一本スジの通った「複素経済学」を学ぶために


 最近、ちまた(ネット)で流行るものといえば、栗原裕一郎さんも注目しているトレンドがあります*1

 いまニセ経済学が熱い
 http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20080421#1208763350

 :優柔不断はダメダメ!

メディアはもっと毅然としなきゃ!!

いろいろな意味で一本スジがとおっている岩波や朝日を見習って!!!(苦笑):


 そんな栗原さんのいうところの「一本スジがとおり過ぎたいあなた」(誰のこっちゃ?)におススメするのが以下の本です。ニセ経済学もとい、複素経済学や超合金経済学や多元宇宙的街角経済学を「本格派」の土壌にまで持っていくならば次の六冊はぜひ読んでおきたいところ。つうか以下の本ぐらい読んでないのに新書レベルいくら読んでも僕の複素経済学のレベル10段に遠く及ばない(私、自慢ではないですが、複素経済学を批判するためには批判する側をよく知らねば、という立場です)。


 まずは根岸隆先生が『ミクロ経済学講義』の中で参考文献にあげている本で、それを真にうけて読破した人は僕の周りでは僕しかいまのところいないのではないか? と妄想している以下の本(十年以上前に読んだので中味ほとんど忘れてるけども)。これは例えば複素経済学ブログが喜んで掲示していた図に極めて似ているものも掲載されている(スキャンするの面倒なので省略)。まじめにいって掛け値なしの本格派エントロピー経済学で著者は現代オーストリア学派の権威のひとり(M.Faber)が参加している。凡百のこの手の本を読むよりもこれ一冊を熟読することをおススメしたい。



Entropy, Environment and Resources: An Essay in Physico-Economics

Entropy, Environment and Resources: An Essay in Physico-Economics


 さて上記エントロピーの経済学に至るまでの経済思想の流れをきちんとフォローしたものではやはり以下のものがすぐれもの。これは翻訳もでているのでぜひ挑戦をすすめたい。多くの人は上の本が英語でかつ高額でかつ入手困難なために、この本に走るかもしれないが、普通であればこの一冊でお腹破裂は間違いない。いや、本当にいい本ですよ。


エコロジー経済学―もうひとつの経済学の歴史

エコロジー経済学―もうひとつの経済学の歴史


 そして次はこの種の話で忘れてはいけない日本の先駆者。そして不覚にも院生時代には「こんな本すぐ消えるよ へへへ」と友人に放言し、いまに至るまで(多分)、その友人から「(根岸先生や八木紀一郎先生が評価をしているなどで)田中さんの見込み違いでしたね」と指摘され続けている熱い本を紹介する。それは城島国弘氏の『経済学と物理学』である。経済学の体系をそのまま物理学の体系に同型対応(イソモルフ)を用いてアナロジカルな関係以上のものを摘出しようと試みたまさに言葉の正しい意味での怪著である。これに匹敵するのは『量子ファイナンス工学入門』以外日本には現存しない。僕は自分の不覚を恥じてしまい、いまでは日本で一番の城島ファン(いや、別に賛同しているわけではなく結果としてすごく読んでる)を自称している。複素経済学がどうのこうのという前に本当に複素数が飛び出しかねないこの本を読んでからふつうの(?)経済学に挑戦すべきである。そうでなければただ複素経済学以前のお遊戯段階であり、複素経済学を謳うのも「どうなのよ?」的所業であろう。例えば次の城島の一文には如実に複素経済学の本質が結晶しているだろう。この認識に至らないものが複素経済学を謳うのはいかなるものも笑止である。


「価格の概念をこのように解すると、これは量子物理学における光量子(photon)の概念と完全にイソモルフに対応する」(同書第1版95頁)



経済学と物理学―同型対応(イソモルフィー)による学際研究

経済学と物理学―同型対応(イソモルフィー)による学際研究


 なお城島先生には、戦前の中国を舞台にした壮大な(一部激しいベットシーンを描いた)小説もあり、これも複素経済学の実証というか実体験として重要であろう。またもちろん複素経済学の支持者であったり有段者であると自称するものは、もちろん例の図表に近いアイディアが掲載されている城島の『社会のライフサイクル』を紐解き熟読すべきだ。稀観書であるとかどうのこうのは理由にならない。これを読んでいないものは自称10段の私のレベルには遠く及ばない。


