報告資料「住谷悦治と吉野作造―東大講義から『閑談の閑談』まで―」in日本経済思想史研究会(吉野作造記念館)

 本日の報告資料を以下に掲載。無断引用は厳禁。

住谷悦治と吉野作造―東大講義から『閑談の閑談』まで―
田中秀臣上武大学
はじめに

 住谷悦治(1895-1987)は、日本経済学史研究の先駆者のひとりであり、また戦前は学者・ジャーナリストとして、戦後は同志社総長として著名であった。住谷悦治の生涯とその活動については、報告者は『沈黙と抵抗 ある知識人の生涯、評伝・住谷悦治』(藤原書店、2001年)を著した。
 今回の報告では、住谷の大学時代の師であった吉野作造(1878-1933)との思想的な関係を重点的にとりあげる。その資料面での理由としては、拙著刊行直後に、群馬県立図書館での書庫調査時に発見した、住谷悦治筆記による東京帝国大学での吉野作造述の講義ノート(「政治史」1919年度講義、1919年秋―20年1月まで)を活用できること。さらにこの資料に立脚した上で、吉野と住谷の思想的結節点−国際的な民主主義観とクロポトキンの社会改造論への評価ーを考察することが新たにできたからである。
 この吉野から継承した国際的な民主主義観、クロポトキン的な社会改造論は、住谷のジャーナリズム活動、部落問題などへの取り組みなどにつながった。
 さらに住谷の日本経済学史研究における吉野作造明治文化研究との関連も再検討する。吉野の最晩年の著作『閑談の閑談』から読み取った実証的精神に、住谷は深い影響をうけていた。ただし、住谷の実証的精神は、「実証主義に立つ理想主義」の一側面であった。
 住谷は、吉野的なデモクラシー論とはマルクス主義との接近によって離反したかに見える。だが、住谷の社会問題への視座の根底には、吉野と同様の「人格主義」の徹底による人間的解放の論理が、生涯持続した。

1 住谷悦治と吉野作造の関係

 「学問というもの、思想というものについてはじめて眼が開かれたのは大学時代になってからで、最初の学恩は刑法の牧野英一先生に、ついで政治史の吉野作造先生に受けている」「吉野作造先生は私の学生時代の宿舎であった帝大YMCAの理事長であり、二高の大先輩として保証人になっていただいたのみか、糊口の面倒までみていただいた生涯の恩師である。「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」という大正五年一月の『中央公論』の大論文は、わが国のデモクラシー理論の劈頭を飾る文献であるが、当時の法学部生の社会観を一変せしめるほどの力をもって迫ったものである。吉野・牧野両先生の民主主義の立場はまづ私の萌芽的な社会思想の基本的な地盤を築いたといってよい。もちろんその後、マルクスエンゲルスの諸著書、特に『空想的・科学的社会主義』、『哲学の貧困』、『反デューリング論』、『家族・私有財産および国家の起源』、『共産党宣言』の熟読によって吉野・牧野イデオロギーを、自分では乗り超えたつもりであるが、それにしても私の思想系譜における太い線をもって心の底につながっている」(住谷(1967)146-7頁)。

吉野作造の人柄との交感
 分け隔てのない開放的で優しい人格。他方での痛烈な政治的批判(「帷幄上奏論」など)。
 学生想い。経済的援助(原稿料での支援、韓国留学生への支援など)、住谷の就職先の照会、生活上の細かい助言まで。

2 吉野作造講義ノート

 住谷に影響を与えた吉野による政治史講義(1919年度講義<1919年秋-1920年1月14日(?)>)。
 田中が書庫再調査時に発見(2002年頃?)。『近現代日本人物史料情報辞典』(2004)の寄稿で公表。伏見岳人氏からの連絡。『吉野作造政治史講義』(吉野作造講義録研究会編)での紹介へ。採録はされず。

 住谷ノートの意義
1 1919年、20年は吉野作造の思想的転回として指摘されていること
2 戦争による思想の変化、国際的民主主義、クロポトキンへの高い評価
3 住谷悦治への影響
 
 ノートの表紙には「政治史 第一 政治科一年 住谷」と記載(画像参照。2002年頃コピーしたものを撮影。以下同)。ノートの表4には「犯罪の諸型」などと紙片が貼り付けられてあるがノート本文に記載なし。

