三重野元総裁の「人事」と本石町日記へのある感想


 そういえば例の「本石町日記」で今年最も興味深く思ったのは、ゼロ金利解除のときの日銀・市場関係者の「夏・冬休みの見通し」「日銀は人事で金融政策どころではなし」というコメントの応酬。まあ、他方でゼロ金利解除が今後の日本経済や生活にどう影響するかを懸念する報道やコメントを多くみてたので、この本石町日記のコメントのある種のまた〜り感にちょっと温度差を感じて、まあ、ナイーブといわれるかもしれんけど、ちょっとがっくときたのが正直なところ。


http://hongokucho.exblog.jp/m2006-07-01/#5263818


 これなんで急に想いだしたかというと、粕谷氏の本に三重野元総裁の発言が引用されていて、吉田満の評価として(吉田が日銀内で不遇なのは)「彼は人事を気をしすぎたのではないかな」というものが紹介されている。粕谷氏はこの三重野氏の発言を「他人の噂や評価を気にしない」三重野氏らしいものとしてうけとる一方で、吉田の人間への好奇心や温かい配慮として三重野氏の評価に反論している。


 僕は逆に三重野氏が(粕谷氏の評価とは異なり)むしろかれこそが人事を気にしていることの表れではないかと考えている。三重野氏の評価は吉田の作品の大半を「余計なもの」として切って捨てることで、ここでなんどか出ているある日銀マンの発言(粕谷はそれを日銀の体質そのものと理解しており、私やFellow Travelerさんはその粕谷の解釈に共感しているといえよう)の過去を捨て去るマインドと共通するものをもっている。粕谷氏も同様な意見で三重野氏のこの吉田作品への評価を批判しているが。


 吉田にとって「人事」とは、すでにいなくなった人、目の前の人、社会の過去と現在・将来すべてに対する「人事」への関心でありそのひとつの結晶が彼の作品だったのだろう。そして三重野氏にはそのような「人事」は「余計なもの」であり(なぜならそんなことを気にすると日銀内で出世できないから)、さらにそれゆえに吉田は日銀の中で「失敗」とみえたのだろう。三重野氏の発言は彼の「日銀内での人事」への関心の高さと読めるのよ*1


 いやね、日銀のみならず多くの人の生活にも影響するだろうゼロ金利解除の日に(日銀関係者と利益関係者の皆さんが)休暇や人事に関心がいくっていうのも、まあ、人間への大いなる関心かもしれないし、それをネットで読めるのも大いなる人間観察として興味深いんだろうけどさ(現にこうしてその観察を活かさせていただいておりますしw)。ルサンチマン君(ナイーブ君)といわれてもやはりこれは書いときたいのよ、僕も。

*1:つうか三重野氏の人事への関心=自分と速水氏の人事で長期停滞が生じたわけだが