論壇でも、このような(政策割り当てを無視した)景気と構造改革トレードオフと「構造問題シバキあげ論」とが論争の焦点のひとつになっている。その典型例として、2002年の夏に黒木なんでも掲示板2で行われた塩沢由典氏を中心とする掲示板論戦を見ておきたい。この論争にははからずも今日の異なる論争の担い手(リフレ派と構造改革派)の考え方が際立って明らかになった、おそらく日本の経済論争上でも貴重な証拠となるものである。
 ところで匿名掲示板では日々論争が行なわれている。その蓄積は膨大なものである。しかし適当な仕切り役が不在な場合が多いので論点が不用意に拡散したり、議論の逸脱が常態化しているきらいがある。しかし、匿名掲示板ではない黒木掲示板や運営方針を黒木掲示板に準拠している稲葉振一郎氏の掲示板(以下では稲葉掲示板とする)では、黒木氏や稲葉氏が適切な仕切り役として機能しているので議論の論点がどこにあるのか整理されており、参加者やROMする側にも有益である。
 例えば、稲葉掲示板での代表的な経済論戦には、山形浩生氏と小野善康氏との論戦があった。二往復のやりとりでしかないのが残念であったが、山形氏は後にこのやり取りを敷衍して簡単なコメントを自分のHP上に掲示している 。
 経済学者やエコノミストたちが本名を明かして掲示板上で論争を展開したのは、われわれの知るかぎり、この山形vs小野論争以外には次に紹介する塩沢氏を中心とする論争があるだけのようである。この「塩沢論争」は、先にかなり詳細に検討した野口悠紀雄氏の主張と塩沢氏の主張がかなりオーヴァラップする点でも「構造改革論者」のマインドが伺うことができる点で有益なものであった。
 この「塩沢論争」は黒木のなんでも掲示板2において2002年の8月1日に塩沢由典氏 が、野口旭氏を代表するインフレターゲット論者が「デフレの悪」を主張しるが、彼らはきちんと「インフレのコスト」を議論した上でそのような主張をしているのか、という問題提起にはじまる。しかし、この「インフレのコスト」については、塩沢氏は掲示板上で非常に詳細な事例(靴底効果など)を列挙していくが、この「インフレのコスト」自体は論争全体においては副次的な位置しかもたない。むしろ論争の中心点は、塩沢氏が先の野口氏と同様に「景気と構造改革トレードオフ」を、その経済学の背景として有していることを克明にしていく作業として論争は行なわれている。
 「塩沢論争」の参加者は掲示板の特徴を反映して異分野のものが参加している。黒木玄(数学者)、すりらんか(掲示板上では経済学者)、山形浩生(評論家)、岡田靖エコノミスト)、M.ミサコ(会社員?)らである。
 そもそもの「インフレのコスト」については、論争の参加者(あえていうなら塩沢氏以外)は、経済学の通説的な理解どおりにせいぜい一ケタ程度のインフレには明確なコストがないことを主張している。そしてインフレターゲットへの批判としての「常套句」ともいえるハイパーインフレの可能性については、次のすりらんか氏の塩沢氏への返答がすべてを要約しているといえよう。

すりらんか氏の発言からの引用:

「止められないハイパー化の前に必ず「インフレが加速するがそれはすぐに阻止できる(というか手を離せば元に戻る)」領域があることになる.これを機能させるためにも日銀の政策目標の決定ルールとその達成手段の独立……そのためのインタゲ法制化が必要であると思います.」


 多くのインフレターゲット反論と同じように塩沢氏もまた大阪大学での講義ノートである「日本経済論入門」http://ramsey.econ.osaka-cu.ac.jp/~Shiozawa/nikkei/yoshi.htmlで次のようなインタゲ=ハイパーインフレ論を展開している。

「調整インフレという誘惑
P.クルーグマン教授が唱え、日本にも追随者がでた。3月の参議院予算審議中やその公聴会でも、類似の要求がでている。
クルーグマンは外から眺めて、勝手なことを言っている。インフレで借金をパーにするといった甘いことを考えると、結局は超インフレを招き、日本経済はがたがたになる。
インフレ・ターゲット論
いくつかの国で採用されているが、インフレ抑制の目標であって、デフレをインフレに切り替えようという話ではない。日米構造協議がバブル経済を招いた反省がクルーグマンやその追随者にはない。」