大連港―ありし都の物語

大連港―ありし都の物語



 さて三冊目は古典である。そして堂々たる翻訳もあり、高額であるが複素経済学に魅せられたものは一家に一冊はあたり前であろう。一歩もここで購買意欲を挫いてはいけない。版元品切れの場合は神田古書店や世界のネットをすみずみまでしらべても手にいれておきべきだろう。なおこのお手軽版が翻訳でもあるがおススメしない。原典はやはり原典を読むべきなのである(私のように通であるともちろん原書も所有すべきであろう)。


エントロピー法則と経済過程

エントロピー法則と経済過程


 ところで複素経済学の信奉者は他方で妙に現場の民間エコノミストに弱い。これは現実感覚や野生の勘に敬意を表するという野生の本能(?)からきているのかもしれない。もっとも経験知や勘、現場感覚を唱えた今日の民間エコノミストのさきがけである高橋亀吉は、実は当時の最先端の経済理論を積極的に摂取、それを応用していたのであり、それをあえて積極的に表明していないのは単にライバルたちに手の内をみせないための戦略だったのである。そのライバル封じの方便であった「現場感覚」を、後の正直者が真にうけて今日までそういった世間知経済学が一人歩きできると思いこんでしまったのである。


 とはいえ、ここでも複素経済学的エコノミスト分析を紹介しよう。大自然界と通常の経済圏とを結ぶ上の図に魅了された人たちも、さすがにサザエさんには思いを最近まで致すことができなかったが、この嶋中氏のデビュー作はいまだに輝きを失わないすぐれものであり、一読をすすめる次第である。


太陽活動と景気

太陽活動と景気



 さてトリであるが、本来ならばここで『量子ファイナンス入門』でも持ち出せばいいのだが、もうすでに出したので別なものにしたい。シューマッハーガンジー、デリーらも予想の範囲内であろう。むしろここでは重要な複素経済学の祖の原典をあげておこう(原著出版は1926年)。今日の複素経済学とネットで名指しされた書籍が冒頭で財政危機を持ち出すのが定番であるだけに、彼のいまや古典的な議論は重要であろう。複素経済学のファンならばかならずや彼の名前を知っていることだけに(知らないものはふつうの?経済学でアダムスミスを知らないのと同じであり、その無知を恥じるがいい)複素予想の範囲内であろう。

Wealth, Virtual Wealth and Debt

Wealth, Virtual Wealth and Debt

 なお私はとりあえずまじめにこのエントリーのお勉強ガイドを書いた。複素経済学の道を勝手にいくものの参照にされたい。なおその道については当方は無保証である。

野口悠紀雄『戦後日本経済史』


 野口氏の1940年体制論は、歴史的、方法論的、経済学的なさまざまな根源的な批判に晒されているにもかかわらずその支持者が耐えることはない。ひとつには官僚支配=社会主義国日本=旧弊打破 といった図式が勧善懲悪的にわかりやすいのだろう。


戦後日本経済史 (新潮選書)

戦後日本経済史 (新潮選書)

 歴史的、方法論的、経済学的なさまざまな根源的な批判として以下のものをご紹介(あとで加筆予定)


 中村宗悦さんの論説
 http://chronicle.air-nifty.com/historical_amnesia/2006/02/post_1bcb.html


 原田泰さんの書籍

 