第一頁「東京帝国大学教授 法学博士 吉野作造述 政治史」


本文 1頁
 ノートは基本的に右開きで、左側は余白(注釈やメモあり)。

吉野博士第一回講義[開講ノ辞]
 「戦争ヲ中心トシテノ政治思想ノ変動。(国際政治。思想ノ変動)」

 第一次世界大戦を例に、共通の敵(独逸)を打倒するための諸国間の連携とそれぞれの国益の不一致の指摘。「十九世紀文明ノ煩悶。国ト国トノ対立競争ト、提携共同精神ノ萌芽トノ矛盾。コノ煩悶ノ解決――今度ノ戦争」。
 「戦後後ノ大思潮」として、アナーキズム、イギリスの炭鉱国有論(労働組合問題)、宗教的精神(相互依存の拡張)を指摘している。

 「吉野博士講義大要」として全五章の概要が列挙されている。「第一章 戦争ノ勃発」「第二章 欧州最近ノ国際関係(的緊張)」「第三章 十九世紀文明ノ内面的煩悶」「第四章 ?建設ノ思想」「第五章 講和会議」となっている。ただしノート本文では、「第一章 戦争ノ勃発」「第二章 欧州最近ノ国際的緊張」、第三章、第五章の章題なし、「第四章 戦争ノ進行二伴フ平和ノ曙光」となり、見出し的なものとして「大正九年一月十四日」時の講義が記され、そこではクロポトキンの思想が詳述されている。

 ノートでは住谷の筆による吉野作造の似顔絵も記載されている(画像参照)

 講義内容の骨子は、当時、吉野が公表していた様々な時論での国際認識と共通している。従来の公表されている講義ノートとの違いは、第一次世界大戦の遠因、開始とその過程、講和会議での終結までをまとめて扱っていること。この総力戦的状況によって生じた国際的な民主主義の伝播、そして「改造運動」の中でもクロポトキンの貢献に特に注目していることである。

国際的な民主主義の広がり
 「従来ハDemocracyノ運動ハ政治的ニ表ハレタ。コノ頃ハアラユル方面二アラワレル精神ニツイテ云フ」「逆レドモ19centuryノpolitical Democracyハ根本ノ精神アリテソレガPolitical二表レタルナリ。根底ガ在る故二他ノ方面一般二表ハレテソノ波及ヲ許サズ。ヨツテinternational democracyトナラザルヲ得ズ」「偏狭ナル国家主義ヲ排ス。精神的ニカカル思想ノ発スル基礎アリ。ハジメハ相互尊敬ニ発ス」「文化的価値ガモノヲ云フ(international democracy)」。

クロポトキン思想の高い評価(1920年1月14日講義)
クロポトキンノgreatness!!」「金アレバヨシ、強クアレバイイ ト云フ弊害。力ガ最後ノ発言権ナルコトヲ捨テ去レヨ!!、叫ビ」「ソシテクロポトキンノ思想ノ偉大アリ」「社会生活ノforceヲ破壊セヨ! 団体生活ソノモノノ破壊ニアラズ」。
クロポトキンバートランド・ラッセルの思想的継承。天皇のあり方についてなど、吉野の論説「クロポトキンの思想の研究」(『東京朝日新聞1920年1月19日掲載)と重複し、時間的前後関係から同論説のひな形だと考えられる。

住谷悦治への影響
 政治史講義の生涯にわたる影響。
 国際的な民主主義運動への志向→『クラルテ』の発行、『現代新聞批判』における国際的な反ファシズム運動への参画など。
 東大での森戸辰男擁護の集会での吉野の講演(1920年1月15日)。
 「政府当局の森戸助教授への弾圧の最中に、吉野博士の為したるこの一場の演説こそ勇気なくて克く為しうるものではない」(住谷(1969))。
 森戸論文からの深い影響。
 「吾人の究極理想は無政府共産主義にあらねばならぬ。そしてこれは一つの信仰である」(住谷一彦(1995))。
 
3 日本経済学史への影響
 
 住谷の日本経済学史の特徴。
明治以降から1930年代頃までの日本経済学史に関する先駆的業績。
 実証主義かつ理想主義(図式的)。
 「日本における経済学の発達の歴史をみるに際し、まず、欧米諸国から導入された自由主義経済学の成立をテーゼとして受け止め、それを批判した日本社会政策学会(歴史学派)をアンチテーゼと理解し、それをまた対抗したマルクス主義というふうに思想の弁証法的発展ということを考えていたわけです」。
 吉野作造明治文化史研究からの影響。吉野『閑談の閑談』(1933)に収録された「スタイン・グナイストと伊藤博文」の細密な分析に、住谷は感銘をうける。群馬県立図書館所蔵の住谷文庫所蔵の同書同論文には、住谷の熟読の跡が鮮明。