 これは塩沢氏自身も認めているようにきわめてラフなものではあるが、しかしこれらのインタゲへの反論は、ネット上や旧来のメディアでも頻繁に目にするものである。掲示板の主宰者である黒木氏はこの塩沢氏の見解に対して次のように書いている(ちなみに上の講義ノートは塩沢氏が提示したものではなく、黒木氏が論争の資料として検索して提起したものである)。これも長文だが、インフレターゲットへの妄想にも似た反論への適切な解答として重要なので引用しておく。

Id: #b20020805091532  (reply, thread)
Date: Mon Aug 05 09:15:32 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020805054342
Name: くろき げん
Subject: インフレで借金をパーにする? 結局は超インフレ?


略)

ほとんどのリフレ論者がすすめてるインフレ目標値は高々3%です。クルーグマンだけは例外的に4%という「高め」のインフレ目標を設定するべきだと言っている。年に数パーセントのインフレで「借金をパー」にできるはずがない。景気が回復して完全雇用が達成される頃には金利もじりじり上昇することになるでしょう。

個人的には思い切った金融緩和をやる場合にはインフレ率の上限を定めたインフレ目標の設定は必須だと考えています。インフレ目標抜きの大規模量的緩和に私は反対です。インフレ目標付きのリフレ政策を批判するときに、ハイパーインフレが起きると脅すのは止めた方が良い。

さらに、インフレ目標を採用している国の目的はインフレ抑制である、とお考えのようですが、それは事実でしょうか? もしもそうならば、インフレ率の上限だけを定めておけば良い。しかし、実際にはインフレ率にプラスの下限を定めている国が多いのです。たとえば、以前のイギリスでは「2.5%以下」となっていたのですが、現在では「以下」が取れて「2.5%」を目標としている。ニュージーランドは 0〜3%、カナダは 1〜3%、スウェーデンは 2%±1%、フィンランドは 2%、オーストラリアは 2〜3%、スペインは 2% を目標にしています (インフレ指標の選び方の説明は面倒なので省略した)。

実際、ニュージーランドでは、 1998年末から1999年にかけてインフレ率がマイナスになってしまったときに強力に金融緩和を行なってインフレ率を上昇させて目標の範囲内に戻しています。ずっとインフレに苦しんでいたニュージーランドでさえこうなのだ。

インフレ目標値に0以上もしくはプラスの下限を設けることが主流になっているのは、インフレ率が上昇することだけではなく、インフレ率が下がり過ぎてしまうことも恐れているからです。

「日米構造協議がバブル経済を招いた反省」の「反省」の内容も大いに問題です。

もしも、引き締めるべきときに緩和ぎみの金融政策を続けたり、緩和すべきときに引き締めぎみの金融政策を続けたりしていたことを問題視するのであれば正しいと思います。しかし、上の引用を見るとこういう「反省」とは全然違うようですね。

1980年代後半に無用に緩和し続けたことがバブルの原因の一つ (もちろんそれだけではない) であることは間違いないでしょう。ところが、バブル崩解直後に危機感が薄い日銀は十分な金融緩和を行なわずに引き締めぎみの金融政策を続けてしまった。その結果、マネーサプライの伸び率はまるでジェットコースターのように上がったり (バブルの原因)、下がったり (その後のデフレの原因) しました。 (この点に関しては、三木谷良一+アダム・S・ポーゼン編、清水啓典監訳、『日本の金融政策』 (東洋経済新報社) が参考になります。特に、その中の地主・黒木・宮尾論文が参考になる。地主・黒木・宮尾はデフレ脱出のためのインフレ目標政策には反対の立場です。たとえ、リフレ政策に反対であったとしても、日本の金融政策がおかしかったことを厳しく指摘している。)


 しかし、論争はインフレターゲットがもたらす「コスト」が、実は「景気と構造改革トレードオフ」であったことが次第に判明してくる。塩沢氏の発言を引こう。

Id: #b20020823211533  (reply, thread)
Date: Fri Aug 23 21:15:33 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020803104700
Name: 塩沢由典
Subject: 私の考えるインフレのコスト(2)