1970年体制の終焉

1970年体制の終焉

 田中の論説『経済論戦の読み方』から抜粋
 :さて戦後の高度経済成長の成功が、日本的システム(銀行・大企業への護送船団方式、有能な官僚組織による産業政策、それに日本型雇用システムなど)により可能になったが、国際的な経済・社会環境の変化によっていまや日本的システムが経済の停滞をもたらしていると考える常識はいまも相当根深い。われわれはこのような見解を、「日本的システム機能不全説」あるいは「日本的システム=構造問題説」と名づけた。
 ここでいう構造問題の「構造」という言葉は、雑多ながらくた箱に似ていてなんでも受入れかねないものだが、それでも改革されるべき「構造」として、多くの人々は「日本的システム」を脳裏に思い描くに違いない。終身雇用制、年功序列制、企業内組合といった企業の「三種の神器」、「護送船団方式」といわれた官僚主導の経済システムである。そしてこのような「日本的システム」を構造改革の対象として明示したバイブル的存在こそ、野口悠紀雄青山学院大学教授)の『一九四〇年体制』(東洋経済新報社、1995年)である。
 野口の主張は以下のように整理できる。先の「日本的システム」が1940年代の戦時統制経済において基本的に形成され、戦後も高度経済成長の原動力となるなどきわめて有効に機能した。しかし、それがうまくいったのは欧米への「キャッチアップ」段階までのことであり、その段階を終えた現時点では、いまや経済成長の障害になってしまった。この障害たる「日本的システム」を改革できるのは、「構造改革」しかない、というものだ。
 この野口の明快ともいえる一九四〇年体制テーゼは、理論的なさまざまなヴァージョンを伴いながら今日も強く支持されている。例えば、リチャード・カッツ(ジャーナリスト)の『腐りゆく日本というシステム』(東洋経済新報社、1999年)、池尾和人(慶応義塾大学教授)らの『日韓経済システムの比較制度分析』(日本経済新聞社、2001年)、立花隆(ジャーナリスト)の「現代史が証明する「小泉純一郎の敗退」」(『現代』2002年3月号)などであり、経済学者に加えてカッツや立花のようなジャーナリストに支持者が多いのも特徴だ。おそらくこのテーゼのわかりやすさが広汎な賛同者を得るのを可能にしている。
 官僚が統制した経済が半世紀以上持続し、90年代以降の日本経済の停滞をもたらしている。犯人=官僚と「三種の神器」を採用する経営者・労働者、改革方針=システムの破壊、と勧善懲悪的にはすっきりしたシナリオが書ける。
 野口自身が、この一九四〇年体制テーゼを本格的に提唱したのは、同書発行より二十年近く前に遡る。当時、大蔵官僚であった榊原英資慶応義塾大学)との共著「大蔵省・日銀王朝の分析―総力戦経済体制の終焉―」(『中央公論』1977年8月号)である。榊原・野口はこの共著論文で、日本の経済体制の核心部分として「大蔵省・日銀王朝の支配」を指摘し、この「王朝の支配」に反を唱えた。大蔵省・日銀主導の「日本的システム」の廃止を主張した若き野口らの発言は一部の論者に好意的に評価された。官僚主導経済として、日本の「構造」問題を指摘する野口らの手法は、前川レポートなどの政策提言、開発主義的な主張を展開した村上泰亮の『反古典の政治経済学』(中央公論社、1992年)などに代表される強力な「同伴者」を得て、今日では政府や論壇の中で一大勢力をもつまでに膨張した。
 しかし私はこのような野口に代表される「構造」的、「システム」的発想は、経済的な問題をきわめてステロタイプ化してしまう、閉ざされた思考形態であると思う。実際に、半世紀も同じシステムが持続して影響力をふるうことができるのか? 野口の一九四〇年体制テーゼに対して、原田泰の『1970年体制の終焉』(東洋経済新報社、1998年)では、時代的に「日本的システム」は近時の産物であり、しかも経済資源の非効率の使用を招く政府の諸規制によるものが大半であり、その意味では「システム」を変更することで問題が片付くのではなく、政府の不当な市場への介入が生じないように絶えず注意するべきだと主張している。
 さらに私が重要に思うのは、一九四〇年体制テーゼでは、資源の誤配分によるミクロ的な非効率性と、資源の遊休(=失業)によるマクロ的非効率を峻別する視点が欠けていることだ。構造改革主義者の多くが70年代は「日本的システム」の悲観者であり、80年代では支持者であり、90年代にまた悲観者に戻ったのは、このマクロ経済への認識の欠如による(コラム1参照)。例えば、80年代はいまよりもずっと規制の多い経済であるにもかかわらず、90年代から今日にかけてよりも高い成長を達成した。それは、低い失業の実現というマクロ経済政策の一応の成果ゆえであった。反対に、規制緩和が曲がりなりにも80年代よりも進んだ今日、経済が停滞しているのは、まさにマクロ経済政策の失敗によるのである。:

一発屋の経済学


 主に芸術家における二つのキャリア形成(一発屋=早咲き型と大器晩成型)を理論・実証的に考察した著作。芸術家個別の活動を経済学的に分析する手法があまり一般的でないだけにかなり希少価値のある貢献。実はアイドルの経済学ネタで準備したまま放置していたもの。この種の業績もTyler Cowenの一連の著作と関連してとらえると、日本ではまだ未開拓な文化経済学の新領域を開拓できるかもしれない、と思った。


Old Masters & Young Geniuses: The Two Life Cycles of Artistic Creativity (Evolutionary Biology)

