吉田満と日本銀行


 『戦艦大和ノ最期』(講談社文芸文庫)と粕谷一希『鎮魂 吉田満とその時代』(文春新書)を読む。

鎮魂 吉田満とその時代 (文春新書)

鎮魂 吉田満とその時代 (文春新書)


 前者に登場する臼淵大尉の発言に非常に魅かれる(Fellow Travelerさんのコメント参照のこと)。彼を対象とする吉田の著作も読んでみたい。粕谷の本では、本ブログに最も関連するのは、やはり日銀関連であろうが、先にとりあげた粕谷の本が記述が豊富である。むしろ本書には大正デモクラシー期に生を享け、当時の日本の最良の教育をうけた人物の環境や人間関係、価値観などが詳細である。粕谷の『河合栄治郎』はほとんど感心しなかったのだが、この吉田満に関する記述の精彩はなんということだろうか。またニヒリズムともいうべき過去の機械的な忘却を選択するエリートたちと 吉田満がなぜ異なるのかが、全体を通じて納得できるように論じている。それはこう書くと単純すぎるかもしれないが(むしろ単純ゆえに持続できたといえるかもしれない)、「自分とはなんであるのか」「(自分とそれにかかわった人々が)生きること、生きたことの意味とは何か」という問いを執拗に反復して追ったことであろう。ところで吉田の日銀時代とそのおかれた境遇については、千早 耿一郎 『大和の最期、それから』が詳しいらしい。そのうち読まなくてはいけない。大和と日銀という日本を代表するエリート集団からなる組織の問題を粕谷と吉田の著作は教えてくれた。