略)

わたしが、デフレとか不況から早く抜け出すことが最重要課題とは考えていない。いま重要なのは、デフレや不景気から抜け出したとき、日本がしっかりした経済をもてるようにすることだと考えている。こんなことをいうと、野口旭氏は、「それ、構造改革至上主義」というかも知れない。しかし、わたしは小泉首相ではないから、「構造改革なくして景気回復なし」とは考えていない。構造改革しなくても、景気回復はあるかも知れない、できるかも知れない。しかし、そうした景気回復は、問題を先送りにする。野口旭氏の好きそうなレッテルをもうひとつ提供すれば、それは「悪い景気回復」だといってもよい。

略)

日本経済は大きな状況転換に直面している。それは日本人のこれまでの考え方、暮らし方、価値観の見直しを迫る大問題だ。簡単にいえば、日本は、1980年代に世界のトップラナーに踊りでた。ひとつの証拠は、一人当たりのGDPが世界一となったことだ(人口1千万以下の小国はのぞく)。それまで、約100年間、日本は、後追い経済にあった。つまり、つねに自分より前を走る経済があり、それを追いかけることで成長できた。この追い上げ(Catch Up)に、日本と日本人はきわめて高い成果を上げた。しかし、現在は、日本は、トップに立っている。トップに立っているのが一国だけとは限らないが、日本がトップに立っていることは間違いない。他方、韓国や中国などは、かつての日本の追い上げを見事に再現して、日本に迫っている。もはや低賃金や長時間労働人海戦術では、間に合わない。いま、日本に必要とされているのは、トップラナーにふさわしい新技術の開発であり、新商品・新サービスの市場化であり、生産性を飛躍的に向上させる工夫である。これらは、横並び・横にらみ・後追い・底上げ・平均主義などの見直しを迫っている。これは、経済だけの問題ではなく、教育や人事制度、給与制度、意思決定制度など、社会のほとんどの領域にまで及んでいる。

不況・倒産・失業は、たしかに、痛い苦痛であるが、2002年の現在に至っても、なお日本人の大部分の習慣は変わっていない。経営者は無責任であるし、強力なリーダシップも発揮していない。問題は、なにも国家財政だけではない。法律から独立な企業の制度・慣行も問題なのだ。

わたしがいま一番重要と考えていることは、こうした状況転換(モード転換)に対応する思考の習慣を切り替えること、新しい状況にふさわしいものに革新することである。こうした重要問題を放置して、見掛けの問題解決を図ってはならない。インフレ・ターゲットは、もしその主張者たちがいうようにうまく成功したとしても、結局、バブルに踊った企業経営者たちを無罪免責するだけである。

 塩沢氏は自らを「異端」の経済学者とし、野口旭氏らを「正統派」としているが、今日の日本の経済論壇の「正統派」である野口悠紀雄氏らのような「構造改革主義者」とまったく同じような「一九四〇年体制論」の変形(日本的システム限界論)や「構造問題シバキあげ論」に近い発想をしているのは興味を引く。私の意見でいえば、塩沢氏は「異端」ではなく、そのマインドではまさに正統派ともいえようか。ともあれ「悪い景気回復」という言葉に典型的に表現された「景気と構造改革トレードオフ」をめぐって、論争は収束していった。

Id: #b20020826113633  (reply, thread)
Date: Mon Aug 26 11:36:33 2002
Name: 岡田靖
Subject: 塩沢さんにお尋ねしたい「元来の論点」

略)

塩沢さんは、

インフレターゲット論の人たちは、デフレの悪を盛んにいうのですが、イン
>フレの悪について、どのくらい理解しているのでしょう。アメリカで作られ
>た経済学の教科書をみますと、その第一に「靴底効果」なんていうものが出
>てくるので、あきれ返ります。頻々に銀行にいくようになり、靴底が減ると
>いうのです。これが100番目ぐらいの理由ならまだしも、これを第1の理
>由に挙げて恥じない経済学者がいるのです。黒木さん、みなさん、どうお考
>えですか。

