主張の検討以外に騙される人たち(論理で人をだます法回顧)

 ある主張Xを言う人に対して、そのXを言う際の手順(事前交渉したのか等)や見かけ(いきなり叩きだすような姿勢こそ問題)などに注意を払わせ、X自体から関心をそらす手口。ゲーラ『論理で人をだます法 』(山形浩生訳)などでおなじみ。わりと古典的。

http://www.amazon.co.jp/dp/4022500840

 いま簡単に検索したけど小泉政権末期や第一次安倍政権の時代に、こういうゲーラの『論理で人をだます法』みたいな嘘のつき方、詭弁、問題のそらし方、ディベートで相手を真理に関係なくやりこめる方法などの書籍がわりと多く発売されてたみたい。偶然か時代の要求なのかわからないけど。

 多くのひとは詭弁術やディベート術のノウハウ、それを応用した他者説得法や誘導法について理解しているわけでも防衛するコツを知っているわけでもない。それで『ダメな議論』(飯田泰之)、『ウンコな議論』、『論理でだます方法』などが経済政策界隈でも読まれた。今はそういう風潮はなく無防備

 だんだん思い出してきた、そもそもsynodosの誕生の背景にもこの種の風潮があったはず。世論、ネット世論を含めて、先ほどの主張X自体の検証ではなく、それを語る際の手法・言い方・雰囲気・語り手の属性などに騙されないような知識を求めよう、という姿勢。シノドスの姿勢に新鮮さを覚えたのは、僕がさらにその前、2001年に始め02年夏まで編集の中心にいた猪瀬メールマガジンには、そういう主張X以外にだまされない姿勢、という観点が抜けてたからだ。学者中心なのでX自体の是非を語る姿勢がわりと当たり前。ナイーヴすぎた。

 例えば主張Xが構造改革的発言(構造改革なくして景気回復なし)だとしよう。このX自体が経済学の観点から正しいか間違ってるかを論じることに傾注していたのが、猪瀬メルマガや初期の僕。ちなみにこの例の発言(構造改革なくして景気回復なし)は経済学的に誤り。その指摘が中心。ピークはエコミシュ。ところが現実の政策の場やメディア・世論では、このX自体の是非だけでは話がすすまない。先ほどのシノドスの姿勢についての僕の言及参照(X以外のものへの注目)。もちろんシノドスは一例で、僕らもエコミシュの次にやったのは、このXの是非だけでは政策形成や世論の理解がなぜすすまないか、の検証。その学術的成果が、野口旭編著『経済政策形成の研究』(ナカニシヤ出版、2007年)。この内容紹介はまたいつか。高い本なのでぜひ図書館に行って借りて見てほしい。

論理で人をだます法

論理で人をだます法

ウンコな議論

ウンコな議論