ローベルト・ムージル『日記/エッセイ/書簡』


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ムージル著作集 第9巻 日記/エッセイ/書簡

ムージル著作集 第9巻 日記/エッセイ/書簡


 ムージルのO.シュペングラー批判「精神と経験」(1921)、「理想としての国民と現実としての国民」(1921)、「どうしようもないヨーロッパ、もしくはあてどもない旅」(1922)を再読。


 「精神と経験」はシュペングラーの『西洋の没落』に展開された文化相対主義批判を展開したもの。


「シュペングラーはこう言う。「現実というものは存在しない。自然とは文化の一関数である。もろもろの文化がわれわれの手の届く究極の現実である。われわれのごく最近の時代の懐疑主義は歴史が生んだにちがいない」。それではなぜ梃子はアルキメデスの時代にも、そして楔は旧石器時代にも今日と同じように働いていたのだろうか。猿でさえまる静力学と材料力学を学んでいるかのように梃子と石を使うことができるのはなぜなのか。そして豹が、まるで因果性を知っているかのように、足跡から獲物の存在を推量したりできるのはなぜか。もし人が旧石器人とアルキメデスと豹を結びつける一つの共通の文化を想定したくなければ主観の外側に存在するある共通の調整装置を仮定するほかにありえない。つまりは経験、それも拡張し洗練することのできる経験であり、認識の可能性である。真理、進歩、上昇のありよう、要するに、認識の主観的なファクターと客観的なファクターのあの混合物であり、それらは分離することこそ認識論の辛抱強い分別作業となるのだが、シュペングラーはそこから身を遠ざけている。思考の自由な飛翔にとってはこの作業は邪魔になるだけだからである」(邦訳82ページ)。


「シュペングラーはある箇所でこう強調している。認識とは内容であるだけでなく生きた行為でもあると。その彼が途方もないほどに見落としているのは、認識が内容でもあることなのだ。ところがわれわれの精神状態を特徴づけ、また規定しているのは、まさしくこの到底太刀打ちできない内容の夥しさであり、膨大な事実知の山であり(道徳的な事実も含め)、自然の表面で経験が四散すること、見渡しがたいもの、否定しさることのできない事実のカーオスあのだ。われわれはそのために没落するか、さもなくば、より強固な魂をもつ人種となってそれを克服するかのどちらかだ。であるからには、誤った懐疑主義によって事実からその事実の持つ重みをうばうというやり方で、この途方もない危機と希望を奇術師よろしく隠してしまうことは人類にとってなんの意味もない」(邦訳82頁)。


 ところでムージルはシュペングラーに代表されるような「イデオロギー」の特徴として、ムジールの用語でいう「ラチオ(ratio)的」なものと「ノン・ラチオ的」なものとの対比に注目します。これは数学や科学などの合理的推論=ラチオ的なもの と直観や感情による把握といった「ノン・ラチオ(non-ratio)」的なもの との対比です。


 この対比は、日本における三木清の試みー「ロゴスとパトスの統一」に結び付けることが可能でしょう。ムジールはシュペングラーはこの「ラチオ」「ノン・ラチオ」の対比を、後者に主に過剰に傾斜したイデオロギー的態度として解釈している。このムージルの批判は、三木の試みへの批判にも役立つだろう。


「シュペングラーにおけるほど、見事で、力強い形成の萌芽はめったにお目にかかれない。しかし、直観なるものの全内容がとどのつまりゆき着くところは、最も重要なことは語ることも取り扱うこともできず、理性に関しては極端なまでに懐疑的である一方、(つまり、真であること以外になんの取り柄もないものに対して!)たまたま思いついたことならなんでも信じてしまうというありさま。数学は疑うが、文化とか様式といった芸術史上の真理の義手や義足は信じている。直観を売り物にしているくせに、事実を比較したり、組み合わせるときには、経験主義者がするのと変わりがない。いやもっと拙劣で、弾丸のかわりに煙ぶっ放しているようなものだ。以上が、継続的な過度の直観の服用によって軟化したわれらの時代の精神、美的精神の臨床像である」(邦訳93ページ)。


 以下、続く。