アマルティア・セン『アイデンティティと暴力』

 例えば僕の研究している領域でもマルクス主義+熱心なキリスト教徒という経済学者がいる。これは人間のアイデンティティを単一のものとしてしかみなさい人たちからみると矛盾しているか、なんらかのごまかしているようにしか思えないだろう。でも、人間のアイデンティティの複数性があたりまえだと思えばこの「矛盾」とか「ごまかし」とかいう見方はあてはまらないだろう。

 「日常生活のなかでわれわれは、自分がさまざまな集団の一員だと考えている。そのすべてに所属しているのだ。国籍、居住地、性別、階級、政治信条、職業、雇用状況、食習慣、好きなスポーツ、好きな音楽、社会活動を通じて、われわれは多様な集団に属している。こうした集合体のすべてに人は同時に所属しており、それぞれが特定のアイデンティティをその人に付与している。どの集団をとりあげても、その人の唯一のアイデンティティ、また唯一の帰属集団として扱うことはできない」20頁。

 このセンの説明にネットの空間、物語空間を重ねることで議論を拡大することができることを数日前のエントリーでもみた。このアイデンティティの複数性に対立する見解が、アイデンティティを単一のものと強固に主張している文明の衝突型の議論だ。センは文明の衝突型の議論には手厳しい批判を展開している。また「宗教連合」的な見方(本書ではガンディーの議論との関連が展開されていて非常に刺激的だ)やコミュニタリアン的な見方(サンデルの議論などはその典型だろう)についても、センはそれらの考えが事実上のアイデンティティの単数性に依拠しているとして批判している。

 経済学でも長くアイデンティティの単数性についての信奉があった。そのうちアイデンティティをめぐる議論は消滅してしまいつい最近までろくに議論されることはなかった。単数性のプロトタイプの議論は、アダム・スミスに端を発しジェームズ・ミルで体系化される英領インドの統治論にうかがうことができる。そこではインドの文化の特徴が単一のものとして記述され、それが停滞をまねき独力では経済発展できる心性ではないと断じられている。対して、イギリスの統治側は別の単一な性格=経済発展を独力で行える、という性格が付与されていた。後にこのような見方はサイードによってオリエンタリズムとして批判された。このスミスーミルの人間観(アイデンティティの単数性)は古典派経済学を貫いている(例外はJ.S.ミルだし、スミスだって実は複数性を支持してはいるのだ)。だがまだ古典派はアイデンティティを議論していたのだが、後年は先にも指摘したが後年はなかなかそれが経済学の中心的な話題にならなかった。アイデンティティの問題はセンのいうように重要である。社会のより望ましい方向を議論するときも、人がなぜ暴力にはしるかを考察するときにも。

 訳文は最近トレンドになりつつある経済の専門外だが翻訳能力にたけた人と、経済学の専門家のコラボの成果であり、読みやすい。

アイデンティティと暴力: 運命は幻想である

アイデンティティと暴力: 運命は幻想である