 住谷の日本経済学史研究における実証主義的側面に、吉野の明治文化研究の影響をみてとることができる。住谷の日本経済学史研究における理想主義的側面(弁証法的展開)は、住谷のマルクス主義の受容のあり方、赤間信義との共訳書『近世ドイツ経済学史』(ブルーノ・シュルツ著)と関連が深い(田中(2001)参照)。
 
4 部落問題との接点

  デモクラシーから無産階級運動の理解へ。部落問題を支点に。

 高橋貞樹『特殊部落一千年史』(1924)からの影響。

「僕らデモクラシーを勉強したんですが、高橋貞樹さんの「特殊部落一千年史」というのを読むまでは、本当にどういう風にして解放していっていいのか。方策も何もわからなかったのですね。あれは無産階級運動と結びつかなければ、ということでしたね。ただ個人的に不平をいっても仕様がないんだ、というようなことで。あれを読んで私は何か方策がついたような気がしてね、確信をもって解放運動てものにたずさわる、あるいはそれが一翼をなしてゆくと考えましたけども、無産階級それ自体が、非常にさける傾向があったんですね。そういうことでずい分問題が残ったと思うんですけれどもね」(住谷他(1967)、56頁)。


 水平社運動との関わり。奈良県水平社第一回夏期講習会(1923年)への山本宣治、阪本勝と共に参加・講演。

 「そのときわたしは国家論についてのべた。そのころ階級国家論などを講演するのはすこぶる危険であったけれども資本主義国家は、その本質上階級的であり、無産階級にとっては冷淡であり、無産階級の一翼である部落問題に対しても冷淡であり、部落解放の問題は、デモクラシー運動の一翼として参加すべきだ」(住谷(1958))

 「私が社会問題とか社会改造とか、社会主義とかいうことはもう空論であってはならぬ。こういう部落解放という切実な社会の現実から出発せねばならぬことを痛感した。水平社問題は、私の社会問題への関係を有った最初の実際の手掛かりを与えてくれた」(住谷(1958))。

 吉野的なデモクラシー論からの離別、福田徳三的な生存権の社会政策への冷淡な態度。

 福田徳三的な生存権の社会政策について、理念的であり、実践的なものではないと否定(住谷(1934)、住谷(1958)等)。

社会政策自体はそもそも「上からの政策」であり、「社会資本の自己保存の政策として一定の限界がある」「国策一般が、階級的立場を真に払拭しておらない」(住谷(1950/1954))。


 戦後の部落問題への視座

日本国憲法法の下の平等生存権の保障に対しては冷淡。

 天皇制との距離によって生み出された人間の差別意識=魔術(マギー)=呪術(住谷(1950/1954)他)。魔術からの人間的解放。
 
 「部落解放問題は、第一に、根本的には、被圧迫階級としてのこのプロレタリアートの解放運動の線に沿ひ、これと合同しあるいは協力してのみ、自己の真の人間性の奪還が実現されるであろう。第二には、そのような政治運動と並行して、直接に部落民みずからが、自主的解放運動を、社会全般に向つて、社会のうちから巻き起こさなければならぬであろう」(住谷(1950/1954))。

 無産階級の真の人間的解放は、「部落民の真実の解放を無視しては絶対に不可能であるからである」。

 「人間的解放」とは何か?

 吉野作造と住谷悦治の「人格」の捉え方。人格関係(森有正)としての把握。

 科学的真理と宗教的真理の統一。

内村鑑三は、近代的な自我の在り方(自己中心主義)への批判として、「先ず聖き神の正義を以て自己の良心を撃」たれることが重要だと述べた。神の正義を通しての自己中心主義やニヒリズムの超克。内村は「神」を通しての人間と人間の相互の社会的関係の構築についてもふれている。

「各自異なりたる霊魂の所有者であるからである 略 それ故に人は直に人に繋がる事は出来ない。縦令親子と雖も然りである。人は神を通してのみ相互に繋がることが出来る。下の図1を以て之を説明することが出来る


甲と乙とは如何にして親しき身内なりと雖も相互に一体たる事は出来ない。一体たらんと欲せば、甲乙各自先づ霊魂の父なる神に繋がり、神に在りて一体たることが出来る」(内村鑑三「霊魂の父」1929)。