という問題を提起しましたが、これが議論すべての発端です。これに対し、私やすりらんかさんや黒木さんなどが、「インフレがマイルドなものであれば、靴底効果くらいしか観測されたことはない」と主張し、デフレのコストである「不況」の方が、比較を絶して大きいと主張しています。これについては、歴史的な経験からもサポートされることは否定できないでしょう。

さて、これに対して、塩沢さんは、「構造問題」(と明示的に述べておられるか否かは別にして、いわゆる構造問題として挙げられる雇用慣行やベンチャービジネスの不振を不況の原因ないし不況脱出を困難とする原因として挙げておられるので、世間知的には塩沢さんが「構造論者」であることは間違いないと思います。もちろん、複雑系経済学の見地から、自らは構造改革論者とは異なると主張されるかもしれませんが、それは私たちのようなインフレ政策論者を「調整インフレ論者」に分類するのが世間知ですし、塩沢さんも講義録でそのように主張されているので問題はないでしょう)を解決することなしに、インフレ政策が成功すると、そのこと自体のコストが膨大だと主張していらっしゃる。

いうまでもないことですが、通常、経済学で考える「政策の社会的なコスト」とは、実質GDPや失業率あるいは代表的個人の将来効用の現在割引価値などで評価したその機会費用のはずです。インフレ政策の「成功」した場合には、こうした効果は費用ではなくプラスに利くわけです。

ここから、塩沢さんの考えていらっしゃるインフレ政策の費用とは、経済計算の対象ではなく、倫理とか正義とかいった超経済的な価値で測られるものだと解釈できるのですが、いかがでしょう?

略)

この岡田氏の要約的な指摘はまさに小泉首相ジェノバサミットでの発言「改革せず景気が先だと言って、景気が回復したら、改革する意欲がなくなってしまう」や、村上MMでの山崎元氏の発言、野口悠紀雄氏の著作での発言、さらにこの塩沢氏の発言などに共通し、おそらく経済学的な専門を異にしたり政治的な立場さえもある程度は超越して、現代の日本の最大のイデオロギー(「景気と構造改革トレードオフ」)を的確に要約していうといえる。倫理とか正義によって、失業や景気の悪化という経済上のコストを犠牲にするという価値観は私には到底理解できないし、賛成もできない。そのような超越的な価値観には、この掲示板論争に参加した「市民」M.ミサコ氏の次の発言が核心をついたまっとうな意見に思える。

Id: #b20020825213925  (reply, thread)
Date: Sun Aug 25 21:39:25 2002
Name: M.ミサコ
Subject: 私のお答えと再びの疑問

略)

リフレ政策で景気が回復すると不良債権問題が改善されて、そうなると経営陣の責任追及の余地があやふたになると。これも景気が回復しようがしまいが、その問題とは関係なく追求するのであれば追及すべきです。景気を人質にしてはいけません。

 私がネット経済論壇に期待したいのは、この岡田氏やM.ミサコ氏に代表される経済学者の隠された価値観の不当なあり方を世間に知らしめることにあると思う。旧来のメディアでは、論争が行なわれても野口悠紀雄氏と浜田宏一氏との『中央公論』論争におけるようにせいぜい二往復が限界であり、量も限られると同時に時間的にも間が空いてしまう。また編集者やテレビの司会者、CMが介入して、論争の筋道が仕切られることがままある。しかし、多くの掲示板では、そのような余計な媒介がないことで、この「塩沢論争」のように、今日の日本のイデオロギーの典型であるような「景気と構造改革トレードオフ」をあぶりだすことに成功することもあるのである。そしてこのような不合理なイデオロギーには、「景気を人質にしてはいけない」という至極まっとうな「世間知」(「専門知」でも無論である)をつきつけなくてはいけない。
 もちろん手放しでそのような掲示板論戦を賞賛しているのではない。様々な危険とコスト(時間の無駄を典型とする)を孕んではいるだろう。しかし、旧来メディアが分業の失敗を本質的に抱えている今日、その間隙を埋める役割の一助をネット経済論壇がもつ効用はやはりきわめて大きいといわざるをえない。