ハイデッガーとシュペングラー


  ハイデッガーの新しい翻訳『ハイデッガー カッセル講演』をパラパラ読む。ここにはハイデッガーのシュペングラー評価が書かれていていたく興味をひきました。最近の僕の関心は一貫して文化相対主義を批判的にみること、というものです。特に経済思想史的文脈でいえば、三木清笠信太郎の問題をどう扱うか、その論脈の中でのハイデッガーニーチェ、シュペングラーの位置づけです。そして彼らの立場を批判的にみる際に採用している見解は、以前のエントリーにも書きましたが、真理の実践性に注目した見方です。これは帰結主義的ともいえる見解だと思います。この真理の実践性を経済学に適用したのが、石橋湛山高橋亀吉であったり、American Economic Reviewなどでミニ特集を組まれた「プラクティカルマクロ経済学」の立場などに示されている立場だと思います。経済学的な方法論については、高橋亀吉の『実践経済学』や、フリードマンの有名な論文『実証経済学の方法論』に詳細です。


ハイデッガー カッセル講演 (平凡社ライブラリー)

ハイデッガー カッセル講演 (平凡社ライブラリー)


 ところでこのハイデッガーのカッセル講演では、シュペングラーの『西洋の没落』における文化相対主義を好意的に引用し、諸文化によって真理が異なること、それを明らかにする観点としての「歴史」への注目が上げられています。そしてシュペングラーでは「歴史」をもって諸文化の真理をみているその観点そのものへの考察が欠如していることをハイデッガーは指摘しています。


 この「歴史」をもって「真理」をみているもの(=存在者の本来性を意義づけるもの)自体を考察する上で、ハイデッガーが重視したのが「存在の歴史」です。シュペングラーの立場は、文化ごとに異なる「真理」「非真理」の判別を「文化の魂」で選別している。しかし「文化の魂」自体は生物学的に理解されていて、「歴史の植物学」という「審美的な(自分のあり方を問われることなく対象を静かに観察し感受する)考察」にしかすぎない。「そこでは、自分固有の現在はそれ自身、ほかのさまざまな現在とならぶ一つの現在でしかありません」。


 「自分固有の現在」=現存在の実存的構造に、ハイデッガーはそういう言葉は使わないけれども特権を与えるのは、この「存在の歴史」を“自ら”に見出すことです。

「哲学的研究は現代や現在にたいする批判という性格をもたなくてはなりません。根源的に開示されると、過去はもはやたんに[現在に]先行した[かっての]現在ではなくなり、過去を自由に[生きたものに]する可能性が生まれます。その結果明らかになるように、過去とは、私たちが自分たちの実存のさまざまな本来の根を見出す場所であり、生命力にあふれたものとして自分自身の現在のうちに取り込むものなのです」(115頁)。


 生命力にあふれたものとして過去が自分の中に取り込まれるには、その過去が「存在の歴史」であることがハイデッガーには欠かせないことだと思います。ところで「存在の歴史」とはなんでしょうか? はじめに立ち返りますと、個々の文化には歴史がある。この歴史ごとに真理がある。


 しかも共通したなんらかの真理への模索(≒公共性)はいわば非本来性にさらされている、とハイデッガーは指摘します。だが他方でハイデッガーは「存在の歴史」を個々の歴史=存在者の来歴の中でその本来性への参照基準として重視しているわけです。この「存在の歴史」自体は公共性から遮断されていることになります。このとき個々の存在者の参照する「存在の歴史」とはそもそも、個々の「存在の歴史」ではないか? それがただひとつの「存在の歴史」となったのは、そのほかの諸「存在の歴史」を闘争の果てに封殺したからではないか? 


 いいかえるとハイデッガーもそしてシュペングラーも事実上はそうだと思いますが、彼らの文化相対主義というのは諸「存在の歴史」の闘争の果てにただひとつの「存在の歴史」を選別する、そういう過程が暗黙に想定されているのではないか、と思いました。


 これをもう少しいままでの三木清らの議論に接続させてみると、それは東アジアの諸文化=諸「存在の歴史」に根差す文化依存型真理を尊重するという言明の一方で、実際にはその諸「存在の歴史」をたったひとつの「存在の歴史」=大東亜共栄圏での日本の来歴 の下に統べるあるいは他を排除する論理が本来的に希求されていたのではないでしょうか? もちろん私からするとそんな「存在の歴史」観自体が空虚なものにしかすぎないと思いますが。