 この内村流の「神を通しての人間関係観」を、宗教ではなく客観的な「宗教的真理」の問題として、住谷は捉えなおした。

 住谷は図1に類似した図2を掲げて以下のように書いている。


「友情が成り立つためには、必ずまず人格の自覚がなければなるまい。この歴史的現実において、この一つの生命を、如何に生くべきか。この内的な反省と、置かれたとことの歴史的、客観的世界との自覚が必要である。単なる「我」のめざめ、単なる「魂」の自覚だけではない。新しい意味での友情は、人格の自覚ーー個性の自覚ーー個性の成長をどの第一点とするけれど、この個性の人格的結びつきが、社会・歴史的な共同目的において共通なものであることが大切ではあるまいか」(住谷(1997))。

 図1と図2では「神」や「共同目的・理念」=友情 を通じて人々が社会的関係を深め、そして同時にこの「神」や「共同的目的・理念」が一種の客観的な真理である、という観点が明示されている。

 このような図1と図2での三項図式を、森有正は『内村鑑三』(1976)の中で次のように「人格的関係」として形容している。

「私はそれ(内村の述べた人と神との関係 引用者注)を具体的現実的な人格関係そのものと呼ぼうと思う。それは西欧流の、ことにエラスムスモンテーニュにはじまる、人間の自己完成を追求するヒューマニズムではない。人格概念ではなく、人格関係たるものである。それは、あらゆる分析と総合以前の、それらの主体となるべき人間そのものの在り方である」。

 住谷は「友情」だけが「共同的目的・理念」の中味ではなく、「貧困よりの自由」「失業よりの自由」、そして「社会主義社会の実現」などを候補にあげた。

 住谷はこの三項図式による社会のあり方(彼は別な表現で「環境的・歴史的必然への被縛性」と名づけている)への理解がすすむことで、「社会における自由」の獲得につながるともいっている。つまり自由を求めるほどに環境的な被拘束性(三項図式的な人間社会のあり方)への自覚がすすむとされている。

 「共同的目的・理念」をデモクラシーに置き換えたときの吉野作造との共通性。

「デモクラシーの本質が人格主義であると云へば、吾々は直にデモクラシーと基督教の密接なる関係を連想せざるをえない。デモクラシーの依つて立つ処の理論的根拠は何かと云へば人格主義である。従てデモクラシーを徹底的に実現せしめんが為には、人格主義の理論に密接なる根底を置かねばならぬ。然し乍ら理論の徹底は直に実現の活動力とはならぬ。デモクラシーが徹底的に社会の各方面に実現する為めには、人格が人類の間に生きた信念として働て居ることを必要とする。理論は之よりかかる信念の活動力を助けるに相違ない。然し活動力の本源は何処までも之を宗教的信仰に求めねばならない」(吉野作造「デモクラシーと基督教」(1919/1995))。

 吉野作造と住谷悦治の人格(的関係)主義。継承? たまたま偶然の一致?
 吉野と住谷の人格的関係主義の今日的可能性。


参考文献

住谷悦治(1934)『日本経済学史の一齣』大畑書店
住谷悦治(1950/1954)「部落民の人間的解放」『私のジャーナリズム』積慶園1954年所収、200-211頁。
住谷悦治(1958)『日本経済学史』ミネルヴァ書房
住谷悦治(1958)「水平社第一回夏期講習会」『部落』10巻5号91-93頁。
住谷悦治(1965)「経済学史研究の原点を顧みてー堀・住谷両会員をかこんで」『経済学史学会年報』第3号。
住谷悦治(1968)『同志社の一隅から』法律文化社
住谷悦治(1969)『あるこころの歴史』同志社大学住谷・篠部奨学金出版会
住谷悦治(1970)『鶏肋の籠』中央大学出版部
住谷悦治(1997)「学生生活と友情」『住谷天来と住谷悦治―非戦論・平和論』(住谷一彦。住谷馨・手島仁。森村方子編著)みやま文庫
住谷悦治・藤谷俊雄(1967)「天皇制と部落差別」『部落』19巻1号48-57頁。
住谷一彦(1995)「吉野作造と住谷悦治―父の日記から」『吉野作造選集』月報8岩波書店
田中秀臣(2001)『沈黙と抵抗 ある知識人の生涯、評伝・住谷悦治』藤原書店
森有正(1976)『内村鑑三講談社
吉野作造(1933)『閑談の閑談』書物展望社
吉野作造(1975)『吉野作造評論集』(岡義武編)岩波書店
吉野作造(1995)『吉野作造著作集1』岩波書店
吉野作造講義録研究会編(2016)『吉野作造政治史講義』岩波書店