Old Masters & Young Geniuses: The Two Life Cycles of Artistic Creativity (Evolutionary Biology)

福岡正夫『ゼミナール経済学入門』を18年ぶりに買うの巻

 というわけで2000年第3版を購入。前回購入したのが90年の第2版のときで記憶が間違えてなければこの第2版を使って大学院の修士課程を受験したと思う。このテキストのいいところは、経済学史(経済思想史)や経済発展論や一部労働経済学系など応用分野の人たちに便利な仕様になっていること。これは歴史系・応用系では、政策や当事者たちに過去の経済学の遺産がこびりついていることが多いためその理解が必備だから(同様の問題意識にたつものとしてDavid Laidlerのこの論文The Role of the History of Economic Thought in Modern Macroeconomicsを例示しておきます)。少なくともこういった問題意識に立てばこの福岡先生のテキストよりも優れたものは今の日本には見当たらない。もちろんゲーム理論など最新のツールが不十分なのだがそれは他の本で補えばいいだけ。まあ、これを購入したのは学生指導用でもあるんだけれども、いま部分的に再読してみて面白さを再確認。


 例えばマニアックなのだが 笑 「混合資本主義体制」の章は市場の欠落性、政府の失敗などを織り込んでこの種のテーマを教科書レベルではかなり丁寧にフォロー。第7章「需要・供給の法則」は一般均衡研究で有名な著者のおはこなだけにマニアックな視点(超過需要関数の性質、均衡点の存在証明など)全開で気軽に同種のテーマを読めないので重宝。第10章「資本および不確実性」は、最近リバイバル著しいハイエク、ナイトらの理論をおさえるこれまたマニアックなコネタ満載でやはり同種のテーマを教科書レベルでまとめて読めるのはこのテキスト以外なし。第17章の「景気循環論」「経済成長」も古典的ネタからカオス、内生的成長理論、最近よくみかける反成長論や終末論批判などトンデモ経済論批判まで備えたすぐれものの章。第20章「経済発展」は経済発展論を学ぶ人には重宝間違いなしの古典的(でもいまだに現役な開発イデオロギー)話題の総まとめとして使える。最後は、マルクスシュンペーターケインズの経済思想をそれぞれ批判的に検討していて、特にいまだに人気の高いシュンペーターの資本主義没落論やイノヴェーション理解についての問題点の指摘はやはり本書ならではの特色で安易なシュンペーターの援用を批判的にみる視座を提供している。


ゼミナール経済学入門

ゼミナール経済学入門

上野泰也『デフレは終わらない』


 詳細な感想はecon-economeさんのと大して変わらないので、ここ(特に追記の部分)を参照されたし。


 ただ最初の「デフレは終わらない」の章は名前や名称もでてこないけれども、クルーグマン流動性の罠論文や『恐慌の罠』におさめられたデフレ観そのものを、今日(08年)ヴァージョンで読み直したもので面白い。上野さんが「構造的」なデフレといっているのはそういう趣旨でしょう。他にも同じ章にこれまた名称はでてこないが、景気上昇→賃金上昇の困難性というのも、その批判する先は例の「日本銀行のダム論」のロジックそのもの。これまた08年ヴァージョンとして興味深く読める。


デフレは終わらない―騙されないための裏読み経済学

デフレは終わらない―騙されないための裏読み経済学


 これ最近ある編集者の人とも話したけれども、『エコノミストミシュラン』を編著者のみんなと作成したときに、落合女史が作成したエコノミスト分布図というのを付録でつけました。この分布図で描いた当時活躍していたエコノミストたちの勢力が、ここ1,2年で劇的に変化しているのではないか、ということが話題になったのです。もちろんあそこの図でとりあげた人たちは等しくご存命で活躍されてはいますが、それでもその活躍の度合いやら活躍している分野の移動(例えば経済評論から経営指南に変化した人など)、また新人現るの度合いなどもかなりここ1,2年で異なるものになった、というのは僕も率直に思うところ。その代表のひとりとして上野さんを挙げることができるのではないか、と思います。

Beck:Everybody's Gotta Learn Sometimes


 曲名・歌手名を死ぬほど憶えない習慣(たぶん生まれたときから)の持ち主なので公に備忘録公開しとけば絶対に記憶するインセンティブが付与されるのでこのエントリーを。曲に関しての情報も少し期待。これはいま起きたら聞こえた音楽。映画も好きだった。全般的にボサノバやこういう倦怠感ある曲が好き。